笑いながら、未来を変える革命を。
既成概念を揺さぶり、新しい価値を生み続ける。

NHKでドキュメンタリー番組のディレクターを務めたのち、認知症を抱える人がウエイターをする「注文をまちがえる料理店」など様々な企画を手掛ける小国さん。どんな風に新しいアイディアを生み出し続けているのでしょうか。お話を伺いました。

小国 士朗

おぐに しろう|プロデューサー
2003年にNHK入局。『クローズアップ現代』『プロフェッショナル 仕事の流儀』などを制作。2013年に9カ月間電通PR局で勤務し、その後NHK制作局開発推進ディレクターとしてコンテンツのPRやブランディング、デジタル企画全般を担当。『注文をまちがえる料理店』を個人プロジェクトとして立ち上げた後、2018年7月にNHKを退局。株式会社小国士朗事務所をたちあげ、フリーのプロデューサーとして活動中。

熱しやすく冷めやすい子ども時代


香川県丸亀市で生まれました。父が銀行員で全国転勤があり、奈良、東京、埼玉と転々して、小学校から埼玉県志木市に落ち着きました。

子ども時代は活発で、新しい遊びを創るのが好きでした。例えば公園では、「下はワニのいるゾーンだから落ちたらだめ」など独自のルールを決めて、公園の周囲の柵の上を歩くなどして遊んでいましたね。

勉強でも、教えられたのと違う解き方を自分で考えていました。言われた通りにやるよりも、自分で考えた方が面白かったんです。もともと頭は良かったみたいで、小学6年生のとき初めて受けた全国模試では、いきなり全国3位を取りました。

小学校中学年までの僕は一言でいうと「頭の良いジャイアン」みたいな感じでクラスのリーダー的存在でした。しかし小学4年生のある日、クラスでクーデターが起きて「小国くんについて」という学級会を開かれました。クラスのみんなが僕についての手紙を一斉に書いて、放課後に先生からその手紙を渡されたんです。

手紙には、僕の悪いところが書かれていました。「ファミコンの順番を守らない」から始まって、「ずるい」とかいっぱい書いてあって。それを全部読んだ時に、「自分の中にはモンスターがいる」と思ったんです。

僕にはリーダーシップがあり、創意工夫で場を明るくしたり、一見人気者にもなれるけれど、それが悪い方向に出ると独裁者になってしまう。自分の中には何をしでかすかわからないモンスターがいるから、これからそいつと付き合っていかなきゃいけないんだと思いました。

自分をコントロールしないと危険だという意識が生まれ、それからは物事にあまり熱中することができなくなり、ちょっと冷めた感じになりました。性格も、活発なだけじゃなくて暗い面が出てきたように思います。

中学、高校では、自分で何かを成し遂げたという経験はほぼなかったです。バスケ部に入り中学高校とずっとやっていましたが、集中が続かなくて、どこか中途半端に終わりました。一生懸命やっている人をかっこいいと思うけれど、自分が熱くなるのが嫌で逃げていました。

勉強も、同じことの繰り返しができなくてすぐに飽きてしまうので、だんだんついていけなくなりました。大学受験まで全く勉強しておらず、志望した大学は全て落ちて、浪人して予備校に行きました。ほとんどの授業は興味が持てませんでしたが、自由に考えられる論文や壮大なストーリーのある世界史の授業は好きになりました。

勉強して迎えた2度目の受験でしたが、インフルエンザにかかり、高熱のまま試験を受けて全部落ちました。どうしようかと思って本屋に行ったら、東北の国立大学の赤本を見かけました。二次試験が論文だったので、いけそうだと思って受験。なんとか入学が決まりました。

何をしたらいいかわからずにもがく


大学に入ったものの、友達はいないし外にも出たくないから、引きこもって1日20時間くらいゲームをやっていました。やりすぎて左手の親指がコントローラーの十字キーの形にへこむくらいでした。

