窮屈さを感じる人に、1つの出口を提示したい!日本を飛び出してニューヨークで掴んだもの。
フリーランスでライターやWEBを用いたPR・集客、留学の相談など様々な活動をされているかみむらさん。大学を中退しアパレル企業で働くも、日本に窮屈さを感じて飛び出してニューヨークで生活をしていた経験などから、どのように今の活動につながっていくのか。お話を伺いました。
かみむら ゆい
かみむら ゆい|ライター、PR支援、留学相談
フリーランスとして、ライター、PR支援、留学相談など、幅広い活動を行う。
書籍『ビジネスに活かす留学なら日本人とつるもう』
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ずっとここにいるわけじゃない
私は奈良県の生駒郡という、法隆寺のある田舎町で生まれました。
父は祖父から継いだ会社の経営者、母は本好きで、家にはたくさんの本が置いてありました。その影響か、小さい頃からマンガやアニメよりも小説が好きで、小学生の頃には夏目漱石なんかも読み始めていました。本を書く人はどういう人なんだろう、将来は私も本を書いてみたい、なんて思っていましたね。
両親は私が欲しいと言ったものや、やりたいと言ったことに対して、「ダメ」ということはありませんでした。だからといって好き勝手させてもらえるわけではなく、いつも理由を聞かれていたんです。「なんでそれ欲しいの?」って。その答えが「みんな持っているから」とかではダメで、自然と何をするにも考え、目的を持つようになってきました。
また、私の家は両親の友だちなどが県外からよく遊びに来ていて、その子どもである高校生や大学生のお姉ちゃんたちと触れ合うことが多くありました。そのお姉ちゃんたちはおしゃれで、かっこいい彼氏がいて、私にとっては憧れの対象でした。そして、中学生になるとそのファッションを真似るようになっていきました。
すると、学校では目立ってしまい、いじめられるようになりました。ちょっと人と違うことをしただけなのに、ドラマみたいにひどい目に合いましたね。でも、別にこの場所でずっと生きていくわけじゃないと思っていたので、あまり気にしてませんでした。
そして高校は都会に行きたいと思い、家から電車で20分位でしたが、大阪の高校に通うことにしました。
大学ではなく働く1年を
高校は女子校だったこともあり、おしゃれをしたり、お笑いやライブを見に行ったり、とにかく楽しんでいました。ただ、勉強は嫌いじゃなかったし、本は好きで相変わらず読んでいました。
そんな高校生活を送るうちに、将来は好きなファッション業界で働くか、弁護士になりたいと考えるようになっていきました。ファッション業界で食べていくのは厳しいかもしれない、そうであれば自分みたいなタイプが固い職業の弁護士になったら面白いかなって思ったんです。
そして、東京にある大学の法学部に進学することにしました。しかし、実際に入学してみると、法律の勉強はあまり好きにはなれませんでした。法律の条文はやたら難しい言葉が使われていることで、シンプルなことも伝わりづらいことに違和感を覚えてしまったんです。
また、大学自体に幻滅してしまいました。私の通っていた大学は、付属高校から受験せずに進学している人も多かったからか、なんとなく大学に来て目的意識もなくふらふら遊んでいる人ばかりで、「この人はなんで大学にきているんだろう?」と思う人が多かったんです。さらに、そんな人たちが3年生になるとみんなリクルートスーツを着て就職活動をしているのも違和感しかありませんでした。
そんなことを感じながら、3年生の頃、居酒屋でアルバイトを始めました。私にとってこれが初めてのバイトで、「働くのってなんて面白いんだ!」と思いましたね。色々なお客さんと話せて世界が広がったし、自分が工夫することが結果につながるのが楽しかったんです。
もっと早くアルバイトをすれば良かったと思ったし、このまま大学に居続けではダメだと考え、早く働こうと、3年の終わりには大学を中退して、アパレル企業で勤めることにしました。
外へ、外へ
アパレルショップの店員としての仕事は、とても楽しかったです。私は負けず嫌いだったこともあり、何かしら工夫をして販売するようにしていて、店の中でも売上はトップでした。すると、次第に他のスタッフの教育や、他のショップと比較した改善提案など、様々な仕事を任せてもらえるようになりました。
しかし、昇進するのは、売上にかかわらず年齢が上の先輩と決まっていました。年功序列の日本社会。しかも、小さい頃から服装が違うだけでいじめられたり、何かに挑戦するときには否定されたりし続けたことも重なり、私は日本社会にうんざりしてしまいました。
そして、このまま日本に居続けて良いのか疑問に感じたので、2年間働いた会社を辞めてニューヨークに半年ほど留学することにしました。
ニューヨークで通い始めた英語の語学学校には、日本から来た人が多くいました。その人たちと話すと、中には1年以上ニューヨークにいるのにあまり英語を喋れない人もいたんです。「いったい何しに来ているんだろう?」と思うと同時に、このままこの語学学校にいるだけでは成長できないんじゃないかと考えるようになっていきました。
そして一旦は英語の勉強に集中して、英語漬けの生活をして3ヶ月ほど経った頃、ニューヨークの大学に留学している日本人大学生向けの就活セミナーがあり、参加してみることにしました。私は日本の大学生でもなければ、ニューヨークの大学に通っているわけでもなく、まったく条件には当てはまっていませんでした。でも、帰国したら「就職するんだろうなぁ」となんとなく思っていたんです。
魅力を届けるPRと言う仕事
しかし、そのセミナーは衝撃的でした。登壇していた広告代理店のニューヨーク法人の取締役の人は、就活セミナーなのに、「就活はしなくても良い」と話していたんです。自分のやりたいことが見つかっていないのに、周りの人がするからと言う理由なんかでしないで欲しいと。また、ワークショップでも今まで考えたことのないような視点を見せてくれて、とにかく素敵な人でした。
その後、その人に声をかけ、ファッションをやりたいと考えていることや、語学学校に悩んでいること、ニューヨークの街にあふれる才能溢れる人をもっと多くの人に知ってもらいたいと思っていることなどを相談したら、「君はPRに向いていると思うよ」と言われたんです。その言葉がすっと心に入ってきて、それならPRをやってみようと思ったんです。
そして、すぐに50社程に連絡をしたところ、運良く1つの会社から連絡が返ってきて、お手伝いさせてもらえることになったんです。それもファッションのPRをやっている会社だったので運命を感じましたね。
そこで働いていくうちに、「もっと長くいたら?」と誘ってもらえたので、留学期間を伸ばすことにしました。しかし、半年の予定で来ていてそこまでお金もなかったので、住む場所の相談をするために、ニューヨークで不動産業をしている同い年の友だちに連絡をしてみました。すると、彼の仕事を手伝うということを条件に、格安で住まわせてもらうことになったんです。
しかも、彼は私にPRを進めてくれた広告代理店の方に可愛がってもらっていて、それからはその広告代理店の人にも再開し、師匠として慕うようになりました。
自分の足で立てるんだろうか?
