「言葉」の力で誰かを振り向かせたい!海外に出たから感じられた、日本語の力。
「時代に口髭を生やす」ウェブマガジンQetic(ケティック)を運営するQetic株式会社の代表取締役を務める宍戸さん。高校時代に海外へ飛び出した時に感じた「日本語の豊かさ」とはどんなものだったのか。自分の体験で得た言葉で伝えていく道を選んだ宍戸さんにお話を伺いました。
宍戸 麻美
ししど あさみ|専門分野を噛み砕いて届けるメディア運営
WEBマガジン「Qetic(ケティック)」を運営する、株式会社Qeticの代表取締役を務める。
外国に行くために、将来を考える
私は東京の下町で生まれ育ちました。小さい頃、両親の影響でピアノを始め、家族の好きだったビートルズを弾くようになり、そこから洋楽やハリウッド映画など、外国の文化に興味を持つようになっていきました。
小学4年生のある時、音楽教室の担当の先生が長期で休むことになり、臨時でやって来たのはウィーンでピアノ演奏家として活躍していた先生でした。その先生は教材を使わずに「何を弾きたい?」と聞いてきて、私が「バッハを弾きたい」と答えると、「そんなのまだ弾けないよ」と言いつつも、次週には私でも弾けるように楽譜をアレンジしてくれるような豪快で斬新な先生でした。クラシックの楽譜をアレンジして弾けることの驚きと、自分でも弾けるんだっていうことが嬉しく、ピアノへのモチベーションがどんどん湧いて、最終的にはその先生に弟子入りしようと決めました。
けれど中学1年生の時、「あなたはプロの道を目指したいの?それとも趣味としてピアノを続けたい?」と選択を迫られました。先生の時間は有限だから、それによって教え方を変えると。
この時、私はその質問にビックリしましたが、ここで初めて将来を意識しました。考えた結果、私はピアノを楽しく弾きたいだけで、プロを目指しているわけでないことに気づいたんです。そう先生に伝えると、今度は「じゃあ何になりたいの?」と聞かれました。
正直、私には「とにかく外国に行って英語を話せるようになりたい」という夢しかありませんでした。大好きな映画俳優がいるのに、その人の言葉を直接理解できないことや、自分の言葉で気持ちを伝えられないことが悔しくて。ただ、海外に行くなんてお金はかかるしそんな理由で留学なんて許してもらえない。両親を説得できる理由を探すためにも、自分は一体、何になりたいのか考え始めたんです。
そして、映画の翻訳や評論を行う「ムービークリエイター」になろうと決めました。
自分の体験から言葉を生み出すために、日本で学びなおす
大学から本気で映画の勉強をするため、それまでに英語に慣れなくてはと高校からアメリカに渡ることにしました。
正直、制服が嫌いで、日本の高校には進みたくないという気持ちもありました。みんなで同じ制服を着ることで個性を消されている気がして、まるで中身の具は違うのに海苔を巻かれて中身が分からなくなっている「おにぎり」みたいだと思っていましたね。(笑)
そして、アメリカに渡ったら『ビバリーヒルズ青春白書』のような、自由でお洒落な青春が待っていると淡い期待もしていました。しかし、試験では行きたい学校には1つも受からず、州のど真ん中にある田舎の学校に決まってしまって…。
言葉もなかなか上手くならず、トラブルにも沢山巻き込まれ、色々な州を転々とするようにな生活を送っていました。そしてアメリカでのリアルな生活や社会問題を目の当たりにして、この国で大学に行き一生暮らすべきか、改めて考えるようになりました。
また、それ以上に、アメリカに来て、日本語の表情の豊かさや美しさに気づくことができたんです。「日本語」や「日本文化」への関心が高まったというか。例えば「慰め」の言葉は英語だと基本的に一言の表現でしかない、けれど日本語だと様々な表現がある。その繊細さが言葉だけではなく、箸の持ち方や料理の盛りつけや家の作り方など、日本文化に繋がっていると感じたんです。
その時に、私は日本の言葉も文化もあまりにも無知で、現地の友達にもうまく伝えることもできず、「自分の日本語をこのままにしていいのか?」と疑問になったのです。
ムービークリエイターは映画の翻訳や評論をする中で、日本の人たちに映画の魅力を「言葉」で伝える仕事。けれど日本語や文化を知らない私の言葉では、感動させることなんてできない。それに「言葉」は「体験」からしか生まれないので、私はもっと日本で様々な体験をする必要がある。そう考えて、将来についても全く違う道を選ぶ機会になりました。
大きな組織で働くことへの不安
日本に帰ってきてからは通信制の高校・大学と進学しつつ、日本中の様々な場所に行きました。