ゲームばかりしていても面白くなくなり、もっと何か意味のあることをしたいと思うようになりました。でもそれが何だかわからず、ずっとモヤモヤしていました。

大学3年生のときに、ふとアカペラをやってみようと思いました。一般人のアカペラを取り上げたテレビ番組を観て影響されたのもありますし、元から歌うのは好きだったんです。

インターネットの掲示板でアカペラ関係の募集を見つけて、募集していた人に会いに行きました。会って話してみると、たちまち意気投合したんです。そこからアカペラグループで活動をするようになり、少しずつ人の輪が広がっていきました。その中で、以前音楽会社に勤めていて、インターネットテレビの事業を立ち上げたいと考えている人と出会いました。ビジネスプランを聞き、面白そうだと思って僕も自分の考えるプランを提案。すると、一緒に事業をやろうと誘われ、その人と起業することになりました。

全くなんの経験もないところからの起業はかなり大きな挑戦でしたが、大学に入学してから3年ほど何かしたいとずっとモヤモヤしていたので、「ここでいかないと俺死ぬな」と思ったんです。後悔どころじゃない、「このままだと自分の存在意味がない」とまで思って。

起業をしていたころはちょうど、ストリートアーティストが次々にメジャーデビューして活躍していた時期で、大学近くのアーケード街にも東北中から夢を持ったストリートアーティストが集まっていました。僕はその人たちの発表の場を作りたいと考え、東北のストリートアーティストのビデオクリップを作り、インターネットテレビで発表の場を作ることにしました。

大学生になってから初めて熱中できるものを見つけて、ものすごい働きました。就活する気はなく、この会社と心中するんだと思っていました。

ところが、ある日突然、共同創業者の社長がお金を持って逃げたんです。どうすることもできず、資金がなくなって会社は潰れてしまいました。こんなことが起きるのかと衝撃を受けました。

しかし、そのままでいるわけにもいきません。じゃあ何をするかと考えたとき、テレビ局に行きたいと思いました。もともとノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが大好きだったため、その影響を受けて就職をするならメディア系がいいと思ったんです。

普通、ドキュメンタリーやノンフィクションでは、書き手は中立であり、取り上げる対象にはなるべく関与しないことになっています。でも、沢木さんは対象にすごいコミットするんですよ。一度表舞台を去ったプロボクサーがまた世界チャンピオンを目指す姿を描いた『一瞬の夏』では、沢木さん自身が試合のブッキングをしたり、ファイトマネーを出したりしていました。「この人やべえな、どんだけリスクを背負ってこんなことをやってるんだ」と驚きましたね。

彼の対象への取り組み方には一種の狂気を感じて、そこまで深くコミットできることを尊敬しました。しかも、最終的にちゃんと作品として形にしているのが本当にかっこいいんですよね。「俺も沢木さんみたいになりてえ」と思っていました。

就活に転向したのが大学4年生になる直前の3月で、テレビ局の募集はほとんど終わっていました。その中で、NHKがまだぎりぎり募集していました。NHKのことは、小学校卒業以来一度も見たことがなく、どんな番組をやっているのかも詳しくは知りませんでしたが、ドキュメンタリーをやっていることはなんとなく知っていました。これは、自分が好きなノンフィクションに近いかもしれないと思い、急いで応募しました。

面接では、起業したら社長にお金を持って逃げられた話がめちゃくちゃウケて、その話ばかりしていました。それ以外話せることもなかったですし、リアルタイムで進行していたので、「続きは二次面接で」みたいな感じで話を小出しにしていたら、最終面接まで行けて。

その頃には持ち逃げされたお金も無事返ってきて、もう一度ベンチャーをやるという選択肢もありましたが、僕はNHKへ入社したいと伝えました。これまでは、信頼がないのでなかなか人に会ってもらえませんでした。誰でも名前は知っているNHKなら、名刺の力でたくさんの人に会える。そういう環境の中で経験を積みたいと思ったんです。それを正直に話したところ、内定をいただくことができました。「一度も番組を見たことがない」って言っているやつを採るんだから、NHKすげーなと、懐の深さに心から感謝しました。

