学級崩壊を起こす非行少年がプロレスラーに。「努力に勝る力無し」を証明する人生。

WRESTLE-1(レッスル・ワン)という団体でプロレスラーとして活躍する大和さん。 一人で学級崩壊を起こし、友達が一人もいないような問題児だった少年が、どのような背景でプロレスラーを目指し、どんな道を経てリングに立ったのか。「努力に勝る力無し」を座右の銘とする大和さんにお話を伺いました。

大和 ヒロシ

やまと ひろし|プロレスラー
WRESTLE-1(レッスル・ワン)という団体でプロレスラーとして活躍する。

中学1年、誰も仲間がいない反抗期


僕は千葉県君津市に生まれ育ちました。小さい頃から肥満気味だったこともありスポーツは大の苦手、得意でないだけでなく、運動することが嫌いでした。

ただ、映画で見たジャッキーチェンの影響で格闘技は好きで、小学3年生から少林寺拳法を習い始めました。ただかっこいいだけでなく、どこか人間臭い部分に惹かれていたんです。

その後、中学生になってからもスポーツへの抵抗はあったのですが、学校の規則として全員何らかの部活に入らなければならず、文科系は一つしかなかったため、「スラムダンクが好き」という理由でバスケ部に入りました。

しかし、中学1年頃から反抗期で荒れ始めると、抑えつけられないほど反発してしまい、次第に部活どころではなくなり、すぐに退部することになりました。それでも、全員部活加入という校則のため、どこかに入らなければと考えて野球部に申し込むと、顧問の先生から、「お前は問題児だから野球部には入れない」と断られてしまったんです。

たしかに問題児ではあったものの、本気でやり直そうとしていたキッカケを先生から奪われてしまったこと、入部を認めないこと自体が校則に違反していたことから、その件について校長先生に直訴しに行くことに決めました。しかし、校長先生から言われたのは、「私も顧問の先生と同じ意見だ」という言葉。

ここで、本当にキレてしまいました。

学校というルールに納得がいかず、教室では授業中でもかまわず暴れて学級崩壊状態。目立っている分、先輩からも呼び出され、体育館裏はもちろん、廊下で会うだけで殴られるような日々。身長はまあまあ大きいものの、特別喧嘩が強いわけでもなく、ひどくやられていました。そして、その鬱憤を教室内の弱い者いじめに向けてしまい、気づけば仲間は誰もいなくなっていたんです。

そんな背景もあり、段々と学校に通わなくなったのですが、ある時、母から「どうして学校に行かないのか?」と問いつめられ、観念して、学校で起こった出来事を全て話しました。

母は涙を流していて、それを見ているのがすごく堪えましたね。ただ、それ以来、学校に行きなさいと言われることもなくなりました。それでも、心の中ではどこかこのままじゃいけないという気持ちがありました。

必要とされ、受け入れられる安心感


そんな日々を過ごし中学2年になると、相性が合わずに揉めてしまっていた担任の先生が代わることになったんです。そして、新しい先生は生徒一人一人に情熱的に向き合ってくれる方で、「お前は身体も大きいから何か部活をやった方がいい」と、自ら顧問を務める剣道部に誘っていただいたんですよね。

また、野球部の顧問の先生も新しい方に代わり、その先生から野球部にも誘っていただき、入部届けを貰いに職員室に行くと、サッカー部の先生からも部活に呼んでいただきました。それまでずっと問題児扱いされていたのが、初めて人に必要とされている感覚を抱き、すごく安心しました。

特に、サッカー部の先生に関しては、以前学校で陸上大会に出場した際に面識があり、荒れている時期から知っていたにも関わらず、声をかけていただいたんです。そこで、「この人の元だったらなんとかなるんじゃないか」と感じ、一番古くから知っていた先生の元でサッカー部に入部を決めました。それまでとは一転、髪も切り、誰よりも早く朝練に行き、一番最後に帰るような生活を始めました。

また、教室内でも、気持ちを入れ替えようと、何があってもまずは怒らないということを徹底し、大人しくして部活にも打ち込んでいると、次第に周りの友達が話しかけてくれるようになったんです。

目を付けられていた代の先輩が卒業したこともあり、それまでとは生活が一変していきました。押さえつけられていたからこそ突っ張っていたため、受け入れてもらえることはすごく安心しましたね。

