開発途上国の女性に生き抜く力を。誰もが自分の大切なものを守ることができると信じて。
国連機関のスタッフとして、ガイアナ共和国で女性の生計の安定化や災害管理能力を強化するプログラムに取り組む内野さん。「女性の力を信じていきたい」という思いのもと、日本から遠く離れた地で活躍する内野さんの原動力とは。お話を伺いました。
内野 恵美
うちの めぐみ|国連開発計画(UNDP)ガイアナ事務所/ジェンダー・スペシャリスト
女性のエンパワーメントに興味を持ち、民間企業勤務を経て、東日本大震災後は岩手県大槌町にて女性の手仕事を通じた雇用創出支援を実施。その後外務省で政策立案に携わり、インド、アメリカのNPOにてマイクロファイナンスなどを通じて女性の金融アクセスの改善に貢献。2018年5月からは日本の震災の経験を活かし、南米ガイアナ共和国の国連開発計画 (UNDP)にて同国の女性の災害管理能力強化のプロジェクトの実施に携わっている。
内気だった子ども時代
神奈川県の横浜生まれ横浜育ちで、父と母、弟の4人家族です。小さい頃は、あまり喋らない子どもでした。母はよく「めぐちゃんならできる」「努力していれば、できないことはない」と言ってくれましたが、なかなか自信が持てませんでした。積極的に自分の意見を主張したり、人前に立ったりしませんでしたね。
母は専業主婦で私と弟を育ててくれていましたが、結婚前はバリバリのキャリアウーマンでした。「結婚しても仕事は続けた方が良いよ」と私が小学生の頃から言っていました。母の言葉を聞くたびに、「母は仕事を続けていたら、また違った人生だったのかな」と漠然と感じていました。
1年間でキャラが変わった
中学1年生の時、父の仕事の関係で、1年間アメリカに引っ越しました。英語も話せず、現地には友達もいないので、日本を離れるのがとにかく嫌でした。両親に「自分で毎朝お弁当を作るからおばあちゃんの家に置いていってください」と泣きながらお願いしたほどです。現地で初めての登校日、スクールバスに乗せられた時は、すごく怖かったです。
通うことになった現地の公立学校では、アメリカ国籍以外の人も多く、英語が話せない人も珍しくなかったです。英語が話せなくてもバカにされませんでした。みんな仲良くしてくれて、2~3カ月ほどで慣れました。
先生も、私のできないことを注意するのではなく、できることに目を向けてくれました。私はピアノが弾けたので、みんなの前でピアノを弾く機会を設けてくれました。日本は弱みを改善する環境でしたが、アメリカは強みを伸ばしてくれる環境でした。
日本の当たり前が世界の当たり前ではない、と感じる場面も多かったです。私の身近には専業主婦のお母さんが多かった一方で、アメリカでは働くお母さんが当たり前のようにいました。男性のイメージが強かった校長先生も女性で、スーツを着て男性に対してリーダーシップを取る姿が印象的でした。
英語は男女や上下関係に関する言葉も少なく、周囲の人たちは大人や子ども、男性や女性を意識せずに接してくれました。対等な立場で意見を求めてくれる環境がすごく良いなと感じましたね。
帰国すると、みんなから「キャラが変わった」と言われるほど性格が変わっていました。自然と自分に自信が持てるようになり、意見を主張できるようになっていたんです。また、それまで意識していなかった日常の些細なことにも、「日本はなんでそうなんだろう」と疑問を持つようにもなりました。
国際協力に興味を持つ
帰国してからは、他の教科をほっぽり出して、英語ばかり勉強していました。アメリカに行ったことで、「全教科できなきゃいけない」という考えから「これが好きだから、これをやる」という考えに変わっていました。漠然と、将来は英語を使う仕事をしたいとも思いました。
高校卒業後は、英語に強い大学に進学しました。周りは留学生やインターナショナルスクールの卒業生など、英語ができる人たちばかりでした。それまで得意だと思っていた英語が、たいしたことないと気付き、ショックでした。最初のテストの成績は、落第しそうなほどひどかったです。先生には「英語を使って仕事をするなら、英語はできて当たり前。英語ができるだけでは通用しない」と言われていたことから、英語を頑張りつつも、何か特定の分野の専門知識を身に付けようと意識するようになりました。社会学を専攻する中で、女性の働き方や、社会の中での女性の役割など、ジェンダー問題について興味深く学んだのもこの時期です。