面白く、本当のものを伝えたい


NHKに入局して、1カ月研修をしたら山形放送局に配属になりました。すぐに提案書を書かされて、5、6月にはディレクターとしてデビューしていました。

番組の作り方なんて何もわからないから、まず倉庫にあったNHKの番組のテープを全部観ました。

番組を観ながらナレーションや絵の流れをすべてノートに書き出していくと、番組を作る上での全体的な構造がわかってきました。難しい事象をこんなふうに5分でわかりやすく表現するんだと感動して、面白くなってきました。これまでNHKを観ていなかった分、一気にはまりましたね。

その中で、沢木耕太郎さんが出ている『NHKスペシャル』を見つけました。観てみて、本当に感動したんです。沢木さんがあるプロボクサーに会いに行くという、言ってしまえばそれだけの話なんですが。特別なことが起きるわけじゃないのに、ナレーションのちょっとした言い方やストーリーテリングの効果で、こんなにも面白くドラマチックな番組が作れることに驚きました。

自分もこんな面白い番組を作りたいという意欲が湧き、全国放送の『クローズアップ現代』か『NHKスペシャル』を毎年作ると決めました。ただ、そのためには全国から上がってくる何百という提案書の中から採用されなければいけないので、かなりの倍率を勝ち抜く必要があります。

なんとか採用されようと、全国のNHKのディレクターの中でも恐らく一番たくさん提案書を書きました。とにかく初速が大事だと思っていたんです。大勢いるディレクターの中から抜き出て、「あいつがやるなら面白そう」と思われるようにならないと、自分のやりたいことができないと思っていました。

やりたかったのはやっぱりドキュメンタリーですね。生の、本当のものに触れたいという欲求が強かったんです。例えば、外から見ただけではすぐにわからない、人間の持っているある種のドロドロした面や、生っぽさのようなものです。

小学生のとき自分の中に得体の知れないモンスターがいると思って以来、僕自身、自分の内面を把握しきれないと感じていました。同じように、他人の内面だってわからない。だから人に向き合うことには興味がありました。

さらに、その「生の、本当のもの」を、小説より面白いものとして表現したいと思っていました。事実を淡々と並び立てるような、つまらない論文ではダメです。物語として面白く、人間らしい本当のものをあぶりだしたいと思っていましたね。

ドキュメンタリーを撮るということは、結局は「撮る対象と自分との関係性」を描くことになります。撮られる対象からしたら、「お前は関係ないのに、何でこれを撮るんだ」ということになりますよね。だから、それでも撮る理由、そこにある何を映し出したいのかということは、常に自分に突きつけられます。

僕がヘボい解釈をすれば、大したことない番組になる。ドキュメンタリーを撮るということは、自分がどこまで深く考えられるのか、ひたすら鍛錬する機会でもありました。どんな物語になるのかが自分の解釈にかかっているという面でも、ドキュメンタリーは面白かったです。

“おいしい”臨死体験


山形放送局に5年半いた後、東京の制作局に異動になり、『クローズアップ現代』の制作班に入りました。自分で掲げた公約通りに毎年作っていた、すごく好きな番組でした。

しかし、いざ班に入ると、2~3カ月に1回番組を作るのがミッションになりました。以前は必死に書いてやっと提案が通るか通らないかだったことが、いきなりルーティーンになったんです。とんでもなく憧れていたものが突然日常になってしまったことに激しい喪失感を覚えてしまって、すぐに異動したくなってしまいました。

隣の部署が『プロフェッショナル 仕事の流儀』の制作班でした。沢木耕太郎さんの『NHKスペシャル』を制作したプロデューサーが立ち上げた番組でした。どうしても『プロフェッショナル』の方にいきたくて上司に交渉した結果、1年で異動することができました。尊敬するプロデューサーとも一緒に2本やらせてもらって、むちゃくちゃ勉強になりました。

