がん患者が笑って輝ける社会を目指して。 希望の光を発信し続けることで恩返ししたい。
NPO法人「がんノート」を運営し、がん経験者のインタビューを生配信している岸田さん。そのほか国立がん研究センターで働いたり、患者に関する研究を行ったりと、様々な面からがん患者に寄り添っています。25歳で宣告された全身がんの治療を通して感じたこととは。活動を通じて目指す社会とは。お話を伺いました。
岸田徹
きしだ とおる|がん患者が笑って輝ける社会をつくる
25歳のとき、胎児性がんの転移が進んでいることがわかり、全身がんを宣告される。現在はNPO法人がんノートを運営するかたわら、国立がん研究センターで広報を担当。さらに、企業や教育機関に向けた講演や研究活動も行っている。
海外へのあこがれ
大阪府高槻市で生まれました。自分の意見を主張するよりも、争い事を起こさないことを優先するような温和な子どもでした。学校でも特定のグル―プとつるむのではなく、バランスよくみんなと仲良くしていました。
中学・高校はソフトボール部に所属して部活に熱中しました。1人だとできないこともみんなと一緒ならやり遂げられるので、チームプレーが好きでした。キャプテンでも副キャプテンでもありませんでしたが、皆の調和を保つポジションにいました。
ソフトボールのほかにも、自分の知らない場所やその国特有の文化に興味があって、いずれは世界一周したいと思うようになりました。資金をつくるため、こつこつとお小遣いやお年玉を貯めていましたね。進路を決める時は、日本文化が色濃く残っている古都・京都で学生生活を送りたいと思い、京都にある大学を目指しました。英語がネックで1年間浪人しましたが、なんとか希望の私立大学に入学することができました。
大学では友人にキャパオーバーだと言われるほど、いろんなことに取り組みました。その中でも特に英会話サークルには力を入れていました。海外の人と交流したいと思ったときに、苦手な英語を克服しなければいけないと思ったんです。飛躍的に英語がうまくなる、ということはありませんでしたが、調整力を買われて部長になるなど、部の中心として活動しました。
海外で活躍できる人間になりたいという思いから、就活では世界共通のインフラであるインターネットを軸に就職先を探しました。最終的には、自分が最も成長できそうだと感じたネットベンチャー企業に就職を決めました。
人はすぐに死んでしまう
4回生の前半で授業も就活も終わらせて、中学生のころから憧れていた世界一周へ行くことにしました。
最初の地、上海で就職先の会社の支社を訪ねたところ、何か目標を持って世界一周した方がいいとアドバイスされました。そこで、世界で活躍できる人材になるための世界一周にしようと考え、1カ国1人以上、実際に海外で働く日本人にインタビューするという目標を立てて都市を巡っていきました。
数カ国回ったあと、インドへ行きました。予定していた空港泊ができず、泊まる場所を探しているうちに、怪しい旅行会社に連れていかれました。そこで「ヒマラヤに興味はあるか」と聞かれたので「興味がある」と答えると、飛行機のチケットを渡されました。ヒマラヤに行けると思って飛行機に乗ったのですが、着いた先はなんと軍の基地でした。
ヒマラヤではないにしても、初めて見る戦闘機に興奮しました。飛行機を降りる途中で撮影しようとカメラを向けると、後ろにいたインド人が「やめとけ。あれを見ろ!」と言うんです。指さす先を見ると、マシンガンスタンドとその横でこちらを見る軍人が目に入りました。
「カメラのレンズが銃口に見える。フラッシュをたいたら、どうなるかわかっているな!」と。しかし、もう遅い。軍人に見つかり、難民キャンプのようなテントに連れていかれました。尋問が始まり「何しに来たんだ!」と何度も聞かれますが、ヒマラヤ観光に来ているつもりの僕はサイトシーイングですとしか言えません。3時間ほどが経ったころ、諦めたのか、やっと解放されました。
しばらくすると、自分がどこにいるのかわかってきました。僕はインドとパキスタンの国境に位置する、カシミールという場所に来ていたんです。帰属争いが起きている治安の悪い地域であることに加え、ちょうど断食期間(ラマダーン)が終わってみんな興奮している時期で、暴動が頻発していました。軍が約200mおきに検問所を置くほどの警戒態勢でした。
軍人から解放され、やっとこの地域を離れられるとほっとしたのも束の間、今度は悪徳旅行業者に湖の上に作られた小屋に連れていかれ、そこで寝泊まりをしろと閉じ込められてしまいました。軽い軟禁生活です。約1週間、小屋のオーナーと粘り強く交渉を続け、なんとか出してもらえることになりました。しかし今度は、暴動が日に日にひどくなっていて、この地域を離れるバスがもう出ないといいます。そこでなんとか出稼ぎに行く人たちの集まりに混ざり、脱出用のジープに乗せてもらうことにしました。
