「弁護士」から「法律家」へ。法律を使いこなし、産業の未来を拓く。
弁護士として企業間の紛争解決などに携わるかたわら、アートやファッション、スタートアップなどの分野で、産業発展のために法律を活用したロビイング活動も行う小松さん。デザイナーや写真家などのクリエイティブな進路を考えていた高校時代から一転、高3から弁護士を目指し始めることに。どんな想いが小松さんを突き動かすのか、なぜ弁護士の可能性を広げるチャレンジを行うのか。お話を伺います。
小松 隼也
こまつ じゅんや|弁護士・法律家
長島・大野・常松法律事務所所属の弁護士。法律家。事務所では訴訟のスペシャリストとして幅広く企業法務に携わりながら、様々な産業のベースアップのために「法律家」として国や民間の間で調整役も担っている。
バンドを入り口にクリエイティブ系へ
長野県塩尻市で生まれ育ちました。ブドウ畑にかこまれた自然豊かな地域です。小さい頃から、山でカブトムシを採ったり缶けりをしたりしていました。
両親は放任主義で、小さい頃から好きなことを好きなだけやらせてもらいました。小学生から空手を始めて、毎日道場で練習し、全国大会にも出場しました。両親ともにプロレスが好きだったので、小さい頃から格闘技をよく見ていたんです。中学からは並行してサッカー部にも入りました。ちょうどJリーグが始まった時期で、部活と道場を行き来する日々を過ごしました。
高校からは、一転して軽音楽部に入りました。中三の時に空手で足を骨折してしまったことに加え、なんとなく、新しいことに挑戦してみたいという思いがあったんです。部内でバンドを組んで、平日は夜8時まで、土日も9時から夕方5時までひたすら練習しました。とにかく技術を極める雰囲気のレベルが高い環境で、体育会みたいな空気でしたね。ニルヴァーナとかミッシェルガンエレファントに憧れて、毎日音楽に没入していました。
音楽を入り口に、ファッションにも興味を持ちました。デザイン系の雑誌や写真雑誌を見初めて、広くクリエイティブなカルチャー全体に関心がありました。ぼんやりとですが、デザイナーとか写真家とか、そんな職業に就けたらと考えていましたね。
行き場のない憤りと弁護士への決意
バンド生活に明け暮れていた高校3年の夏、身近な人が事件に巻き込まれました。地元の人間関係の中で起きたトラブルでした。そして、結局その事件は明確に解決されないまま終わってしまったんです。
弁護士や警察は他人事に見えるし、被害者は泣き寝入りをして、報復もできない。不満だけが募って、人間不信になりました。なんとかできないのかと思いながら何もできない。このまま納得しなきゃいけない。何もできない自分に対して、行き場のない憤りを感じました。
法律ってなんでこんな不合理なんだろうと思いましたね。人生で初めて、自分ではどうしようもできないことにぶち当たりました。
そこで、「このルールを作る人か使える人にならないといけない」という使命感が生まれたんです。自分が何か力をつけなきゃいけない。その選択肢として浮かんだのは、弁護士でした。
もともと理系だったのですが、その時の悔しさから、がむしゃらに弁護士を目指して勉強を始めました。高三の夏まで文系受験の勉強をしていないので、合格できる法学部なんてありません。でも、「とにかく、俺はやらなくちゃいけない」っていう状況で浪人という選択肢はない。担任の先生からは本気で止められましたね。「もうすぐ定年になるけど、教え子で弁護士になれたやつは一人もいない。本当に難しいぞ。」って言われて。
それでも、どうしてもやらなきゃいけないという説得を半年間続けて、最終的には応援してもらえるようになりました。先生が学校を説得してくれて、理系の僕に、文系で一番偏差値が高かった指定校推薦の枠を取ってくれたんです。京都の私大の法学部でした。
それからは、とにかく弁護士になることだけを考えて学生生活を送ることに決めました。担任からのアドバイスで、本当に死ぬ気で勉強しないと合格できないから、2・3・4年生は全部勉強に使え、と。ただ、最初から勉強だけに絞っても絶対に心が折れるから、1年目は死ぬほどバイトをして資格学校代を貯めて、あとは遊べるだけ遊べって。
司法試験勉強、修行僧のような日々
実際に大学に入ってからは、教えを忠実に守り、バイトをしながらサークルかけもちでバンドもして、とにかく遊びました。
2年目からは、心機一転、修行僧のような日々が始まりました。大学の授業は最低単位だけ。資格学校に入って、ご飯もお風呂も法律の勉強に使いました。毎日3時間睡眠で、朝7時には起きて勉強を始める。彼女とも別れて、大好きだったクリエイティブとも完全に断絶しました。弁護士は簡単になれるものじゃない。もう勉強以外しちゃいけないんだろうって思ってましたね。趣味はもうありませんみたいな。
