中華圏と日本を繋ぐ架け橋メディアを作る。自衛隊、テレビ局、それから起業をした理由。
現在、月間40万人以上に見られている台湾人向けの日本旅行サイト「ラーチーゴー!日本」を運営する吉田さん。社会の役に立ちたいと、自衛隊を目指していた学生時代から一転してメディア・日本のコンテンツに可能性を見出すようになるには、どのようなきっかけがあったのか。「台湾では知らない人がいない」とまで言われる吉田さんにお話を伺いました。
吉田 皓一
よしだ こういち|中華圏と日本を繋ぐメディア運営
台湾人向けの日本旅行サイト「ラーチーゴー!日本」を運営する吉日媒體集團(ジーリーメディアグループ)のCEOを務める。
世の中の役に立つため、自衛隊を目指す
大阪で生まれ、奈良県葛城市で育ちました。小学生の時に阪神淡路大震災が起き、神戸に住んでいた親戚が被災しました。その時、救助活動に当たっていた自衛隊員の姿を見て、「世の中の役に立つのってカッコいい」と、憧れを持つようになりました。また『トップガン』などの映画も好きで、次第に本格的に自衛隊に入ろうと考え始め、高校生になる頃には防衛大学を目指すようになりました。サラリーマンの父の姿を見て、なんとなく同じ道を歩みたくないと思っていたこともあり、将来は自衛隊に入って、幕僚長まで上り詰めようと考えていたんです。
他の選択肢には目もくれず防衛大学に進学し、横須賀での寮生活が始まりました。夏は毎日何キロも泳いだり、重たい銃を担いで走ったりと大変ではありましたが、体力には自信があったので、慣れてしまえば問題ありませんでした。
ただ、寮という閉ざされた世界にいることで、初めて「外の世界」に目が向くようになったんです。土日は外出が許可されていたので、渋谷などの繁華街にも行きました。すると、防衛大学の真っ白な制服に身を包んだ私たちは、悪目立ちしてしまうんです。かたや、ハチ公の前ではテニスサークルの大学生が「新歓コンパ」の看板を手に楽しそうに話していて、「何だこの世界は」と、それまで知らなかった世界が非常に刺激的だと感じたんですよね。
しかし、寮に戻ると、規則に縛られた、日々同じことを繰り返す生活が待っていました。田舎で育ち、自衛隊を目指す以外の選択肢を知らなかった私にとって、外の世界への憧れは日に日に強くなっていきました。また、防衛大学卒業後、自衛隊で昇進を目指していく、ある意味で決まりきった道よりも、先が見えない世界を魅力的に感じるようになったんです。
そして、元々航空自衛隊を希望していながらも、海上自衛隊への進路が明確になったこともあり、1年目の11月に防衛大学を辞めることにしました。
ソフトパワーの時代がやってくる
次に何をするかは決めていませんでしたが、とにかく大学に入り直してテニスサークルに入りたいと思っていました。そして、慶應大学の経済学部に進学しました。
在学中の4年間でやりたいことを見つけようと考えていたので、大学ではそれまで知らなかった世界に触れるため、色々なことをしてみました。バックパックを背負った一人旅や議員インターンシップ、アルバイトでも様々な職種を経験しました。もちろんテニスサークルにも入り、遊びも十分に行いました。
様々する中でも、中国語の学習には力を入れていました。周りに帰国子女が多くて、英語では勝てないからと中国語を選択したのですが、それが思いの外楽しくて熱中していったんです。授業以外でも中国人留学生と文化交流で喋る時間を作り、普通に中国語を使えるレベルまで習得しました。
一方で、少しずつ将来のことも考えていて、2年の時に読んだ、ジョセフ・ナイ氏の著書『ソフト・パワー』に強く影響を受けました。これからの時代は、それまでの軍事力や経済力といった「ハード」の力ではなく、文化やコンテンツなどの「ソフト」の力が国際競争の中で重要だと書いてあり、まさにその通りだと感じたんです。昔から世の中のため、日本のために何かしたい気持ちは強かったので、日本が持つ素晴らしいコンテンツを海外に発信したらいいのではないかと考えるようになっていきました。
そこで、コンテンツ制作力があり、海外との架け橋になれそうなテレビ局に就職することに決めました。4年の卒業直前でまさかの留年が決まり、内定取り消しなど多少の問題はありましたが、二度目の就職活動を経て、大学卒業後は大阪の朝日放送で働き始めました。
海外と日本をつなぐメディアの仕事とは?
