新たな挑戦は、怖いけど楽しい物なんです!「モニラン」で走る人も途上国の人も幸せに。

「今でも新しいことに挑戦するのは少し怖い」と話しながらも、会社勤めと並行してランナーコミュニティ兼海外支援活動を行う「モニラン会」を運営する倉本さん。小さい頃にいじめられたトラウマから、新しい環境に挑戦することに怯えながらも、少しずつ挑戦し続けてきた背景にはどんな思いがあるのか。お話を伺いました。

倉本 岳

くらもと たけし|ランナーコミュニティ運営
ランナーのコミュニティ「モニラン会」の主宰を務める。

モニラン会
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言いたいことを言えない


神奈川県で生まれました。小さな頃は活発で、近所を自転車で走り回るような子どもでした。

しかし、小学2年生で引っ越してからは新しい環境に馴染めず、いじめられてしまったんです。友だちがいなくなり、守ってくれるのは先生か親しかいない状況だったので、真面目に勉強をするようになっていきました。ルールに従っていれば目立たず、いじめられることはなかったんです。そうやって周りの目を気にするようになり、いじめられるのが怖く本音は言えないようになっていきました。

中学生になると学校の中でも力のある野球部に所属し、成績も良く生徒会長も務めるようになり、人前に出るようになりました。ただ、自分の本音を言えていたわけではなく、そのキャラクターでいることがコミュニティに属する手段だっただけでした。

ところが、高校で県内一の進学校に進むと、みんな自分より勉強ができ、自分のキャラクターが立たなくなってしまったんです。2年生の時には友だちと喧嘩したことをきっかけに、クラスで孤立してしまいました。自分から声をかけたら、仲間に入ることはできたのかもしれません。しかし、新しい環境に飛び込んで、傷つくのが怖かったんです。

ただ、親には心配をかけたくないという気持ちがあったので、学校には行きました。毎日クラス替えまでの日数を数えて、孤独を耐える日々でしたね。

初めて感じる居場所


3年生になると受験モードになり、そんな状況も気にならなくなっていきました。ただ、志望校に入ることができず、卒業後は浪人生活が始まりました。

予備校では自習室の席が、学校のように個人で決められていました。僕は自分から声をかけるのが苦手だし、また予備校には勉強に来ているので、友だちは必要ないと思っていました。毎日、夜自習室が閉まるまで勉強に打ち込んでいました。

しかし、ある時予備校のクラスメイトに誘われて、一緒にお昼ご飯を食べに行きました。すると、「いつも頑張ってるよね」と言われ、すぐに打ち解けることができました。会話のテーマが「勉強」に絞られていたので、あれこれ考えずに話すことができたし、浪人という同じ状況にいるので、お互い共感することができたんです。

それまでの高校生活ではどこのグループにも属せずに俯瞰しているだけだったのに、気づけば予備校では色々な仲間の中に入り、心を通わせることができたんです。こんな感覚は、初めてでした。

その後、1年の浪人の末、上智大学に進学しました。しかし、また昔の自分が戻ってきてしまい、新しい環境が怖くて、自分から周りに話しかけることもできず、サークルにも入ることができませんでした。

「自分は浪人組だから・・・」と言い訳していた部分もあります。予備校や塾など友だちに誘われたアルバイトに、逃げるように打ち込んでいきました。

胸を張れない生き方


そんな生活を続けていた大学1年の終わり頃、予備校時代に知り合い付き合っていた彼女にフラレてしまったんです。「大学に入ってから成長してないよね」って。彼女の言う通りで、ぐうの音もでませんでした。なんにも挑戦してないんだから、成長するわけなかったんです。

これはさすがに自分を変えなければと思い、春休みに東南アジアを一人旅することに決めました。小さい頃から父が学生時代にバックパッカーをしていた話を聞いていて、海外には憧れを持っていたものの、それまでは言い訳ばかりで、実践していなかったんです。

初めて行く海外は、刺激がたくさんありました。そして、日本人の旅人と話すことが多く、自分の境遇を話すと「若いんだからまだまだ時間があるよ」とみんなに言われたんです。大人の人から話を聞くうちに、自分には多くの選択肢があるのに、自分で閉ざしているだけだと気づけたんです。

