「あの人もがんになったのだから、大丈夫」そんな存在になるために、再び描く未来。

テレビ局で報道記者として働く傍ら、がん患者と支える人たちのための相談支援センターの設立に取り組む鈴木さん。仕事もプライベートも一番楽しい時期だったという24歳の時にがんを患い、一度は目の前が真っ暗になったと話します。そんな鈴木さんが現在の活動に至るまでにはどのような背景があったのか、お話を伺いました。

鈴木 美穂

すずき みほ|テレビ局報道記者・がん患者向け施設運営準備
テレビ局にて報道記者として勤務する傍ら、
がん患者と支える人たちのための相談支援センターであるmaggie’s tokyoの設立に取り組んでいる。

2016年11月16日(水)鈴木美穂さん登壇イベント「“SHARE”〜夢をかなえる、はじめの一歩〜」開催!
maggie’s tokyo
クラウドファンディング達成!

スーパーウーマンのような仕事


東京に生まれ、横浜で育ち、小さい頃からクラスの活動の司会をしたり、イベントを企画したりすることが好きな活発な性格でした。

そんな性格の私に合うと考えたのか、小学5年生のクラスの担任の先生から、「テレビニュースを見たことがある?向いていると思う!」と突然言われたんです。

正直、テレビで見るのはドラマくらいだったので、ニュースは見たことがなかったのですが、先生の薦めもあり、実際に番組を見てみると、テレビを通してみた現場からニュースを伝える記者の女性の姿に、強烈な憧れを抱いたんですよね。

世の中のことを沢山知っていて、その中の部分を切り取ってテレビで伝える姿は、まるでスーパーウーマンのように見えました。
その日以来、私はテレビ報道の世界を目指すようになったんです。

その後、親の仕事の都合で小学6年生からはシカゴに住むことになったのですが、いきなり行くことが決まったこともあり、英語はもちろん話すことが出来ず、現地の学校に行ってからは本当に苦労しました。

それまでは、周りに常に友達がいたのに、転校したては周りとのコミュニケーションも取れず、1人でいるところを見られたくなくて、泣きながらトイレでご飯を食べることもありました。

そんな環境でも、「自分はテレビ局で記者になるんだ、そのためには英語も頑張らなくては」という思いが自分を支えていましたね。結局、ものすごい勉強の末、やっと学校に馴染んできたタイミングで帰国をすることになりましたが。(笑)

その後、中学3年生で日本に帰ってからは、受験を控えた時期だったのですが、私は、テレビ局に入りやすい大学のランキングを調べ、学校の校風に惹かれたことも加わり、慶應義塾女子高等学校に進学することに決めました。

高校では自由な雰囲気の中、行事やイベントに本気で取り組んで、充実した生活を送っていましたね。そして、大学の進学を控えた年には大学3年生向けにテレビ局が運営する就職活動のセミナーに、1人だけ高校の制服で参加するというほど、目標へのこだわりは変わらず続いていました。

「がんになったら死ぬんだ」


その後、慶應大学に進学した後も方向性はぶれず、ファッション雑誌のライターを務めたり、テレビ局のイベントのバイトをしたり、関心に合うような機会にたくさん挑戦をしていきました。

また、その他にもバックパッカーとして30カ国以上を訪れ、漠然と、世界中で起こっている様々な問題やギャップの種は、「知ること」で埋まっていくんじゃないかという考えを抱くようになっていきました。だからこそ、世界中で皆が知らないことを伝えていきたいと感じ、報道の仕事への思いは一層強くなっていきましたね。

そして、大学卒業後、無事都内のキー局に就職が決まり、小学生以来の目標だった仕事に携わる日々が始まりました。

最初の仕事は報道局でADとして勤務するというものだったのですが、正直、思っていたような華やかな職場ではありませんでしたね。(笑)毎日遅くまで、ずっと取材したテープを見て文字起こしをする日々でした。

しかし、それでも本当に仕事が楽しかったんです。自分の関わったものが使われるだけでも幸せを感じましたし、2年目に記者になってからは、やりがいも増していきました。最初の1・2年はプライベートの誘いを断ることも多かったですが、仕事に慣れてからは、生活も充実していきました。

ところが、そんな風に仕事もプライベートも一番楽しい時期にさしかかった社会人3年目、24歳の時、乳がんを患っていることが分かったんです。

祖父母の代まで見ても、誰もがんになっていないような家系だったこともあり、全く予想をしていなかったことに、最初に診断を受けた時は目の前が真っ暗になりました。

それでも、なんとか前向きに治療をしようと考えるようになったのですが、抗がん剤等、徐々に辛い治療が始まっていくうちに、気持ちも少しずつ弱っていきました。

同期や友人等、周りの人に置いていかれているような感覚があったし、何より、

「がんになったら死ぬんだ」

と感じたんですよね。私は、結婚も出産も世界一周もすることなく死んでしまうんだ、と考えるようになり、当たり前のように描いていた未来が消えてしまったような感覚がありました。

この経験を活かして生きる


そんな風に生きていくイメージが持てなかったこともあり、入院中は死んでしまうことばかり考えていて、まるで天国のような場所に歩いていく夢を毎日のように見ていました。

そんなある時、乳がんを患ってから9年経ち、ご自身でがん患者をサポートするサロンを運営している女性と出会ったんです。初めて出会ったその人はすごくキラキラしていて、接しているうちに、がんになっても、それを活かして、もっと人のためになる人生を生きることができるかもしれないんだ、ということに気づき、なんだか救われた気がしたんです。

