生きづらい毎日に、アイデアで希望を。がんをデザインしイメージも現状も変えていく。

「がんを治せる病気にすることを、あきらめない」。そんな想いを実現するプロジェクト「deleteC」を立ち上げ、がんをデザインしようと活動する中島さん。「Quality of Life」をコンセプトに、オリジナルヘッドウェアのデザイン・制作・販売も行なっています。31歳でがんを患ってから、大学院への進学や起業など、積極的に活動してきた中島さんが目指す未来とは。お話を伺いました。

中島 ナオ

なかじま なお|ナオカケル株式会社 代表・デザイナー
大学卒業後、家具メーカーへ就職。その後転職し教育関係のNPO法人の仕事に携わる。31歳のときにがんを発症。大学院へ通いながら治療を続ける。修了後、髪があってもなくてもおしゃれを楽しめるファッション&ケアアイテム「NHEADWEAR」ブランドを扱うナオカケル株式会社を立ち上げる。「みんなの力で、がんを治せる病気にする」プロジェクト「deleteC」の代表としても活動をスタート。

アイデアや工夫でより良いものを


神奈川県横浜市で生まれ育ちました。小さいときから絵を描くのが好きで、よく女の子の絵を描いては服や髪形を考えて楽しんでいました。裁縫も好きで、母と一緒にいろいろなものを作っていました。

小学生のとき、家庭科の授業でエプロンを作る時間がありました。簡単に作れるキットを配られたのですが、用意されたものをそのまま作るのが嫌で、一人だけ違う形のエプロンを作ったんです。たまたま母と手芸店に行ったときに見かけた、機能性のある形が変わったエプロンを再現しました。何か作るときにはいつも「工夫したい」と考える子どもでしたね。

小学校卒業後は、女子校へ進学しました。美術の先生が作った学校案内のパンフレットがすごく素敵で惹かれたんです。中学・高校と、学校生活ではできないことや苦手なことが多かったですね。体育が苦手で、特に球技では常に足手まとい。必死に勉強したはずなのに、英語は中学1年生の初っ端から赤点を取って、追試を受けました。

学校には成績が優秀な子も多かったですが、スポーツや音楽、美術など関心のあることに夢中になっている子もいました。それぞれの興味関心事を伸ばし、尊重し合う雰囲気があったんです。多感な時期に、幅広いタイプの同級生と過ごしたことで、苦手なものばかりに囚われなくなりました。

私はあまり闘争心のない性格でしたが、美術や家庭科など好きな教科では、想定を越えるようなものを作りたい!という気持ちが強かったです。誰かが面白いアイデアを出したり良い作品を作ったりすると、「良いな、すごいな」と思うと同時に「やられた」と感じてとても悔しかったです。物作りに関しては、「仕方ない」では済ませたくない、こだわりがありました。私ならではの、もっと良いもの、面白いものをつくりたいと思っていましたね。

暮らしの中の工夫を形にする


高校生になり、将来はデザインの仕事がしたいと思いました。工業デザインの分野を目指しましたが、理系の科目でつまずいて、試験がうまくいきませんでした。2浪して、なんとか教育大学の美術科に進学しました。

大学では生活空間や生活用品のデザインを学びました。見た目に美しいだけでなく、機能も考えられていることに惹かれたんです。特に北欧デザインに魅力を感じ、半年間のスウェーデン留学も経験しました。

大学卒業後は、学んだことを生かせそうな家具メーカーに入社。レイアウトデザイン部署に、初の女性総合職として配属されました。はじめての仕事では学ぶことばかりでしたが、1年2年と経っていくと、男性社会のなかで不平等を感じる場面が多々ありました。残業をしてプレゼンを仕上げている時にも、「女性だから」という理由で、他の男性デザイナーには絶対に回ってこない、お茶や掃除の当番が回ってきました。伝えたことを真剣に受け取ってもらえないこともありました。上司に相談しても具体的には動いてもらえず、この会社では一生は働き続けられないと感じ、3年で退職しました。