プロレスラーへの憧れ


再び友達ができると、休み時間は皆でふざけあって、じゃんけんで負けた人がプロレス技をかけるような遊びをしていました。しかし、皆かける技がありきたりのため、次第にもっと他にもあるんじゃないかと思うようになり、深夜のTVで初めてプロレスを見てみることにしました。

すると、初めてちゃんと見たプロレスに衝撃を受けたんです。それまでは大男がぶつかり合っているだけだと思っていたのが、動きは早いし技の攻防もすごい、それまで持っていたイメージが一瞬で覆されました。「これはすごい!」と一気に関心が強くなり、特に全日本プロレスに所属していた三沢光晴選手に憧れを抱くようになっていきました。

また、ちょうど片思いの女の子が太っているのが嫌いだと知り、モテようと努力して、夏前から秋にかけて13kgも体重を落として自信をつけた後だったこともあり、もしかしたら、自分もプロレスラーにもなれるんじゃないかと考えるようになったんです。

それ以来、各団体の入団テストの概要を調べたり、プロレス漫画に書いてあるスクワット1000回を参考にトレーニングを始めたり、基準の一つに身長制限もあったので、給食では1リットルも牛乳を飲み、給食の後には学校中の余った牛乳を、毎日5リットル程持ち帰るような生活をしていました。

憧れのプロレスラーになることに駆り立てられる一心でしたね。

卒業後は地域で唯一レスリング部のあった農業系の高校に進学を決めました。

部員1人のレスリング部に勉強にモノマネ、レスラーへの日々


高校でレスリング部に入ると、憧れの三沢選手もレスリング出身だったこともあり、「やっとスタートラインに立てたな」という気持ちでしたね。しかし、部員は自分を含め多い時は3名、2年になってからは1名になってしまい、ほとんど他の学校への出稽古で練習をするような環境でした。

また、中学まで勉強をしてこなかったこともあり、勉強に不安があり、留年をしてレスラーになるのが遅れてしまうのではないかという恐怖もありました。そこで、色々な友達から勉強法を聞いて取り組んでみると、最初の中間テストで学年3位を取ることができたんです。やればできるんだと感じ、それ以降はより力を入れ、学年で1位を取り続けることができました。

また、レスリングについても、1年目の新人戦で千葉県で2位、翌年の新人戦は県で優勝、3年生では千葉県高校総体で優勝、グレコローマンの全国大会でベスト16と、一定の成果を残すこともできました。

ただ、180cmを基準とする日本のプロレスに対し、身長は176cmで止まっていたこともあり、卒業後は制限の無いメキシコに渡ってデビューし、その後に日本でデビューをしようという作戦を描いていました。

しかし、出稽古に出ていた高校の顧問の先生から、「プロレスラーになりたいなら、大学で体育会の環境に身を置いた方がいい」という助言をいただいたんです。元々、その学校からは2名プロレスラーを輩出していたこともあり、その言葉に従い、レスリングが強く、勉強で関心を持っていた農業が学べる東京農業大学に進学しました。

大学に進学してからは、強豪校ということもあり、高校までとは打って変わってレスリングの環境は非常に恵まれていました。また、1年生のジュニアオリンピックの76kg級で、全国3位を獲得することができたんです。

その他にも、勉強にも関心を持っていたので、卒業単位よりだいぶ多い150単位を取得し、教職の免許も取り、充実した大学生活を過ごすことが出来ました。

また、体育会の寮生活という独特の環境で、後輩にご飯を奢ることも多かったため、お台場のレジャー施設「大江戸温泉物語」の縁日のコーナーでアルバイトをしていました。元々運営会社の方が格闘技に理解のある方で、部活の試合等に応じて柔軟にシフトを組んでいただけていたんです。

しかし、そこで綿飴を作る担当として働いていると、できるまでに時間がかかることもあり、お客さんが暇そうにしていたので、試しに中学くらいから得意だったモノマネを披露してみたんです。すると、思った以上に反応が良く、それからは自分でモノマネのお品書きも作り、綿飴を待つお客さんにネタを披露する日々を過ごしました。

そんな大学生活を経て、迎えた4年生の冬、ずっと憧れていた全日本プロレスの入団テストに臨みました。ちょうど、身長の規定が175cmとなりクリアしていたこともあり、願書を出して本番に望みました。

