サステナブル・シーフードを日本に。次世代まで続く、美しい海を守っていく。

株式会社シーフードレガシーで日本の水産業の改善に取り組む花岡さん。ダイビングを通じてマレーシアの美しい海に魅了された花岡さんが、日本で会社を立ち上げるに至った経緯とは。お話を伺いました。

花岡 和佳男

はなおか わかお|株式会社シーフードレガシーCEO
フロリダ工科大学で、海洋環境学・海洋生物学を専攻。国際環境NGOグリーンピースで海洋生態系担当を経て、独立。現在は株式会社シーフードレガシーのCEOとして日本の海洋環境の保全に向けて尽力している。

自分の使命を見つけて、貫こう


山梨県の甲府市で生まれ、3歳の時に父の仕事の都合でシンガポールに引っ越しました。4歳の時に水泳を習い始めてから、泳ぐのが大好きになり、いつも泳ぐ時間を楽しみにしていました。

小学校、中学校は日本人学校に通っていました。内向的で、積極的にみんなをひっぱるタイプではなかったです。グループを組んで行動する時も、裏方でリーダーの補佐をしたり、皆の意見を聞いて上手く調整したりするのが性に合っていました。

小学校高学年のとき、授業で第二次世界大戦について学びました。教科書を読むだけでなく、実際に戦争を体験したシンガポールの人に会って、日本をどう見ているか、戦争で日本軍に何をされたか話を聞きました。

その中で、シンガポール人は戦争で日本軍に占領され、ひどい扱いを受けた面があると知りました。教科書から学ぶ歴史よりも、戦争で受けた痛みや苦しみを持つ人たちが話す歴史は重く感じ、ショックを受けました。

シンガポールの若い世代は日本のファッションや音楽が好きで、日本に親しみを感じてくれていました。でも、戦争の歴史をよく知る年配の世代は、日本に対していい印象をもっていない人も多かったです。人によって日本人への印象が違うので、自分の日本人としての立場や役割をよく考えるようになりました。

そんな中、「人生の成功は、自分が何ができるのかを見つけ、磨き、どれだけ世の中に還元できるかにかかっている」という言葉をある人から聞きました。なるほどなと納得しつつ、自分にできることは何か、将来何をすべきか答えが見つからず、悩むようになりました。日本人として何をすべきか、周りの人たちに何が還元できるのか、揺れるアイデンティティの中では、答えが出ませんでした。

悩んでいるのを両親に相談しました。母は「人間には使命があって生まれてくる。私はあなたを産むのが使命だった。あなたも自分の使命を見つけて、それを貫いて」、父は「何をやってもいい。最後に責任をとるのは自分なんだ」と言ってくれました。両親は僕を子どもとしてではなく、一人の人間として尊重してくれていると感じ、背筋が伸びるような気持ちになりました。

その時はまだ自分の立場や役割を見つけることはできませんでしたが、これからは、周りからどう見られているのかで決めるのではなく、自分のやりたいこと、使命を見つけて、それを貫こうと思いました。

大好きな海の景色を守りたい


高校は、いろいろな国籍の生徒が集まるシンガポールのインターナショナルスクールに通っていました。水泳は学校が忙しくなってやめてしまったんですが、泳ぐのは変わらず好きでした。シンガポールは周りに綺麗な島がたくさんあったので、海に通ってはシュノーケリングで熱帯魚と戯れていました。

高校二年生の時、水泳を教えてくれていた先生から、マレーシアでダイビングの会社を立ち上げるから手伝ってくれないかと誘われました。そこで、先生を手伝いながら新たにダイビングを始めました。金曜日になると、学校が終わってからお客さんを車に乗せてマレーシアのダイビングスポットまで運び、週末は心ゆくまでダイビングに明け暮れました。泊まりがけで、日曜の夜中にシンガポールの家に帰ってくる生活をしていましたね。

ダイビングの免許もとって、お客さんに対して海のガイドもしていました。就労ビザを持っていなかったので正式には雇ってもらえなかったんですが、お金をもらう代わりに、先生に水中カメラを買ってもらったり、ダイビングツアーに参加させてもらったりしていました。

お金が欲しいというよりは、とにかく海に入れれば幸せだったので楽しかったですね。海中にはいろいろな生物がいて新鮮で刺激的でしたし、落ち込んでも、海に行けば気持ちをリセットできました。自分にとって、海はどんな時もやさしく受け入れてくれる居場所でした。

サンゴが綺麗なお気に入りのダイビングスポットがあって、潜るたびに「今日はサンゴも元気そうだな」とか「調子悪いかな?」と確かめるんです。そういう時間が何より幸せでした。

ある時、いつものように海に潜っていたら「ボーン」という大きな音が響いてきました。胸がざわざわして、急いで陸にあがって現地の人に「あの音はなに?」と聞くと「ダイナマイト漁だ」と言われました。ダイナマイトをサンゴの中に仕掛け爆発させ、その振動によって気絶した魚を捕獲する漁法です。