自分の経験が元にあったので、辛いという感覚ではなかったです。それよりも、司法試験の難しさを知った時に、これはとんでもねえなっていう焦りがありましたね。とにかく覚えなければいけないことがたくさんあって、それを忘れないように毎日腕に書いていたので、両腕真っ黒でしたね。ニルヴァーナを引きずっていたから、金髪で両腕が真っ黒で、周りからはやばいやつ扱いされていました。とにかく無心でしたね。
一つ追い風だったのが、僕が3年生の時に、「被害者参加制度」という、刑事訴訟に犯罪被害者や委任を受けた弁護士が参加することができる制度ができたことです。実際に法律が変わるんだなという希望が持てたのは大きかったですね。
大学4年で受けた司法試験で、無事合格することができました。目標にしていた在学中合格です。4年になってからは、努力が成果に繋がるようになり、模試の成績がよく、試験の手応えもあったので、ほぼ100%受かったなと思いました。
実際に結果が出た時はやっぱり嬉しかったです。親が喜んでくれたし、高校の担任もすごい喜んでくれて。それが自分の中でも嬉しかったですね。
長野ではなく、東京で弁護士に
司法試験合格後のことは、長野に帰って弁護士事務所をやるのかな、ぐらいにしか考えていませんでした。
そんな時、先輩が、在学中合格なので大手事務所に入れるかもしれないぞと誘われて、東京の事務所を見に行くことになったんです。僕も東京に行ってみたいと思い、先輩について行くことにしました。面接用の渡航費を出してくれるというので、業界で四大法律事務所と言われる4つ全てに応募を出すことにしました。
実際に東京の弁護士事務所に行ってみると、驚きの連続でした。高層ビルの中に数百人もの弁護士がいて、出てくる弁護士も若くてすらっとした人ばかり。自分の思い描いていた法律事務所と全く違ったんです。
話を聞いてみると、取り扱うのは企業法務専門で、企業同士の紛争や大規模な訴訟の話が中心。内容はとても面白そうだったのですが、自分がやりたい刑事事件や犯罪被害者保護とは業務内容がマッチしなかったんです。ありがたいことに、全部の事務所からオファーをもらったのですが、結局全部お断りしました。
そこからしばらくは進路に悩みましたね。最初は実家に帰ろうとも思っていたけど、東京だからできることもある。そんな中、1つだけ、長島・大野・常松法律事務所という事務所の採用担当弁護士から変わったオファーをいただいたんです。
「小松さんのやりたいこと全部やっていいよ」と言ってもらえたんです。うちは優秀な弁護士が400人もいて、全分野のスペシャリストが揃う。小松さんのやりたいことがもっと大きな形で最高のメンバーと一緒にやれるよって。更には、事務所の事件以外にも、刑事事件や犯罪被害者保護、クリエティブ業界の案件まで、やりたいことをやっていいと言ってくれたんです。
専門家の先輩たちが山ほどいて、みんな優秀で人柄が良くて、ここで経験を積めばやりたいことを最高のレベルで実現できるという具体的なイメージがもてる。そんな思いから、この事務所に入所を決めました。
法律を使う立場から変える立場へ
入所してからは、労働法や独占禁止法、大規模訴訟などの企業案件を事務所の仕事として行いながら、弁護士会の法律相談に入ったり、刑事事件や犯罪被害者の相談、友人からの法律相談なども受けました。そんな働き方だったので、想像の倍以上の忙しさでしたね。1年経った時に、仕事のこと以外何も覚えていなくて。
仕事は楽しかったですが、このままでは何かを見失ってしまいそうだと思い、一念発起して写真の専門学校に通うことに決めました。もともと、やってみたいという思いがあったので、プロカメラマンコースに入り、今後の自分の方向性を模索してみよう思いました。
専門学校に入ってからは、デザイナーやモデル、映画監督や経営者の方など、クリエイティブ業界との接点が増えていきました。その中で、ある時、一緒に共同制作をしていたアーティストの友人から「日本だとなかなか作品が売れないから海外に行く。その渡航費を稼ぐためのバイトをしないといけないから、共同制作はしばらくできない。」と言われたんです。才能のある作家なのにもったいないと思い、「だったら、バイト代1ヶ月分になるようなお金を出すから代わりに作品を創ってほしい」とお願いをしました。
初めて、自分のためだけに創られた作品を部屋に飾ってみて、すごく感動しましたね。同時に、こんなにいい作品を創れても、海外に行かなければ活躍の機会がない日本の美術市場の仕組みにもやもやを感じ始めました。
この経験がきっかけでコレクションを始め、コレクターやギャラリーとの接点が増えました。そこで気づいたのが、みんな日本の美術市場に対して同じような悩みをもっているということ。それならば、みんなで一緒に変えればいいんじゃないかと思い、弁護士として意見を集約して、国に伝えるという活動を始めました。報酬のない個人活動ですが、いわゆるロビイングに近い活動です。