最初から海外支局で働くのは難しいと分かっていたので、まずは実績を積むためにCM営業の部署に入りました。そこでの仕事は広告代理店の方と一緒に企画を考えることが多く、宴席なども含めて毎日忙しく過ごしていました。先輩や取引先にも可愛がってもらい、仕事も大きなプロモーションに携われてやりがいはありましたね。
ただ、テレビ業界自体に疑問を感じる瞬間もありました。日本の人口減少からも市場が縮小することは目に見えているのに、40年前から変わらないビジネスを続けていて、海外向け番組販売を強化したり、新サービスを始めたりする焦りがないことに違和感があったんです。とはいえ、3年は働かないと見えてこないものがあると考えていたし、自衛隊をやめた過去があるので、今回は簡単にやめられないという気持ちもあり、たまに違和感を感じる時はありつつも仕事を続けていきました。
しかし、いくら続けてもやりたいと思っていた海外と日本を繋ぐ仕事はできないと感じ、丸3年で会社を辞めることにしました。
大きな組織では意志決定に時間がかかると感じていたので、将来は独立することに決めていました。ただ、どんな方法で日本と海外を繋げばいいのか、まだ見えていませんでした。そこで、将来のことを考えながら仕事ができる環境の会社に転職することにしたんです。
新しく働き始めた会社は、海外貿易を行う物流ベンチャー企業で、中国との取引も多く、通訳的なポジションで働くことにしました。英語圏には自分より優秀な人が既に進出していると思いましたし、自分の語学という強みを活かすためにも、将来は中華圏でサービスをするべきだと考えていました。中国の事情も把握しつつ、何をしていくべきか考えながら仕事をしていきました。
中華圏でリスクが少ないのは台湾と香港
次第に、中国は事業リスクが大きいことが見えてきました。仕事をはじめた当初は、日本の各種メディアは中国進出をうたっていましたが、2012年に尖閣諸島の領土問題が勃発すると、世論は一転。また、外資企業に対しての締め付けが厳しいことや、政治リスクがあること、中国から撤退する時には免除されていた税金を請求されることなど、身をもって知ることができ、中国でのビジネスをするのは難しいことが分かってきました。
そこで目をつけたのが、台湾と経済特区の香港でした。日本と親和性の高い台湾と香港ならリスクも小さく、ビジネスチャンスがあると考えたんです。
台湾には、時間があった大学5年生の時に半年程暮らしていたこともあり、実情もある程度分かっていました。また、多くの人がFacebookを使っている国なので、うまく活用したら小さなコストで大きなことができると感じていたし、日本のものをローカライズするだけでも需要があることが分かっていました。そのため、まずは中華圏との突破口となる風穴を開けるため、日本の何かを輸出・販売しようと考えていました。
そんな時、飛行機の本数を航空会社が自由に調整できる「オープンスカイ協定」が日本と台湾で結ばれ、台湾から日本への旅行者が激増したんです。このチャンスを逃すものかと、2013年、台湾で日本旅行WEBメディア「ラーチーゴー!日本」を立ち上げることにしたんです。
アジアナンバー1メディアグループを作り、架け橋になる
台湾にはWEBメディアがそもそも少ないこともあり、日本旅行を考えている台湾人に一気に認知が広がりました。台湾から日本への旅行客は月25万人程度ですが、WEBサイトへのアクセスは月40万人を超えています。
日本と台湾をつなぐポジションが確立されたことによって、様々なビジネスの話をもらうようになりました。台湾人向けに日本を紹介するプロモーションだけでなく、日本人向けに台湾を紹介するテレビ番組の仕事なども携わっています。コンテンツ制作において競合との差別化を計るためにも、私自身も番組に出ることも始めました。
また、経営者になり、初めて部下を持つようになりました。昔の職場は男の人ばかりで、何かあっても「飲みに行けばOK」でしたが、今の会社は全員女性なので、そういうわけにもいかず、苦労は絶えないし責任も感じています。ただ、その分成長の瞬間に立ち会える喜びも大きいことを知りました。今までできなかったことができるようになったり、何も指示をしなくても自発的に動いてくれたりするのを見ると嬉しいですね。
今は旅行向けメディアのみですが、今後は様々なジャンルに展開していき、さらに台湾・香港だけでなく中華圏の多くの地域に拡大していきたいと考えています。そしてゆくゆくはアジアナンバー1のメディアグループになり、日本と中華圏を繋ぐ架け橋となれたらと思います。
そして、メディアの力を使い、日本の「ソフト」を中華圏に出していくこと。これが私にとっての、世の中での役に立っていく方法なんです。
2015.03.12