そのテストは公開オーディションの形式で、それ自体をお客さんが見に来るという新しい試みでした。そこで体力的な課題を一通り終えると、社長の武藤敬司さんから、「何かアピールできるものがあるやつはやってみろ」という指示があったんです。公開オーディションならではのお題でした。

そこで、私は真っ先に手を挙げ、モノマネを披露したんです。ただの趣味だったら迷いもあったのだと思いますが、それまでお客さんの前で3年間続けて来たこともあり、緊張はありませんでしたね。

結局、体力的にはギリギリだったものの、最後のモノマネが決め手となって、その日のうちに電話で合格の通知をいただきました。

中学2年生からずっと憧れ続けた、プロレスラーになることができたんです。夢が叶った瞬間でした。

練習生・メキシコ武者修行を経て日本デビューへ


全日本プロレスに入団してから最初の1年は練習生として、トレーニングや先輩のサポートを中心に活動しました。道場にいる間は外出禁止で、朝から掃除をして食事を作って、自主練をして洗濯をして一日が終わり、巡業の際は先輩の付き人をしてという日々で、私は小島 聡選手の付き人を1年務めさせてもらいました。

また、生活環境だけでなく、トレーニング自体もすごく厳しく、始まって3日以内に複数人が辞めるような状況でしたが、「まだリングに立っていない」という思いもあり、辞めようという思いはありませんでしたね。また、上下関係で言えば大学の体育会のほうがむちゃくちゃだったこともあり、一度大学に進学することを薦めてもらった恩師には本当に感謝しました。

そんな生活を1年間ほど経験し、7人いた合格者は4名まで減っていました。そして、デビューが近づいたタイミングで、会社の意向から、新しくデビューする4人について、2名は日本、2名はメキシコでデビューさせるという方針になったんです。

そして、私はメキシコデビューの2名に選ばれ、23歳にしてメキシコに渡航し、到着した2日後、現地選手とのタッグマッチでプロレスラーデビューを飾りました。

しかし、当日気づくと控え室に座っており、試合の記憶はありませんでした。試合自体は勝利を収めたものの、途中で頭から落とされる技を受け、記憶が無くなっていたんです。思い出したそばからまた記憶が飛んでいき、メキシコに来たこと自体も忘れてしまっていたため、あまりデビューの実感はありませんでしたね。それを確かめにいくような感覚で臨んだ第2戦で、ようやく実感を得ることができました。

それ以来、木曜日と日曜日に定期戦があったのですが、現地でのマッチメイクとの兼ね合いで、次第に数が減っていってしまったんです。全日本からの派遣とはいえ、試合に出られないと食べていけないこともあり、自らスペイン語を覚えて必死に交渉を行いました。

あまりにお金が無い時は、日本から来た観光客が置いていったレトルトの食品を食べていましたね。渡航時に98kgあった体重は82kgまで落ちていました。

それでも、結果を残さなければ日本に戻れないこともり、現地で戦い続け、渡航から4ヶ月で初めてのベルトを獲得、12月にはその年の最優秀外国人賞もいただくことができました。

そして、その戦績をもとに、1年のメキシコ生活を経て、2008年、24歳のタイミングで念願だった日本デビューを果たすことが出来たんです。

夢を失った自分にとってのプロレス


ところが日本デビューの直後から「良性発作性頭位めまい症」という病気にかかってしまい、仰向けに寝ていると地球がひっくり返ったかのようなめまいを感じる症状になってしまいました。加えて、その原因の検査をしていくと、生まれつき首の血管が人よりも少ないということが分かったんです。

すると、それまでは何の影響もなく試合や練習をしていたのに、「そういう人間をリングに上げていいのか?」という声もあがり、結局3ヶ月ほど休むことになりました。

念願の日本デビュー後にすぐ休養という形になってしまいましたが、無事めまいが回復してからは、再びプロレスラーとして現場に戻っても良いという判断となったんです。

ところが、復帰してすぐに気づいたのは、自分にはもう夢が無くなっているということでした。

これまで、レスリング部も勉強の努力もアルバイトも、日本でプロレスラーとしてデビューするという目標があったから打ち込むことが出来ていました。しかし、それが急に無くなってしまったことで、燃え尽き症候群になってしまったんです。