その後、さらに留学エージェントでの手伝いや、フリーペーパーでのライターの仕事などを誘ってもらい、色々並行で動くようになりました。ライターの話をもらった時は感慨深かったですね。執筆者として自分の名前がクレジットされて、昔から夢見ていた物書きになれた瞬間でした。
そうやって、ニューヨークという異国の地で仕事の話を振ってくれたり、困ったときに相談に乗ってくれたりしたのは、ほとんど日本人の諸先輩方でした。先人たちが切り開いてくれていたお陰で、私たちは非常に居心地よく過ごすことができたので、とても感謝しました。
しかし一方で、「じゃあ自分たちはどうなんだ?」と感じるようにもなってきました。自分自身に切り開く力はあるのか、自分で立つ力はあるのか。日本に帰ってからも、自分で仕事を生み出せる力がついているのか。できる気になっているのが一番怖いことだと考え、自分の力で勝負できる力をつけるため、日本に帰国することを決めました。
帰国後は、紹介してもらったPR会社で働かせてもらいました。そこは多くの大手企業のクライアントがいて、WEBでのPRや集客の支援は学べることが多く、楽しく働いていました。ここでも負けず嫌いを発揮して、成果が出せるように努力を続けていきました。
しかし、ニューヨークで働いていた時と比べて、やっぱり窮屈に感じてしまうこともありました。発言すると「若いのに何言ってるの?」という空気になったり、どことなくみんな元気が無かったり。何よりも、私はPRを通じて、まだ日の目を浴びていないけど思いの詰まった良いものを多くの人に知ってもらうお手伝いがしたかったのに、クライアントの広報担当者の方は会社の数字を背負っているので、どうしても数字にばかり目が向いてしまう構造になっていて、自分のやりたいこととは違うと感じてしまったんです。
窮屈さを感じる人の、1つの出口に
そこで、2年程働いたその会社を辞めて、独立することにしたんです。
元々経営者視点を持ちたいと思い社長の動き方をずっと観察していたので、自分もできるんじゃないかと少しずつ思うようにはなっていました。とは言っても、独立する時はやっぱり不安は大きかったです。ただ、それでも独立したいと思ったのには、父の影響もありました。
父は経営者をしていましたが、私がニューヨークに行っている間に会社をたたみました。経営者としては正しい選択でも、父個人の感情としてはもっと経営を続けたかっただろうなと思ったんです。その父の無念を私が経営者として晴らしてあげたい、そんなことを感じたんです。
そして、今はフリーランスとして、大きく3つの仕事をしています。1つ目はライターとして、インタビューをしたり、記事やコラムの執筆で、2つ目は、WEBを用いた集客や、PR全般のお手伝いです。この2つの仕事は密接に絡むことが多く、例えばWEB集客支援の一環でプレスリリースを書いたり、WEBサイトのコンテンツをライティングしたりもしています。
そして3つ目は留学の相談を受ける仕事です。これはニューヨークで留学エージェントの手伝いをしている時に、「こんなつもりじゃなかった」と留学に行ったことに対してネガティブな発言をしている人にたくさん出会ったんです。それならば、留学に行く前に相談に乗ることで、ギャップを解消してあげたいと考えたんです。
また、この3つの活動を集約して、最近は電子書籍も出しました。留学に関する内容を自分で執筆して、WEB上で広報活動をしています。お仕事をさせてもらう上で、実績もないのに頼んでもらうことはできないと思いますから。
今の私の仕事は、働く場所を選ばずにできることが多いので、今後は世界中を旅しながら働くスタイルを確立できればと思っています。
また、将来はニューヨークに拠点を移したいとも思っています。ただ、ニューヨークは何歳になっても挑戦できる場所なので、しばらくは日本で今しかできないことに挑戦していきたいので、その1つとして、個人としてやっていくだけでなく、会社としても活動していきたいです。
私は昔から色々なことに窮屈さを感じて生きていました。それと同じように、今の環境に窮屈さを感じている若い人もたくさんいるんじゃないかと思っていて、私はそういう人たちに「こんな人もいるんだよ」「こんな出口もあるんだよ」ということを、自分の生き方を通じて見せていきたいと思っています。若い人に希望を失ってほしくないんですよね。
そのために、まずは自分が体現できていなければ説得力がないので、私自身の生き方を貫いていきます。
2014.12.09