退職後は、フリーランスでデザインをやるにはどうしたらいいか、女性でもずっと働き続けるにはどうしたらいいか模索しながら過ごしていました。半年ほどたった頃、出身大学の先生から教育関係のNPO法人の仕事を手伝わないかと誘われました。短期の契約というので「デザイン以外のことに触れてみるのもいいな」と、期間限定の仕事という気持ちで受けてみました。

新しい仕事は、企業をはじめとする外部と大学とを結び、プロジェクトを展開していくことでした。進めていくプロジェクトのジャンルは多種多様で、玩具やダンス教育の教材の開発、地域ボランティアの人たち向けの育成プログラムの制作などを行いました。その都度、各分野のプロである教授と仕事をするので、学びの連続でしたね。

次の仕事を見つけるまでのつもりではじめましたが、専門分野以外にも様々な体験ができる毎日に、やりがいと楽しさを感じていました。自分の気づきや工夫をかたちにしていくという点では、共通する面白さがありました。

私は悲劇のヒロインにはなれない


4年ほど勤めた31歳の時、乳がんという病気を患っていることが分かりました。身近にがんになった人がいなかったので、どうしたらいいか何もわからない状態でした。でも、がんという病気をきちんと理解しなければと思い、自分で本を読んで勉強し、医師にも質問しました。自分に合った病院で治療を受けるため、いくつかの病院に行って話を伺い、メモをとって回りました。

先生にはよく、「診察でこんなに冷静に話を聞いて、やりとりができる人は珍しい」と言われました。でも、自分のことだからこそ、しっかり分かった上で家族に相談して、判断したかったんです。必死でした。

がんは進行具合によって「0〜4」の5段階のステージに分かれており、私の場合はステージ3でした。治療が上手くいき、病気になる以前の生活に戻れると信じて、それを前提に毎日を過ごすようにしていました。

それから、半年間の抗がん剤治療がスタートしました。治療中に本屋で手に取った一冊に、若くして乳がんを患った人のことが書いてありました。その本には、私と同じ境遇の乳がんの患者が「不幸代表」のように描かれていて、「そうならないようにこの本を読もう」と書いてあったんです。衝撃を受けましたね。「なんでこんな風に書かれなきゃいけないんだ」と憤りすら感じました。

思い返すと他のドラマや映画、報道でも、がんを患った人は「悲劇のヒロイン」のように描かれることが多くありました。でも、ある側面だけが印象に残るように表現されていることにすごく違和感があったんです。

もちろん、悲しくなったり落ち込んだりして涙が出ることはありました。でも、泣いてても現実は何も変わらない。私はこれからどうしていこう?生きていくためには現状を変えていくしかない…と冷静に考え始めている自分がいることに気がつきました。がんになっても、自分が変わるわけじゃない。私は悲劇のヒロインではない未来を描きたいと思いました。

いつかじゃなく今やろう


上司に病気を伝え、NPO法人の仕事は休職させてもらいました。病院と自宅を往復するだけの生活の中で、今後の仕事や生活をどうするか悩むようになりました。休職して社会と関わる機会が減ったことで、自分だけ取り残されていくように感じて、不安が膨らんでいきました。

NPO法人の仕事は楽しく、忙しくても充実していましたが、病気を抱え、治療を続けていくことを考えると、今後同じペースでは働き続けられません。週5フルタイム勤務ができない私が自立できるだけの収入を得ながら働き続けるにはどうすればいいのか。そのためには、職業の選択肢の幅を広げるしかないと思いました。

そこで、大学院に通おうと決めたんです。大学院に通って専門知識を身につけ講師になれば、自分の生活スタイルに合わせて働けるのではないかと考えました。NPOの職場で様々な働き方をする講師をみてきたので、イメージを持ちやすかったんです。

抗がん剤治療を始めて数カ月たった夏、大学院へ願書を提出しました。教員免許を取得して修了することを目標に、治療を続けながら秋の入試に向け猛勉強をはじめました。入試日は、抗がん剤治療後の手術入院の前日でした。