「私も、もし元気になったら、この経験を活かして人のためになりたいな」

そんな思いを抱くようになり、段々と、「死ぬこと」よりも「生きること」を考えるようになっていきました。

元々、小さい頃から憧れていた報道の仕事につくことができ、自分の中でもこの仕事に向いているという感触はあったのですが、何が自分のテーマなのかは正直分からずにいました。

しかし、24歳にしてがんを患う経験をしているからこそ、がんに関することで社会に対し役立つことをしていくのが、自分の使命なんじゃないかと強く感じたんです。

不思議なことに、それ以来、3ヶ月近く見ていた天国のような場所に行く夢は全く見なくなり、心身ともに順調に回復していくことができました。

まさに自分が欲しかったもの


そして、8ヶ月の休職を経て無事仕事に復帰してからは、自分自身の働き方も変わっていきました。自分が辛い立場に立ったからこそ見えてくることがあり、「がんになると苦しんで死ぬ」というメディアが作るイメージを変えようと取り組みも行うようになりました。

また、自分自身、がんの告知をされた時に、どう生きていけばよいかという情報にたどり着けなかったこともあり、生きる希望につながることをしたいという思いから、仲間を募り、若くしてがんになった人を応援するためのフリーペーパー『STAND UP!!』を作り始めました。

また、2013年には患者会国際交流(IEEPO) に参加をし、日本は、医療としては進んでいるものの、がんと共に生きるという観点は遅れているということを痛感しました。

その会で私ががんを経験したことを海外の方に話すと、“Congratulations”と言ってもらい、すごく暖かく感じたんですよね。日本ではがんになっても言えない人が多く、だからこそ、患者の方も生きていくイメージが持ちづらいと思うのですが、この会で感じたように、がんになったことが後ろめたいことではないと思えるような文化を作ることができれば、隠すことは無くなるんじゃないかと思ったんです。

だからこそ、がん患者の方だけでなく、社会の理解も必要だと痛感し、“Congratulations on your Unique Experience”という頭文字を取り、『Cue!』という、がん患者向けのヨガなどのワークショップを行う活動を始めました。

そんな風に活動を広げていき、2014年に参加した2度目の患者会国際交流(IEEPO) で、『Cue!』のための活動の場所を探しているという話をしたところ、複数の方から、『マギーズセンター』を見に行けば?と言われたんです。

そこで、帰国してから調べてみると、「自分を取り戻せるための空間やサポートを」というコンセプトのもと、 自身も乳がんを患い余命宣告をうけたマギー・K・ジェンクス氏が考案した、がんに直面し悩む本人、家族、友人らのための空間と専門家のいる場所が『マギーセンター』だったんです。

この空間の説明を見て、まさに自分が欲しかったもの、いやそれ以上のものだという感覚がありました。そして、それが日本にはまだなかったのですが、絶対にできると考え、同じ施設を日本に立ち上げる準備を始めたんです。

「あの人もがんになったのだから、大丈夫」


そうして準備を始めた中で、「日本にもマギーを!」という活動を行っている方がいるということを知り、お話を聞かせていただくことにしたんです。

その方は秋山正子さんという方で、5年前から普及を行い始め、3年前から、『マギーセンター』をモデルにした施設の活動も開始されていた方で、生涯かけて同施設の必要性を訴えていくつもりだというお話をされていました。

そのお話を伺い、勝手に押し掛けた身ながら、今すぐにでも作りたいという気持ちでいた私は、「一緒に作りましょう!」と提案させていただいたんです。ちょうど、自分たちのチームにはメディアや建築・アートの方面に強みを持っており、秋山さんのチームでは医療界の実績も信頼もあり、このチームが合体できたら、絶対に実現できるという思いがあったんです。

そんな急なお願いにも関わらず、秋山さんから一緒にプロジェクトを進めていただけるというお返事をいただき、2014年5月maggie’s tokyoのプロジェクトを設立し、本格的な準備を始めていきました。

その他にも多くのメンバーの協力もあり、建築系の知人を介して、土地の内定が決まり、現在は設立のための資金集めのためにクラウドファンディングも行っています。

この空間では、医療者から専門的なアドバイスを受けられること、がんになった人が気兼ねなく参加できるワークショップがあること、を両輪に、自分自身が24歳の時に必要だと感じていたそのものを実現しようと考えています。

人生のどん底にいて、自分だけががんであるという状況に苦しんだこともあり、その気持ちを分かってくれる人に、思い立ったときに話せる場所があればどんなによかっただろう、と思うんです。

現在は報道記者としての本業に加え、残りの時間のほぼ全てをこのプロジェクトに費やしており、2015年には施設を設立し、2020年までには世界に誇れるmaggie’s tokyoを築いていたいですね。

そして、私自身、誰かががんを患った時に、

「あの人もがんになったのだから、大丈夫」

と思ってもらえるような、そんなロールモデルになりたいと考えています。だから、仕事もプロジェクトも全て諦めずにやり遂げようと思うんです。

2014.11.12

インタビュー・執筆 | 新條 隼人
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