軍の検問を避けながら進み、大きい門があるため避けて通れない国境付近の検問所まで来ました。当然、軍人に止められます。しかし、その軍人が「少し待っていろ!」と言って建物の中に入った瞬間、ジープに乗っていた人たちが皆一斉に飛び出し、その門をガラガラッと開けたんです。そのまま、軍人が戻るまでの隙に門を突破。僕は「頭を伏せろ!」という声に従って、車の中で必死に伏せていました。まるで映画のワンシーンのようで、本当にこんな脱出をするのかと思いました。そこから10時間以上かけて、近くの街まで出ることができました。
九死に一生を得ましたね。空港では銃を向けられ、湖の上の小屋では軟禁状態。すぐ外では暴動が起きている。人間どんなことで死ぬかわからない、簡単に死んでしまうこともあると実感しました。
このあともインタビューをしながら世界一周を続けましたが、どの国に行ってもこの時に比べれば楽勝でした。
突然のがん宣告
世界一周から帰ってきて、ネットベンチャーで働き始め、営業で結果を出すために奮闘する日々が始まりました。
2年目の春、首にスーパーボール位の大きさの腫ものができました。腫ものにしては大きかったので病院に行ったんです。そこでは風邪かもしれないと診断され、葛根湯をもらって帰りました。6月の会社の健康診断でも異常はなかったので、夏は普段通りに仕事をしていました。
ところが9月ごろになると、週に数回の頻度で体調を崩すようになったんです。これはおかしいと思って再度病院に行くと、大学病院を紹介されました。いくつか病院を転々とし、最終的に「希少ながん」だということで国立がん研究センターを紹介されました。このときには、首の腫れものがソフトボール位まで大きくなっていました。
国立がん研究センターで診てもらった結果、全身がんを宣告されました。「岸田さんのがんは首だけではなく全身に広がっていて、胸とおなかのリンパに転移しています。胎児性がんで、発症元はわかりません。原発不明です」と。
確かに、診療を受ける中で自分でもがんかもしれないとは薄々感じていましたし、がんの可能性があると言われてからは自分でも調べて、早く治療を始めたいと思っていました。それでも、まさか全身に転移しているとは考えていなかったので、どん底に突き落されたような気分でした。
しかし、先生から続けて「5年生存率が50%だ」と言われた時、世界一周の時に死にかけたことを思い出しました。これだけ転移しても50%。それなら、あの時よりは生存率が高いはずです。世界一周の時も生き延びられたのだから、なんとかなるんじゃないか。こう思って治療を始めていきました。
1度目の手術を終えた、とある日の夜中、ぱっと目が覚めると息ができなくなっていました。看護師さんに来てもらいましたが、自分の人生はもうこれで終わりかもしれないと思いました。そう感じて頭をよぎったのは、世界一周できてよかったという思いと、やり残したことへの後悔でした。
大学まで出させてくれた両親に、社会人になってから親孝行できなかった。お見舞いに来てくれたいろんな人にも、勇気をもらったのに何も恩返しできていない。そして、25年間生きてきた社会に対し、何もできなかった、と。
このとき、肺に穴が空いていたみたいです。幸いにも処置をしてもらって一命をとりとめました。落ち着いた頃、ふと同じようにがんと不安と闘っている患者さんがいるだろうなと思ったんです。そこで、あの夜に感じた後悔を思い出しました。まずは社会貢献だと、自分と同じように病気で悩んでいる患者さんに向けて、闘病談をブログで発信し始めました。一緒にがんばれたり、少しでも不安を解消できたりするんじゃないかと考えました。
誰かの一言は他の誰かにとっての希望
数カ月後、2度目の手術を行い、その後遺症で性機能に障害が残りました。
がん宣告以上にショックでした。闘病は治療の道筋が立てられます。しかし、この障害に関しては病院の先生に聞いても治るかどうかわからない、その上自分で調べても情報が出てこない。克服への道筋が立てられず、真っ暗闇に放り出されたような感覚です。
恋愛をして結婚をして子どもを持つという普通の人生設計が一気に崩れ去りました。恋愛するにも結婚するにも、この障害を越えなければいけない。それを超えても、子どもを持てるかわからない。普通の家庭像を描けなくなったということがショックでしたね。「普通」は普通ではなくて、幸せなことなんだと痛感しました。
それでも諦めずに情報を探していると、夫が僕と同じ障害だと診断された方のブログを見つけました。その方にコンタクトを取ってお話を聞いてみると、旦那さんは3カ月で自然に治ったというのです。この一言で、自分も治るかもしれないとわかり、暗いトンネルの中に一筋の光が差したような気持ちになりました。