プロフェッショナルに在籍して4年目に、1カ月半に渡る中国ロケをしました。中国での撮影は移動が多くて大変で、ロケがうまくいかなかったこともあって帰国してからも編集で大苦戦。何日もほとんど寝られない日々を過ごしてなんとか仕上げました。

やっとその番組の放送が終わり、一安心してバスで家に帰る途中で、突然心臓の動悸が激しくなりました。汗が止まらず、息もできず、視界がどんどん狭まっていく。周りの人が異変に気づいて助けようとしてくれましたが、どうにもなりませんでした。

ちょうどバスの経路上に救急医療病院があったので、なんとかバスから降りて自力でそこまで行きました。しかし、その病院では救急にかかる前に電話をかけるというルールがあったらしく、診療してもらえません。目の前で40度の熱があるというおじさんが診療してもらっているのに、死にかけている僕は診てもらえないんです。「今、目の前で電話したらいいんですか」とか言って何とか交渉し、入れてもらいました。

診てもらうとすぐに、ベッドに寝かされ救急治療室に運ばれました。医者がどんどん僕のベッドに集まってきたので、只事じゃないんだな、と冷静に思いました。後からわかったのですが、心拍が普通であれば60から80くらいのところ、250まで上がっていたんです。

周囲の人々が遠くなり、自分の体がどんどんベッドに沈んでいくように感じました。朦朧としていく意識の中、僕が最後に思ったことは「おいしい!」でした。臨死体験をすることなんてなかなかないから、これはいつかみんなにウケる話のネタになるだろうと思ったんです。

僕は、一度息が止まりました。しかし、こういう人は生きるんでしょうね。もう、生き返って誰かに話すのが前提になっていますから。そこから蘇生し、意識を取り戻しました。

医者からは「心室頻拍」という心臓病だと告げられました。一命は取りとめましたが完治はしておらず、心臓にずっとバグがあるから、またいつ再発するかわからないとのことでした。もし中国でそれが起きたら死んでいただろう、とも言われました。

ロケ先でバグが出たら危険だから、強制はしないがディレクターの仕事はもうやめた方がいいと医者から宣告されました。

番組を作らないディレクター


ディレクターの仕事は大好きだったので、3カ月くらい本気で悩みました。もう番組を作れないと思うと悲しかったです。でも、番組ディレクターとしてはやりきったという気持ちがあったし、ある意味でいい機会だとも思いました。

死にかける少し前に、絶対に小説より面白いものを作ろうと意気込んで、商社マンの仕事のプロフェッショナルを作ったことがあったんです。商社の交渉は国家間の交渉に近いから、普通は撮らせてもらえません。でも粘り強く1年半くらい交渉して、なんとか撮影許可が出ました。これ以上のものは撮れないってくらい撮って番組を作りました。でも、できたものを見てみると、愛読している商社の小説の方が面白かったんです。そのとき、ここまでやってもやっぱり勝てないのか、と思ってしまって。すべては自分の力不足によるものですけど、自分の中で目標がなくなって、迷っていたんです。

そのため、ドクターストップが出たことでディレクターを辞める決断をしました。

『プロフェッショナル』を作っている時に、「なんでこんなに良い番組を作っているのに見てもらえないんだろう、もっと届ける工夫をしたい」とよく考えていました。プロフェッショナルのコアな視聴者層は「60代独居男性」というリサーチ結果があって。見てくれるのはありがたいけれど、本当に届けたい層はそこじゃない。番組ディレクターをやめることで番組を「作る」から「届ける」ことに注力することにしました。

ちょうどそのタイミングで、会社の制度で大手広告代理店に交換留学する話を持ちかけられました。プロモーションの勉強ができると思ったので行くことにして、9カ月間そこに勤めました。