しかし、具体的に将来どんな仕事をするか見つからずに、焦りを感じていました。「日本には帰らない」と言って留学したのに、戻ってきて何もしていないことに挫折感もあったし、留学したからには何か特別な仕事をしなければならないと、変なプライドもあったんです。何かしなきゃとひたすら模索していました。
ただ、さすがに放浪しているだけでは何も見つからないと思い、23歳頃に広告関係の会社に入社することにしました。
けれど入ってすぐに、大きな組織の縦割り感や、決まり事に対して窮屈さを覚えてしまって。思い返してみると自分は、アメリカでは小さな学校に通い、帰国後は通信制の学校に通っていたので、これまで大きな組織でちゃんと生活したことがないことに気づきました。小中学生の時も、グループに属すると自分の特技や特徴が、あたかもグループの誰かのものであるかのように共有されてしまうことに抵抗があって、なるべく組織の中に属さないようにしていました。
だからこそ組織で馴染めるのか、今後の自分についてイメージが湧かず不安になって、これで良いのかなって気持ちを持ってしまったんです。
そんな時、仲の良かった音楽レーベルのオーナーから、私が大好きだったバンドが復活する話を聞き、プロモーション担当として働かないかと誘われました。そこで私は、入社後1ヶ月でしたが、転職することに決めたんです。
カッコ良く言えばそちらの道を選んだと言えますが、正直、気持ちの半分くらいは大きな組織から逃げられるって思いでしたね。中途半端な自分もすごく嫌でしたが、自分で決めた次の道を進んでいこうって覚悟も決まりました。
自分で工夫して仕事することで、楽しくなっていく
転職先のレーベルは20人ほどの規模感で、音楽フェスのブッキングやイベント招聘、海外アーティストのプロモーションを日本で行う会社でした。
その会社では研修がなく、いきなり自分で考えて動かなければならない環境。私はプロモーターという仕事を任されたものの、何をして良いのか全く分かりませんでした。
ただ、色々な人にアーティストの売り込みをしていくと、メディアのタイプや人によって「刺さる売り文句」が違うことに気づいたんです。そこで、担当者ごとに刺さりそうなフレーズの見出しを大々的につけた「週刊誌」や「スポーツ新聞」のような資料を作ったりと、徐々に工夫して営業するようになっていきました。
さらにある時から、自分のチームがノルマ制の給与形態になりそこから数字=結果を意識するようになりました。そして、月に何人の担当者に会って、どれくらいメディアをまわると目標を達成できるのか、売上にどれくらい貢献できるかの計算式を作れるようになりました。
それは日々の行動の指標にまで落ち、目標の売上のため、毎月470人ほどのメディア担当者と連絡を取り合うような生活が始まりました。すると、想定した通りに動いた分だけ実績に繋がるようになったんです。
次第に、自分で計画を立てて実行することが面白くなり、経営者になりたいという気持ちが芽生えました。脱サラして自営業を始めた父にも経験談を聞くうちに、独立への思いは強くなっていきました。そして、この会社でできる限りを学んで、実績を残して、それで31歳になったら独立しようって決めたのです。
けれど会社を辞める時は突然訪れました。新しいプロモーション方法を試したいと思いつつ、既存のプロモーションに引き続き力を入れていく方針の会社との間で、考えがずれるようになって。そして、ある時オーナーと大喧嘩してしまい、会社を飛び出すことになったのです。
大好きな職場でしたし、まだまだ「音楽プロモーション」に対してやりたいこともあったので、失恋したみたいな気持ちになりましたね。(笑)でも、これを機に新しい分野に行ってみようと、覚悟も決まりました。
あえて自分たちの考えに「こだわらない」ウェブマガジン
その後、インターネットの分野で「音楽を伝える」仕事をしようと考え、新規事業の立ち上げを募集していたIT企業に入ることになりました。最初の数ヶ月はくすぶっていましたが、さすがに何か始めなくてはと立ち上げたのが、ウェブマガジン「Qetic(ケティック)」でした。
音楽という分野でしか勝負できなかったので、ニッチな音楽情報サイトにしようと考え、「明日誰かに話したくなる音楽サイト」をコンセプトにしました。これまでインディーズのカテゴリである音楽をプロモーションしてきて、メジャーと呼ばれる分野の音楽と隔てなくニッチな音楽も紹介できる場所を作りたかったので、ここでチャレンジしてみようという気持ちでもありましたね。