患者さんが発信する情報はたった一つの証言に過ぎないけれど、誰かの希望になる。こう思って、患者さんしか知らないこと、経験したからこそ知っていることを発信しようと考えました。
闘病ブログはたくさんありますが、センシティブな情報を自ら載せる人はあまりいません。でも、闘病している人にとってはセンシティブな情報こそあると嬉しい。だったら僕が話を聞いて、みんなにシェアすればいいんじゃないか。こんな思いから、がん経験者へのインタビューをネットで生配信するサービスをつくろうと考えました。
今度は自分が誰かの光に
現在は、NPO法人がんノートを運営しながら、国立がん研究センターでも広報を担当しています。
「がんノート」では、がん経験者へのインタビューをインターネットで生配信しています。あえて医療的な話はあまりせず、仕事、お金、家族、性の話など、患者さんの生活に関するあらゆることを聞いています。僕ががん経験者だからこそ患者さんから聞ける情報を発信していきたいと思っています。
ネットで生配信にしているのは、今ベットにいる患者さんも見られるようにするためです。場所は違えど、時間を共有して一緒に頑張っていこうというメッセージを込めています。
国立がん研究センターでは、広報として、主にセンターのホームページの企画や保守などを担当しています。ほかにも、がんに関する調査や研究についてのプレスリリース、記者会見のセッティング、医療従事者への取材対応など様々な業務に携わっています。がんノートを始めたことで身につけた患者さん側からの視点、そして前職のネットベンチャーでの経験を生かして働けるようにと、国立がん研究センターから声をかけていただいたんです。今は、生活についての情報はがんノート、医療についての情報は国立がん研究センターと、さまざまな面からがんに関する情報を発信できているのではないかと思います。
また、それ以外にも企業や学校での講演活動や、がん患者に関する研究も行っています。海外のがんに関する情報を日本にも届けたいと思い、海外で開催されている学会にも足を運んでいます。
これらの活動を通じて、みんなにもっとがんについて知ってもらい、闘病している人ががんをオープンにできるような環境づくりを進めています。がん患者さんが笑って輝ける社会をつくりたいんです。
これからは、2人に1人ががんになる時代。今もがん患者さんの3人に1人は働いています。がんは、知らないだけでみんなにとって身近な問題です。しかし、今の日本社会はがんについてきちんとした理解があるとは言えません。そのために患者さんが不利益を被っている現状もあります。極端な例ですが、がんを理由に会社でクビを切られてしまうといったことが実際に起こっています。
日本人ががんを身近に感じられない原因の1つは、がんになったことを話しにくい雰囲気があることだと思っています。がんになったと伝えると、食事が悪かったの?とかストレスがかかったの?とか原因を追及され、自分が悪いみたいな感覚になってしまう。だからがん患者が病気について発信しにくいと思うんですよね。
一方海外では、がんに対してもっとオープンです。がんになったと伝えたら「Congratulations!」とハグしてくれ「一緒に頑張っていこうよ」と声をかけあうこともあったりします。このように、死が身近になる病気だからこそ、避けるのではなく、前向きに向き合える人を日本でももっと増やしたいです。
そのために必要なのは、がんと闘う人の姿をユーモアを交えながら伝えることだと思っています。がんになっても輝いている人がいることを、明るくポップに伝える。がんノートの配信も、面白いと思って見てもらえるように、笑える箇所をつくったり恋愛トークをしたりと、暗い話題ばかりにならないように気をつけています。また、いずれは海外の患者さんもインタビューして、がんに対してオープンな文化も日本に広めていきたいです。
あと数十年後、友人や家族など周りの人の多くががんになる時代が来た時に、僕はみんなを助ける側にいたいんです。僕はがんになった時、本当に多くの周りの人に助けられました。その恩返しとして、今度は僕がみんなを情報で助けたい。がんノートを運営するのにはそんな思いもあります。
今の僕の人生は、サッカーでいう“アディショナルタイム”だと思っています。規定の試合時間は、がん宣告の時に終わりました。その後に残されたわずかな時間だからこそ、本当の試合終了を告げるホイッスルが鳴るその時まで、今自分に何ができるか考えながら、1日1日悔いが残らないように生きていきます。
2018.08.02