一方、弁護士としては、3年目に大きな刑事事件を担当しました。加害者の弁護だったのですが、自分にできることをやりつくして、裁判員裁判の末に、合理的な判決に導くことができました。加害者の弁護を通してやりきった感を得たことで、被害者の感情から弁護士を目指したのに、なぜ加害者の弁護をする必要があるのかという自分の気持ちの中での重要な部分を整理することができ、訴訟弁護士としても大きな自信を持つことができましたね。
実力と経験がついてきた手応えから、次のテーマに視野が広がりました。入所して5年目の2014年、ニューヨークのロー・スクールに留学することを決めたんです。訴訟を本場のアメリカで極めたいという思いに加え、ニューヨークに現代美術とファッションとデザインを専門にしたロー・スクールがあることを知り、ここに行くしかないと思ったんです。
ニューヨークは本当に自由でよかったですね。弁護士がとにかく自由で、日本の弁護士とはやっていることの幅が全く違うんです。自身が経営者やアーティストだったり、クリエイターのための法律家の団体を立ち上げたり、アメリカだけでなく、世界規模で連携を持っているような弁護士が活躍していました。
現地では学校に通いつつ、ファッション業界とアート業界で弁護士として有名な教授のかばん持ちをさせてもらいました。行動をともにする中で、その先生から、「あなたのやろうとしていることは、日本ではまだない仕事かもしれないけれど、それはすごく重要なことで、法律を自由にデザインすることができるんだから、弁護士にとっては一番やりがいのある仕事なんじゃないか」と教えてもらいました。
他にも、弁護士やクリエイターが集まる飲み会で、日本のクリエイティブ業界に関する法律や裁判はすごく遅れていることに対して「アメリカはいいよね」と言うと、「お前は法律を使うだけじゃなくて、変えれる立場にいるんだから、変えちまえばいいじゃないか」と言われたんです。
「自分のやっていたことはそういうことだったんだな」と思えて、マインドが固まりましたね。自分がやってきたことのその先のイメージがもてて、彼らとのネットワークもできて、これからの自分がやりたいことが更に明確になりました。
「弁護士」から「法律家」へ
現在は長島・大野・常松法律事務所の所属弁護士として企業法務に関わるかたわら、普通の弁護士の仕事の枠に収まらないような、「法律家」としての活動にも力を入れています。
具体的には、特定の産業発展のために、現場で活躍する人と意見交換をして課題を浮き彫りにし、解決につながる施策を、国に提案したり一緒に作ったりしています。
民間においての調整役と民間と国の間の仲介役を担って、「法律家」としてみんなが歩み寄れる最適点を提案しているようなイメージです。これは政策に影響を与えるように働きかけるロビイング活動に近いですが、異なるのはクライアントが特定の産業団体のみではないことですね。いわゆる一般的な弁護士の仕事ではありませんが、自分たちが国と相談して政策やルールが変わっていくのがとても面白いです。
実際に、アートの業界では、5・6年までは日本の美術市場は難しいよねと言われていたのが、課題解決の動きを地道に積み重ねたことで、みんなが喜ぶような制度ができて、美術市場が少し盛り上がって、それでさらに一体感を強めて、次の施策にという手応えを得られています。こうやって法律やルール、国の政策は変わる、自分たちで変えられるという実感を共有できるのは本当に素晴らしいことだと思います。
最近は、社団法人を自ら立ち上げたり、業界団体の顧問になったり、海外のプレイヤーを巻き込んだプロジェクトに参加したり、活動の規模が大きくなっています。総じて、産業のベースアップのお手伝いをしているイメージです。
アート以外でも、最近ではファッションやエンターテイメント、建築などといったクリエイティブ領域に加え、観光や教育、人工知能などといった産業に対しても同じような活動をしています。これまでの知識と経験、コネクションを別の分野で有効活用できている感じですね。みんなで一緒に次のステップに行こうとする前向きな活動に、自分も当事者として、しかも、好きな人たちと一緒に主体的に活動できていることがとても楽しいですね。
私自身、働き方や考え方を変えてから、自分の知識や経験が活かせるフィールドが無限に広がっている感覚があって、それは弁護士としての基礎体力に支えられている感覚があります。だからこそ、この考えを仲間や後輩たちとシェアすることで、弁護士自体の可能性を広げていきたいです。
日本の産業のベースアップを進めるようなところに弁護士が関われるようになったら面白いし、そういう前向きな弁護士の仕事が増えて行くと、やりがいがもっと大きくなるんじゃないかと思います。
そういう意味で、「弁護士」でなく、法律を使うだけでなく変えたり活用したりする職業という意味で、「法律家」としても活躍していきたいですね。
2018.02.16