そんな状態の自分にとって、練習は本当に厳しいし、情熱を持って取り組まないと、到底耐え続けられるものではありませんでした。そこで、色々考えた結果、25歳のタイミングで会社にレスラーを辞めることに決め、その旨を会社に伝えに行くことにしたんです。しかし、アポ無しだったため、社長の武藤さんはおらず、営業部長の方と話をすることになりました。

正直、辞めた後について深くは考えていなかったものの、人前に立つことが好きで、せっかく東京にいることもあり、俳優を目指そうとしているという話をしました。

すると、「もったいない。俳優は東京にたくさんいてオーディションに受かるか分からないのだから、プロレスに籍を置きながらオーディションを受ければいい。」という話をしていただいたんです。

そこで、アドバイスに従い、それからはプロレスラーとして活動しながら、オーディションを受け、受かった事務所で演技を勉強しながら毎日を過ごしていました。

ところが、そんな生活を続けていると、外部の世界に触れたことで、段々とプロレス業界自体が置かれている現状について、広い視点で考えるようになっていったんです。

元々、全日本プロレスは社長の武藤さんの知名度が大きいものの、他にプロレス自体の認知度を広めていけるような人がいるかというと、不足しているというのが現状でした。

そこで、どんなに頑張っていても人目につかなければ新規の開拓が出来ないことを痛感し、自分がプロレス以外の分野に足を踏み入れようとしていることを、何かの形でプロレスを広めることに活かせないかと考えるようになったんです。

そう考え始めてからは、「自分のためのプロレス」をやめて、プロレス自体を広め宣伝するためにリングに立つようになりました。

不思議と、そんな風に吹っ切れてレスラーを続けていくと、経験を積むとともに技術も磨かれていくため、段々試合に勝てるようになっていったんです。そうすると、次第にベルトも現実味を増していき、気づけば結果を強く求めるようになっていきました。プロレスを広めることに加え、自分が結果を出すことにも再び情熱を注ぐようになったんです。

そこまでいって初めて、プロレスを続ける自信がついたような気がしました。

「努力に勝る力無し」を証明する人生


その後、30歳のタイミングで、全日本プロレスから武藤さんが独立し、「WRESTLE-1(レッスル・ワン)」という新しい団体の旗揚げをすることになりました。私自身、全日本に残るかレッスル・ワンに参加するかを判断することになったのですが、依然、全日本への憧れや感謝もありながら、その中でオーディションを通していただき、育ててもらった武藤さんへの恩返しの気持ちが強くありました。

特に、武藤さんが選手である間しか恩は返せないという思いから、レッスル・ワンの旗揚げに参加することに決めたんです。

また、最近では、お世話になった方だけでなく、故郷の千葉県へ恩返ししたいという気持ちもあり、千葉県の大会のプロモーターとして、様々な企画も行うようになりました。

直近では6月に千葉県富津市で行われる大会のために、会場の周りの広場に物産展を設けたり、地域の大道芸人の方を呼んでお祭りを開いたり、地元出身の女子レスラーの試合を組んだりと、様々な仕掛けを考えています。そうすることで、少しでも地元への恩返しに繋がればと思うんです。

それでも、生きていくことは大変なもので、恩ばかりたまっていき、返そうと思っても返しきれないというのが正直なところです。

これまで、小さな頃から、色々と特殊な経験をして、周りの方にもたくさん支えてもらいました。だからこそ、プロレスラーとしてその経験の還元をしていきたいですし、例えどこかで選手をやめるタイミングが来てしまったとしても、伝えることは変わらずに続けていきたいです。

プロレスラーを目指した学生時代から、「努力に勝る力なし!」という言葉を座右の銘にしています。

自分にとって、努力のエネルギーを生むのは夢だと思うんです。そして、その夢は、愛でできているんじゃないかと思います。プロレスに対しても地元に対しても家族も自分も、全てへの愛が自分の努力に繋がっているんです。

たぶん、努力に勝る力は本当に無いんだろうと思います。ただ、まだ結論は出ていないので、これから一生かけて証明していきたいですね。もしかしたら、一生かけても0か1かという話ではないのかもしれないですが、その0.999・・・を突き詰めていけたらと思うんです。

2015.05.01

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