NHKを出たことで、外から見て改めてNHKの価値に気づきました。受信料を頂いているから資金力があるし、全国に局があって、とにかくスケールが大きい。そしてなにより一番の価値は、公共放送だということですね。公共というのは、なりたくてもなれないですから。「公共放送」という信頼感があるから、「NHKさんとなら組もう」と思ってくれる人が多いので、作れるものも広がるし、仲間を集めやすいんです。

でも、これだけたくさんの価値があるのに、内部には、テレビはもう終わりだ、自分たちはイケていないと卑下する人もいました。「そんなことはない。すごい価値があるからもっと視聴者に届けなきゃ」という思いがますます強くなりました。

番組やNHKの持っている情報や価値を届けるために、プロモーションやブランディング、デジタル施策を戦略的に行う部署を作ろうと思いました。とはいっても、いきなり「それいいね!作ってあげますよ」となるわけもありません。まずは実績が必要です。

広告代理店にいる間から、NHKの知り合いのプロデューサーから仕事をもらい、NHKに戻ってからも精力的に動いて、50以上のプロジェクトを立ち上げましたが、その多くは失敗に終わりました。

でも、失敗を積み重ねる中で少しずつ「あ、こうやればいいんだ」というコツのようなものが分かってきて、次第に成果を出せるようになってきました。そして2016年1月に、『プロフェッショナル 仕事の流儀』のオープニング風の動画が誰でも簡単に作れる『プロフェッショナル 私の流儀』というアプリを作ったところ、これが150万ダウンロードを超えるスマッシュヒットしてくれて。実績ができたこととほぼ時を同じくして、念願だった部署が作られることになり、無事に配属が決まりました。

僕はその部署で、一人でPR、ブランディング、デジタル企画全般をやることになり、「番組を作らないディレクター」を局の内外で自称するようになりました。たとえば、NHKの番組の一番おいしい情報だけをピックアップして、短い動画クリップに仕立てを変え、FacebookやYouTubeに出す、『NHK1.5チャンネル』というサービスを立ち上げたところ、世界で1億再生を超えるような動画も生まれました。NHKにはもともと貴重な価値や情報が集積されているので、少し届け方を変えるだけで、本当に広く多くの人に届けられることが分かりました。

注文をまちがえる料理店


番組を作っていたときよりは時間ができたので、以前から構想していたアイディアを個人的なプロジェクトとして立ち上げることにしました。それは、『注文をまちがえる料理店』という認知症の人たちがホールで接客するイベント型のレストランです。

この企画は、以前『プロフェッショナル』で認知症介護のプロの和田行男さんが運営するグループホームで取材をしていたときに思いつきました。それまでは、認知症のことをよく知らなかったので、忘れっぽくなるだとか暴力を振るうだとか、怖くてネガティブなイメージを持っていました。

でも、実際にグループホームに行ってみたら、想像していたのとは全く違い、ほのぼのしてとても良い雰囲気でした。そのグループホームでは「認知症になっても最期まで自分らしく生きる介護」をモットーにしていたので、認知症の人たちが料理や掃除、洗濯をして、普通に生活を送っていました。

ある日、ご飯を作ってもらうことになったのですが、ハンバーグを作ると聞いていたのに、実際に出てきたのは餃子でした。「挽き肉しか合ってねえ」と思いましたが、何も言わずに周りを見てみました。そうしたら、みんな何も気にせずに、美味しそうに餃子を食べていたんです。

「その場にいる人が受け入れてしまえば、間違いが間違いじゃなくなる」ということに気づき、感動しました。そのときに『注文をまちがえる料理店』というワードと、同時に映像が頭に浮かびました。おしゃれなレストランの中で、エプロンをつけた可愛いおばあちゃんが「何食べる?」と聞いてきて、「ハンバーグ」と答えたら「餃子」が出てくるんです。