手術後、放射線治療で病院に通っているときに合格が分かったんです。治療中は社会との接点を感じにくい日々を送っていたので、春から大学院へ通えると決まって再び社会と繋がりを持てるように思えて、すごく嬉しかったですね。

治療の副作用によって抜けた髪の毛が、元のようには戻らなかったので、大学院では夏でも常にニット帽を被って授業を受けていました。病気は必要以上に周囲に話さなかったので、かなり目立つし不思議に思われていたと思います。専門はデザイン教育で、大学院の授業に加え、他大学でデザインシンキングの教育プログラムも学んでいました。学生という立場を活かし、興味を持ったものややりたいと思ったことについては、可能な限り行動し、学び、楽しんでいました。

大学院修了を間近に控えた2年生の秋、がんの転移が見つかりました。もっともがんが進んだ状態にあたる「ステージ4」であることが分かったんです。

「え」と思いました。これまで、がんの本に転移について書かれたページがあっても、あえて開かないようにしてきました。見てしまったら、そうなってしまうような気がしていて。でも、もう知らないわけにはいかないので、臓器の名前から一つずつ調べていきました。じわじわと、転移がどういうことなのか、自分の状況を認識していきました。

すぐにまた抗がん剤治療を始めなければならないので、講師の仕事に就く未来は一気に現実味が無くなりました。しかし、目標に向けてはあきらめずに行動しようと決め、周りにも頼りながら治療と学業に取り組みました。

それまでは病気じゃなかったころの自分に未練があって、戻れはしなくても近づけるかもしれないという気持ちで日々を過ごしていました。でも、転移によってそれは無理だとはっきりとわかってしまったんです。わかったことで、できないことを考えても仕方ないと割り切るようになりました。切り離して、切り替えるしかないと思ったんです。これからは終わりのない治療が続いていく。「いつか」と思っていたことを、全部実行しようと決心しました。

今の自分に似合うものを


再び治療を始めるかたわら、大学生の時にデザインしたオリジナルの漆のお椀を、クラウドファンディングで商品化して販売しようと動き出しました。抗がん剤治療中の食生活を支えてくれる、つらい変化が訪れる時にこそ日常の中で寄り添ってくれるものが大事だと感じたんです。その経験から、このお椀を届けたいと思いました。すると、それを知った知人が声をかけてくれ、イタリアで開催される世界最大規模のデザインイベント期間中、現地でお椀を展示してもらえることが決まったんです。

そのころには、治療の副作用で再び毛がほぼ抜けてしまっていました。イタリアにはウィッグと、つけまつげをして行ったのですが、泊まりで友人と過ごすことの難しさ、ウィッグを被っていることへの不安や不快感が拭えないまま旅行を終えました。

初めの抗がん剤治療の時もそうでしたが、メイクにも違和感を覚え始めていました。眉毛もまつ毛もないところにメイクを乗せているので、色々な工夫はしてみていましたが、しっくりこなくて。人の目を見て話すことが出来なくなってしまった時期もありました。以前と同じようにおしゃれをしようとしても、今の自分にはできないことがつらかったですね。

でも、ずっと問題に向き合ううちに、「髪の毛がある」という当たり前すぎて疑うことのなかった価値観に縛られていることに気づいたんです。美しさも自分で定義すればいい。今の自分を基準にして、どうすれば素敵に少しでも心地よくなるのか考えられるようになったんです。

暑い夏が来る前に今の自分にも似合う帽子を制作しようと決め、手編みで作りはじめました。手探りではありましたが、完成して身につけてみると周りから反響が大きく、新しく持てた視点で考えた帽子をかぶることに自信を持ち始めていました。

日常生活で身につけるようになったある日、病院で出会った母と同じくらいの年齢の女性が私を見て声をかけてくれたんです。その人は「その帽子はあなたに似合っていてとても素敵ね。私にも似合うものを作ってほしいわ」と言ってくれました。

うれしかったですね。ポップな印象のものしかなかったので、彼女に似合う素材やデザインを考え始めました。初めて足を運んだファッションの展示会で西陣織の素材に出会い、肌触りやボリューム感が気に入って、次にデザインする帽子に使うことを決めました。サンプル製作に取り掛かりながら、製造をしてくれる人も探し始めました。