また、タイでは物乞いのおじさんに、どうして物乞いになったのかと、失礼なことを聞いてしまったことがありました。すると、そのおじさんは丁寧に、自分の境遇や、地雷除去の仕事で足を失ったこと、物乞いをするしか生きていく方法がないことを教えてくれました。その人は両親と同じくらいの年でした。そのことを考えていると、こんなに恵まれた国に生まれて何でも選べる状態にあるのに、自分から選択肢を閉ざしている自分が情けなくて仕方ありませんでした。ちゃんと胸を張れるような生き方をしよう、そう思ったんです。

馴染めない人の手助けに


それからは友だちに誘われていたテニスサークルや、「模擬国連」という国際協力サークルに入りました。その2つの団体では、全く逆のコミュニケーションが取られていて勉強になりましたね。片や真面目な話よりもいかにみんなが楽しめるかを考える場で、もう一方は、おふざけなんてなく真面目に話し合う場。

ただ、模擬国連は多くの新入生が入っても、その空気に馴染めずに辞めていく人もたくさんいました。その人たちを見ていると、場に馴染めない昔の自分を見ているようで、いたたまれない気持ちになりました。そこで、僕は模擬国連のサークルでは、場の空気に馴染めない人が輪に入れるよう、テニスサークルのコミュニケーションなども参考にして、改善していきました。3年生で引退するときには、2年生で入った時と比べて、2倍程のメンバーが団体に残るようになりました。

そうしていくうちに、気づけば新しいことを挑戦することを楽しいと思うようになっていました。4年生になると就活サークルや、自分と同じような人に「新しいことに挑戦する楽しみ」を伝えるための学生団体も立ち上げました。

また、卒業後は教育事業を行うベネッセコーポレーションに入社することにしました。僕自身がコンプレックスを持っていた「人との繋がり」を大切にする風土に惹かれたんです。特に、保護者と子どもの繋がりを作るきっかけとして、しまじろうのパペット人形を送っている話を知り、学校に居場所がなく家だけが安らげる場所だった自分と重なり、家での繋がりを作りたいと思ったんです。

当事者として支援したい


入社してから少しした時に、大学時代のサークルの出し物でダンスを踊ることになり、体力づくりのために後輩と一緒に走り始めることにしました。

すると、走るのがすごく楽しかったんです。それまでは部活などでしか走ったことなかったので、楽しく喋りながら走るのは新鮮でした。また、走っていると仕事で溜まっていたストレスが解消されていったんです。これはもっと多くの人に広めたいと、仲間を募り土曜日の朝に皇居ランをするようになり、少しずつ規模が大きくなり、ランナーが繋がれるコミュニティ「モニラン会」として活動することにしました。

今では月に1回行う皇居ランには世代も国境も超えた様々な人が30−50人程集まるようになり、またビギナーランナーのために、月に1回イベントランと言って景色を楽しみながら走るような活動もしています。また、この活動は、皇居の周りにある着替えやシャワーを浴びれる「ランナーステーション」や、国際活動を行うNGOと提携して、ランナーステーション利用料の何割かがカンボジアへの支援金として使われています。

最初はこの支援プログラムは行っていませんでした。しかしある時、僕の親戚が難病にかかってしまうことがありました。その病気は遺伝的なもので、僕自身もその病気にかかる可能性があることが分かりました。その時、正直怖くてたまりませんでした。 でも、そんな時にチャリティーという形で無条件に手を差し伸べてくれる人たちが世の中にいて、それによってどんなに励まされるのかを、当事者として思い知ったんです。

それまでも学生時代のバックパッカーや模擬国連の経験から、国際協力や支援活動に興味はあったものの、仕事の忙しさを言い訳にして具体的な活動はしていませんでした。しかし、支援活動を当事者として感じられるようになり、言い訳してないでやらなくてはと思ったんです。

支援と言っても、今はまだ影響力が小さいので、より拡大していく計画を立てています。ランナー交流アプリを作って広告運用したり、そもそものランナーを増やすために、初心者向けのハーフマラソンを企画したりと、活動を広げていこうと考えています。

走ること自体、仕事のリフレッシュにも良いですし、それがチャリティにも繋がるって素敵だと思うんです。今後も会社で働きながら、できる限りモニラン会の活動も拡大して、挑戦していけたらと思います。

2015.01.16

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