大学3年生の夏休み、カンボジアで貧困や環境問題を学ぶ大学主催のプログラムに参加しました。家庭の事情で学校に通えない子どもたちが集まるプレスクールでのボランティア活動です。張り切って向かったものの、現地では、子どもたちと一緒に遊ぶことやご飯を食べさせることしかできませんでした。自分は大学で勉強する機会をもらっているのに、そんなことしかできない現実に無力感を味わいました。
同じ頃、NGO団体で通訳をする機会もありました。親を亡くした世界中の遺児たちを支援している団体が、日本で交流イベントを行う際の通訳です。ハリケーンカトリーナや阪神・淡路大震災で親を失った遺児たちの通訳を行う中で、自然災害の悲惨さを肌で感じ、また、災害後の生活再建にも貧困や人種による格差がある状況を知りました。
それらの経験を通じ、国連職員になりたいと思うようになりました。好きな英語を活かして、世界中の人たちが安心して暮らせる社会を作るという視点で、自分ができることをしていきたいと思ったんです。
その第一歩として、卒業前には国連人口基金(UNFPA)東京事務所で、ボランティアとして広報の仕事に携わりました。この機関は、安心した妊娠・出産のサポートやジェンダーに基づく暴力の予防など、すべての人が性と生殖に関する健康・権利を享受できることを目的とした活動をしている機関です。そこで私は日本の多くの人に活動内容を知ってもらうため、新聞記事を書いたりしました。
国連職員になるには10年かかると言われています。語学力と、数年の(できれば日本国外での)職務経験に加え、大学院修士号が必要です。視野を広げて英語以外のスキルを手に入れようと考え、まずは日本の民間企業で2~3年の社会人経験を積んでから、海外の大学院に進もうと計画しました。
現地の人を後押ししたい
大学卒業後は、大手自動車メーカーに就職しました。外資系企業よりも、外国進出をしている日本企業の方が海外に行ける機会が多いだろうと考えたからです。
海外営業担当になり、タイにある海外販売会社のマネジメントとして、生産計画や販売戦略、新規事業開発を考える仕事に就きました。現地のスタッフと働くことも多く、仕事はすごく楽しかったですが、それゆえに頑張り過ぎてしまい、3年目で体調を崩してしまいました。
それを機に、「自分は車を売りたいのではない」「やっぱり国際協力や人の役に立つ仕事がしたい」と思う気持ちが強くなり、3年半で会社を退職しました。その年に起こった東日本大震災後に、現場で活躍していた友人たちがいたことも、その決断を後押ししてくれました。
東北の復興現場でこれまでの製造業での経験が活かせるプロジェクトはないかと探していたところ、「大槌復興刺し子プロジェクト」を見つけました。刺し子とは、布地を刺し縫いする東北の伝統的な針仕事で、女性たちの仕事です。刺し子を施した商品の制作・販売により、女性の雇用を増やし、復興へ繋げていこうという取り組みです。生産管理などの経験が活かせそうだと思い、応募し、岩手県大槌町に定住を決めました。
プロジェクトでははじめに、製造マニュアルや在庫管理のルールを作る仕事などを任されました。そののちにプロジェクトマネージャーとなり、販路の拡大や商品企画、広報、人材育成なども行いました。
そんな中、事業の運営に携わってくれていた現地の女性から、「震災前は自分にできる役割はないと思っていたけれど、自分にもできることがあったと気付いた」という言葉をかけてもらいました。本当にうれしかったですね。震災は悲しい出来事だったけど、その悲しみを乗り越え、自分たちの力に気づく女性が出てきたことに感動しました。
2年半ほど経ち、現地の人だけでも続けていける段階まできたところで、やめることを決めました。最初は外部の人間が主導的に進めていましたが、プロジェクトを通して、外部の人間が主導するよりも、あくまで現地の人たちが主体となり、そのサポートをしていく体制の方が良いと考えたのです。