構想の段階から、頭髪に悩みのある人もそうでない人も、いろいろな人がおしゃれを楽しめる、メガネのようなアイテムにしたい!という思いがありました。その大きな目標に向かって「NHEADWEAR」というオリジナルヘッドウェアの商品化に向けて動き出したんです。知人から「会社にした方が良い」というアドバイスをもらい、35歳のときにナオカケル株式会社を立ち上げました。自分でも会社を興すことになるとは思いもよりませんでした。

ナオカケル株式会社では「QualityofLife(QOL)デザイン」をコンセプトに置き、商品を手がけています。QOLは生活の質や人生の幸福度を高める、という意味で、がん治療の現場でもよく使われる言葉です。がんになると生活の中で不便さや不具合を感じることが多くあります。でも、工夫したりアイデアを出したりして、新しい選択肢を増やすことで、QOLを出来るだけ損なわず、今の自分を少しでも好きでい続けることは叶うはずだと考えたのです。

がんを治せる病気にしたい


やりがいを感じて仕事に取り組む一方で、進行がんという、今の医学では治せない病気を抱えている現実は変わりませんでした。がんは「いつかは治せるようになる病気」だとも言われていますが、それがいつになるのかはわかっていません。だったら、少しでもその「いつか」を近づけるために、行動したい。そんな思いを周囲の人に話すうち、共感してくれる人が少しずつ増え、2019年2月、「みんなの力で、がんを治せる病気にする」プロジェクト「deleteC」を立ち上げたんです。

deleteCは、がんの英語表記であるcancerの頭文字「C」を消す表現を使って、「誰もが参加できて、みんなでがんの治療研究を応援していける仕組み」を作る活動です。具体的には、この活動に参加する企業・団体・個人が自身のブランドロゴや商品、サービスから「C」の文字を消したり、deleteCロゴをつけた商品などを制作・販売したりします。それらの商品やサービスを購入・利用することで、売り上げの一部が、がんの治療研究を行う医師・研究者に寄付されるという仕組みです。個人は身の回りの物から「C」を消すことで、活動への賛同を示すこともできます。

がんを治せる病気にするためには、ひとつでも多く「受けられる治療」を増やすことが大切です。ですが、その研究のためには多くのお金と研究者が必要で、進められていない研究があることを知りました。今の現状をみんなの力で変えていきたい。「いつか」を待つだけでなく、1日でも早くその未来を手繰り寄せたい。治療の選択肢を広げられたら、がんを患った人や家族にとっても希望になると考えました。

がんのイメージを変えていく


現在は、ナオカケル株式会社の代表として自分でデザインした商品を販売すると同時に、deleteCの代表としてプロジェクトを進めています。

deleteC始動当初は、企業や医療業界へプレゼンに行っても様々な反応があり、中には厳しい意見もありました。でも続けるうちに徐々に賛同してくれる企業が増え、何より医師からも期待の声を寄せてもらえるようになってきました。

特に、医師研修の場でdeleteCの説明をさせていただいてからの反響は大きく、応援の声や、熱い想いの詰まったメールをいただきました。がん研究に携わっている医師の方から、自分たちの研究をプレゼンさせて欲しいという依頼もいただくようになりました。このプロジェクトが、患者にとってだけでなく、医師にとっての希望になれる可能性を持っている、ということがうれしいですね。

deleteCは、私ががんになってからの5年間で、最も進めたかったことがかたちになったプロジェクトです。この活動によって、がんが治せる病気になる未来が一日でも一週間でも早く実現すれば、大勢の人の希望になる。その未来を手繰り寄せるために動いていきたいです。

がんによって生きづらい経験をした自分だからこそ、様々な活動を通してがんを「デザイン」し、がんに対するイメージを、現状を変えていきたいと思います。今後も自分にできることを続けていきます。

2019.11.11

インタビュー・編集 | 粟村 千愛ライティング | 黒岩 京子
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