「これは絶対に見てみたい!」とワクワクが止まらなくなり、和田さんをはじめ、デザインやITや料理のプロフェッショナルを集めてたくさんの人の協力を得ながら、クラウドファンディングで資金を集め、東京・六本木にあるお洒落なレストランを貸し切って会場にして、2017年9月に3日間限定で『注文をまちがえる料理店』をオープンしました。

認知症の人たちにウエイター、ウエイトレスとして働いてもらいました。料理は、人気店の凄腕のプロの料理人たちが、この店だけで食べられるオリジナルのメニューを作ってくれました。

世の中の反応は想像以上でした。日本だけじゃなく、海外メディアの取材も殺到して、世界150カ国以上に広まっていきました。

ある意味で番組を作る以上の届け方ができたわけで、こういう楽しい方法で情報や価値を届けられるなら、テレビにこだわるのはもったいないかもしれないと思うようになりました。「どんな方法でも届けばいい」という思いが強くなり、NHKを退局することにしました。

過去が嫉妬して、未来が真似をする企てを


今は、いろいろなことやっているから自分の肩書きがわからなくて、名刺にも肩書きは書いていません。聞かれれば、当たり障りなくプロデューサーということにしていますが。

ラグビーW杯のスポンサーのプロモーション事業や、Jリーグと全国のクラブによるこれまでにない形の社会貢献・社会連携のプロジェクト、経済誌のブランディングや教育系スタートアップの広報支援など、幅広い仕事に携わっています。

テレビの仕事も、NHKの番組にプロデューサーとして携わることもあります。たとえば、原爆の語り手のおじいちゃんを「Vチューバー」というバーチャルキャラクターを使ったユーチューバーにするプロジェクトで、若い世代に戦争の話を伝わりやすくしたり、LGBTの当事者と市民を別府温泉に集めて一緒に温泉に入ってもらうプロジェクトで、性の多様性を実感してもらう機会を作ったりしました。

いろいろやっていますが、ずっと大事にしているのは「テレビジョン」という言葉です。「テレ」は遠くにあるもの、「ビジョン」は映すこと。だから、「テレビジョン」の役割は「遠くにあるものを映すこと」なんです。

たとえば、宇宙や深海を映すことも「遠くにあるものを映すこと」で、それはまさにテレビにしかできないことだと思います。でも、「遠く」とは物理的な距離だけを意味するのではないと、番組を作っているときからずっと思っていました。

たとえば、最近はどんどん企業の中を映すことが難しくなっているので、企業のインサイドも「遠くにあるもの」の一つです。また、心理的、社会的に自分とは関係のないものとして追いやられがちな認知症やLGBTというテーマだって、「遠くにあるもの」と言えると思うのです。

そういう意味で、僕がやりたいことは今も昔も、ずっと「テレビジョン」なんだと思います。宇宙や深海を映すわけではないけど、これまでに誰も見たことのない風景や触れたことのない価値を創り出して、それをできるだけ多くの人に届けたい。だから、今でもテレビ屋さんといえばテレビ屋さんですね。

僕の場合、どうしても飽きっぽいので、特定のテーマに一生を捧げたいわけではないんです。ただ、世の中でイケてないと思われているものや、誰も触れたがらないものに対する世間の価値観を揺さぶったり、ひっくり返すことにはすごく興味があります。

認知症はやばいとか、ラグビーはなんだかイケてないんじゃないかとか、Jリーグはサッカーだけやってればいいとか、そういう既成の価値観を揺さぶりたいんです。

これからは、「過去が嫉妬して、未来が真似をする」ようなことをやっていきたいです。既成概念にとらわれていた人たちが、「その手があったか」と悔しがる。でも、次の瞬間、思わず笑っちゃって、みんながそれをマネしたいって思うようになる。そうなるのが理想で、『注文をまちがえる料理店』はまさにそれでした。

そんなプロジェクトが生まれれば、みんなハッピーだし、僕も楽しい。そんな風に新しい価値観が広まっていって、みんなで笑いながら、一緒にワクワクする未来をつくっていけると最高だなと思います。
  

2019.02.28

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