ローンチ後、はじめは私の意向ばかりが色濃く出てしまい、WEBサービスとしてどうなのかな…?と、自問自答な日々でした。ウェブメディアも多くなかったので、読者もそうですし、情報を提供してもらう方々からも、メディアとして信頼を得るだけでも大変でした。
また、新規の読者に届けたり、毎日振り向いてもらうためにと様々なことをトライすると、今度は初期から愛読してくれている読者の方から「そんな表現じゃダメだ!」と、クレームメールが来るんですよね。読者の方もこだわりが強く、記事に少しでも違和感を感じると、お叱りを含めた熱いメッセージを送ってくれる感じでした。
そこで、私たちは新規の読者と既存の読者、どちらの反応も楽しみながら、あえて自分たちの考えに「こだわらない」ことにしたんです。自分たちの感覚で判断するのではなく、読者の反応、その結果である数字を元に試行錯誤を繰り返そうと。
そして音楽業界内でも少しはメディアとして認めてもらえるようなった3年目に間もなく入る頃、会社の再編で部署がなくなることが決まりました。しかしその時、上司に「事業を独立する気があるか?」と言われたんです。本気でやる気があるなら会社から切り離すことも協力すると。そしてその上司も後で参画すると、突然に問いかけられました。
独立しようと決めていた年までにまだ2年ほどあったし、このタイミングで独立して良いのか悩みました。そこで母に相談すると「開いちゃった扉を締める必要はあるの?自分が今やりたいならそれがタイミングじゃないの」と言われたんです。同時に経営者でもある父に話をし、最初は心配してましたが「お前が本気なら応援する」と言ってくれました。
その両親の言葉を聞いて、思い切ってその扉の向こうに飛び込もうと、Qeticの部署ごとスタッフも一緒に独立しよう!と、決心しました。
読んだ先にある「行動」を促したい
元々音楽メディアだったQeticは、今でも強みは「音楽」や「フェス」の情報ですが、読者の動向を解析しながらカテゴリを増やし、幅広い情報を発信しています。幾度ものリニューアルを経て、「時代に口髭を生やすニュースメディアQetic」として現在も奮闘していますね。様々な分野においてのニッチな情報のおもしろさ、ポイントを抽出して、噛み砕き、自分たちの言葉で読者に分かりやすく伝えることを意識しています。
ただ、Qetic内で全てが完結するというよりも、情報を受け取った人が「次の行動」に移ることを念頭に置いています。Qeticはある意味、セレクトショップ的な要素を持っていて、うちを通ってより良質なブティック=メディアに飛んでもらう。そこで更に深い情報に触れることができたり、記事を読んで、買いたい!行きたい!という気持ちをそのまま行動に移してもらえるような動線づくりを大切にしています。
Qeticでは今後も、読者の動向を軸に時代と共にコンテンツは変わり続けていくとは思います。その中で、とにかく続けることを大切にしていきたいです。
サイトを始めた当初、ある著名なアートディレクターさんでアート雑誌などを創刊している方に、「メディアを始めるなら、どんなことがあっても、形を変えてでも“続ける”ことが大切」とアドバイスをもらいました。今までに苦しくて辞めてしまいたくなる度に、その言葉を思い出してきました。年を重ねるごとに、その言葉の意味はより深く実感するようになっています。
「伝える」というのは「続ける」ことなんだと。どんなにかっこ悪くても、フォーマットが変わってしまうとしても、伝えることを止めてはいけない。計画はもちろん大切です、けれど体裁というか「メディアとして何が正解か?」は、続けた先に考えればいいことなんですよね。
また最近、私はQeticの編集現場は若手に任せ、ウェブマガジン/オウンドメディア運営のノウハウを活かして、他企業から相談をもらい、専門情報に特化したメディアの制作や運用、コンテンツマーケティングのお手伝いをする事業を展開しています。
Qeticをはじめとした現在の仕事で、アメリカ留学時に漠然と思い描いていたことを不思議と実現できているんです。自分の体験で得た言葉を使い、読者が振り向いてくれるような文章を作ること。そして記事を読んだ人が、なにかを発見できたり、次の行動に移すことができる、そこで新しい体験をしてもらう。
私自身、一度に何万人もの心を動かせる人間ではないかもしれないですが、出会った人、一人ひとりの心を動かせるように、伝えるということを積み重ねていって、結果的に多くの人の心を動かしていきたいですね。そのためにも、Qeticのみんなでこれからも言葉の力を楽しみながら、発信し続けていきたいです。
2015.08.21