ダイナマイト漁でサンゴが壊れ、大好きな海の世界が失われていくのは、自分の一部がなくなるようで本当に悲しかったです。生活のために魚をとるためとはいえ、何百年もそこに生きてきたサンゴの歴史が一瞬で吹っ飛ぶのにやりきれなさを感じました。

「大好きな海の世界を守りたい」と強く思いました。でも具体的に何ができるのかすらわからなかったので、大学で勉強しようと思いました。

親は日本の大学への進学を勧めていましたが、日本やシンガポールから遠いアメリカ・フロリダの大学に行くことにしました。シンガポールは多様な文化や最先端の情報が入り混じる面白い場所だとはいえ、淡路島ほどの国土しかない小さな島国です。そこでずっと過ごしてきたので、次は全く違うもっと大きな場所の文化や価値観に触れて世界を広げたいと思いました。

また調べた限り、日本には、魚を獲ることを学べる大学はありましたが、海を守ることを学べる大学がなかったことも大きかったです。そこで、フロリダの大学に行くことを決意。海洋環境学と海洋生物学を専攻しました。

まず自分の国を変える方が先だろう


大学では、海を守る方法を学ぶために海洋環境学と海洋生物学を専攻し、知識を蓄えました。卒業後は、ダイビングをする中で守りたいと思っていた海があるマレーシアに移り住みました。

マレーシアをはじめ東南アジア諸国では、マングローブ林を切り開くエビの養殖業が盛んでした。しかし、マングローブ林を切ると土砂が海の中に流れ込んでサンゴの上に積もり、光合成ができなくなったサンゴは死んでしまう問題があったんです。その問題を解決するため、現地の人々の収入源となる仕事を別に作ろうと、23歳でマングローブ林を切り開かずにエビの養殖をする会社をローカルパートナー達と共に立ち上げました。

田舎の奥地で教育も十分に受けられず、英語も通じない相手に対し、片言のマレー語と身振り手振りでなんとか会話をして、養殖に必要な設備を整えていきました。自分で井戸を掘って飲み水を確保したり、部族間の争いに巻き込まれたりと、サバイバルな生活が続きました。

自分も現地の人たちに交じって一緒に汗を流しながら、家族を養うためにマングローブを切る仕事をしていた現地の人たちに、「自然破壊をせずとも、違う仕事でお金をもらって家族と幸せに暮らせる」と伝えていきました。生きるための仕事として、他の選択肢もあるのだと伝えたかったんですよね。

苦労のかいあって、ビジネス自体はなんとか軌道に乗り始めました。でもその頃にマングローブを切り開いて生産するエビを一番消費しているのが日本だと知り、自分の行動に矛盾を感じるようになりました。

「家族を支えたい」と純粋な気持ちで働く現地の人たちに「自然破壊は良くない」と綺麗事を言う前に、まず問題の根源である自分の国の行いを変えるほうが先だろうと思ったんです。

物心ついてからは日本に住んだことがなかったので、不安はありました。しかし、自分の国に帰れるワクワクした気持ちも大きかったですね。国に貢献して問題を解決し、もっと日本を豊かな国にしたい思いで、26歳の時に日本に帰りました。

理想と現実のギャップ


日本ではまず、フリーペーパーを制作する会社を作りました。新婚旅行に行く夫婦をターゲットにして、旅行場所に良い海を紹介する冊子を作り、結婚相談所の会員雑誌に挟んでもらっていました。紹介する場所へ旅行に行ってもらうと、地球環境を守る慈善団体にいくらかお金が入る仕組みになっていました。

しかし、だんだん会社を運営していくため、利益を優先して動かねばならない場面も多くなりました。海や生物、地球の環境を守りたいと思っている自分の純粋な気持ちと、やっていることがかけ離れていく感覚が強くなりました。仕事に追われ、大好きな海にもあまり行けなくなったのも、精神的に辛かったです。

問題を解決したい気持ちで日本に帰ってきたのに、社会の歯車になって自分を殺し、言いたいことも言えなくなっていました。「もっと自分の考えを言って、問題提起していきたい」と思い、29歳の時に会社をたたみ、海洋環境を守る活動を行っている国際NGOの日本支部に入りました。

NGOは、海外だと市民の代表として先頭を切って問題を解決していくかっこいいイメージがあったので、自分もその一員になれるんだ、という高揚感がありました。でも実際に入ったら、日本では何をやっている組織か社会に正しく知られていないとわかり、誤解や偏見も多く、ちょっとがっくりきましたね(笑)。

問題を解決できる基盤を作りたい


海洋生態系を担当し、乱獲や沿岸開発に焦点を当て、日本の水産業や水産行政を対象とする活動に取り組みました。熱い想いを持つ専門家や活動家が世界中から集まる環境での活動は刺激的でしたし、とてもやりがいがあり、実際に問題意識は深く浸透したと思います。

ただそのNGOは問題提起を強みに持つ組織だったので、活動を展開する中で「問題があることは分かった、ではどうすればいいのか?」という相手からの問いに、具体的な解決策の提案ができず、もどかしさや歯痒さを感じるようになりました。徐々に、これからの日本に必要なのは実際に問題解決に取り組むプレーヤーだと思うようになりましたね。