プロジェクトから離れたタイミングで、29歳の時にアメリカの大学院に進学しました。ソーシャルワークという分野を専攻し、プロジェクト実施や評価、パートナーシップなどを学びました。本庄国際奨学財団、日米カウンシルや大学からの奨学金をいただくことができたおかげで、学業に加えてインドやアメリカのNPOでインターンをしたり、ヨルダンへ研究調査に行くことができました。奨学金をいただけたのは人生ではじめてだったのですが、お金を出してくださった方と直接会うことができ、私の夢のために投資して全力で応援してくれる方たちへの感謝を社会に還元したいと強く思うようになりました。
また、大学院在学中に、国連ボランティア制度にも登録しました。プロジェクトとポジションごとに応募、参加が可能な制度です。正規国連職員になるため、ジェンダー問題についてのより専門的なスキルと途上国での実務経験を積めるのではと思いました。
その制度を通じ、南米にあるガイアナ共和国での女性と防災についてのプロジェクトの募集を見つけました。聞いたことがない国で、治安面での心配もありましたが、東北の復興現場での経験が活かせるかもしれない、と思い、思い切って参加することにしました。
女性の可能性を信じていきたい
現在は国連開発計画(UNDP)のジェンダースペシャリストとして、ガイアナ共和国で女性の生計の安定化や災害管理能力を強化するプロジェクトに携わっています。災害リスクの高い地域で、農業での生計の立て方や災害が起きた時の対処法などのワークショップを行っています。
ガイアナ共和国は農業が盛んで、大規模農家はほとんどが男性です。一方、現地の女性は育児や家事などの仕事があったり、お金や情報へのアクセスが限られているため、農業で生計を立てている人は、ほとんどいません。
ガイアナは洪水や干ばつなど自然災害が頻発しています。今までは男性に守ってもらうという考え方が主流でしたが、本来ならば女性も平時には家計を支えていけるだけの能力があり、また、しっかりとした防災知識があれば、災害が起きた時にも家族やコミュニティを守ることができるのです。
農村を回り、防災やジェンダーの意識を高めることは、なかなか容易くはありませんでした。ただ、日本の復興現場で被災された方一人一人から聞いた震災直後の話や、避難所での経験、生活再建の難しさなどの具体例を伝えることで、参加者の人たちが「震災が今起こったら、自分の家族やコミュニティはどうなるだろう」と主体的に考え、家族や近所の人を研修に呼び寄せる場面が見られたことは、とても嬉しかったです。また、実際に、規模は小さいけれど農業を始め、生計を立てようと頑張る女性も出てきました。
共にプロジェクトを実施している現地政府に対しては、現在どの程度の女性が農業に携わっているのか、彼女たちのニーズはどんなものなのかといった細かいデータを集めたりしています。また、男女ともにプロジェクトに参加してもらうためにはどのようなことを気を付けたらいいのかなどのアドバイスをすることにより、より効果的な女性の能力強化ができるよう後押しをしています。
世界中にはまだまだ、女性と男性の格差が存在しています。しかし、岩手県大槌町でも、ガイアナでも、インドでも、ヨルダンでも、女性が逆境の中で家庭や社会にインパクトを与えている様子を何度も見せてもらい、そのたびに女性の持つ可能性の大きさを感じてきました。
今後は国連の正規職員として、特に防災や復興現場での女性のサポートや地位向上にフォーカスした活動に力を入れていくことを目指しています。
プライベートでは、現在も行っている日本での講演活動を続けていきたいです。帰国した際には依頼のあった自治体や学校で自分の体験談をお話させてもらっています。
周囲から「女性がひとりで南米で頑張っていてすごい」と言われることもありますが、決してそんなことはありません。もちろんはじめからできたわけではないし、思い返してみたらむしろできないことばかりでしたが、自分を信じてくれる家族と友達、そして新しい場所に行くたびに歓迎して身の回りの面倒を見てくれる現地の人たち。そんな人たちに信じてもらえて、チャンスをもらえたからこそ、自信をもって未知の国に赴けるのだと思います。
これからも自分の大切なもの、それが人や場所、はたまた夢であれ、それらを守ることができないって思ってる人たちにも、あなたならできる、あなただからできる、ということを伝えていきたいです。
2019.04.30