乱獲や沿岸開発に歯止めをかけるキャンペーンなどを手がける中で、問題提起を行うことにより生まれる対立構造にやりにくさを感じることも多くなりました。他の国ではもっと過激な問題提起をしてキャンペーンを成功させているのに、どうして日本ではなかなか受け入れられないのだろう?と考えました。

その結果、NGO同士が連携して問題解決に向かう、チームプレーがしっかりできていないことが原因だと思いました。海外では、問題提起してホコリをたたせるNGOと、そのホコリをおさめ、問題解決のための落とし所を提案するNGOが、裏では戦略を共有しています。だからこそ問題解決まで進めることができるのです。

特に、課題感を感じていたのは、日本で「サステナブル・シーフード」という言葉が広まっていないことです。サステナブル・シーフードとは、将来も今と変わらずに魚を食べ続けられるよう、漁獲量や環境を配慮した適切な方法で獲られた魚介類のことです。20年以上前から、欧米を中心に広がっていました。

日本でサステナブル・シーフードを普及させるのは、世界有数の漁業地域であり、魚食地域であるアジアに普及させるきっかけになることから、国際NGOの間では重要だと捉えられていました。しかし、いくら重要だと行政や消費者に伝えても、サステナブル・シーフードという新しい考え方はなかなか普及しませんでした。

そんな中、いろいろな水産業者と関わりを持つ中で、だんだんと「もし、魚の小売業者がサステナブル・シーフードを大々的に扱うようになれば、日本でもこの新しい考え方を普及できるのでは」と考えるようになりました。

そこで、8年勤めたNGOをやめて、サステナブル・シーフードを普及するための会社を立ち上げました。問題提起ではなく問題解決に取り組むプレーヤーとなるためにはNGOよりも会社で取り組んだ方が良いと思ったんです。

未来の世代へ美しい海を残す


現在は株式会社シーフードレガシーの代表として、サステナブル・シーフードの需要を増やす活動を行っています。環境、経済、社会をつなぐ象徴としての水産物(シーフード)を、豊かな状態で未来世代に残す(レガシー)ことを使命とするソーシャルベンチャーです。

会社の事業は大きく4つの柱に分かれます。1つ目が、バイヤーエンゲージメントと呼ばれるもので、実際に魚の販売を行う業者さんに、サステナブル・シーフードの取り扱いを増やしてもらう事業です。今は大手の小売業者や、大手企業の社食、有名なホテルなど、影響力の大きいところでも需要は高まり、サステナブル・シーフードを扱うお店はどんどん増えてきています。

2つ目が生産者へのサポート活動です。サステナブル・シーフードを求めると、今はどうしても輸入水産物がメインになってしまいます。そこで、国内産のサステナブル・シーフードを増やすために、志のある日本の漁業者や養殖業者のサポートをしています。漁業や養殖業の方法について細かくコンサルティングを行い、活動計画を策定したりしています。

3つ目がNGOのコーディネーションです。NGO同士で連携して戦略を共有していくことで、団結して大きな問題を解決できる力が生まれると信じています。当社独自のグローバル・ネットワークを活用し、目的を共有する組織同士が連携して活動を進められる支援を行っています。

最後の柱が行政へのサポートです。最近になってようやく日本でも、水産業に対する法律の見直しが進んでいて、2018年末には70年ぶりとなる漁業法改正も実現されました。漁獲量や環境に配慮した漁業を行うため、規制を強化しそれを確実に実施する政府の働きが必要で、そのサポートを僕らで担っています。

豊かな海洋環境を脅かす乱獲の問題を解決するには、環境負荷の少ない漁業や養殖業を促進させることが鍵。当たり前のことですが、魚は海で卵を産み成長していくので、その再生産ペースに合わせた活用をすれば、水産業はサステナブルな産業になることができます。その実現のために、日本のビジネス環境や地域社会にあった国際基準の地域解決策を、欧米主体ではなく日本のステークホルダー全員と共にデザインしていこうと、様々な活動をしているのです。

うれしいことに、僕らの活動は国際的にも評価されており、国際組織から、世界の水産業や海洋に関する課題解決に貢献したリーダーとしてチャンピオンに選ばれたりもしました。今や欧米に限らず、韓国、メキシコ、フィリピンなど多くの国々の組織から、僕らの活動や考え方を紹介する講演依頼も受けています。

将来は「日本産の魚はサステナブル・シーフード」だと世界中に思ってもらえるようにしたいです。そして水産の問題を解決し、自分の原点である、サンゴ礁が綺麗な海を守っていきたいです。遠回りかもしれないけれど、日本やアジア全体で海との関わり方が変われば、美しい海の景色が守られると考えています。

純粋に、海が好きという気持ちはもうずっと変わらないし、これからも変わらないと思います。大好きなものを守るためならいくらだって頑張れるし、それが楽しいんですよね。

僕自身、子どもの頃みたいにいつでも海に触れる生活をし、子どもや孫にも綺麗な海が身近にある環境を残しておきたい。それが一番の目標です。

2019.09.25

インタビュー・編集 | 種石光
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