祖父の代から伝わる町工場を継ぐ3代目。続けていくという強い意思が発展につながる。
【トマト銀行提供】祖父の代からの家業を継ぎ、三代目として昭和工業所を経営する葛間さん。町工場でありながら、他と一線を画した取り組みにより大手企業からも多くの受注を獲得しています。工業所を継ぐまでの経緯や、現在の取り組みや工夫についてお話を伺いしました。
葛間 立人
くずま たつと|株式会社昭和工業所代表取締役社長
昭和工業所の3代目社長を務める。タイミングプーリー等の製造を行っている。
※この記事は、トマト銀行の提供でお送りしました。
生活の一部だった工業所
岡山県井原市で長男として生まれました。祖父母と父母、弟の6人家族です。
家は祖父の代から工業所を営んでいます。初めは自動車会社の下請けでしたが、父の代からタイミングプーリーの製造を始めました。タイミングプーリーというのは歯車の役割をする部品のことで、自転車のチェーン部分や食品包装のために使われる機械などの一部に使用されています。
子どもの頃は、工業所でタイミングプーリーの他にも洗濯バサミ、おもちゃのピストル、バドミントンの羽、樹脂の成型品なんかの加工下請けもやっていました。父がそういうものを作るのを見ているのは楽しかったですね。作ったもので遊べるのも良かったです。
小学生の頃は一人で絵を描くのが好きで、大人しくてあまり目立たない子でした。しかし、地元の中学に進学してバレーボールチームに入ると、性格がガラッと変わって明るくなりましたね。
それまで運動は得意じゃありませんでしたが、体が大きくなってバレーボールで活躍できるようになったんです。小学生の頃から、学校のない時は工業所での手伝いをして、自動車部品の研磨をしたり重いものを持ったりしてきました。そのお陰か筋肉がついて体つきががっしりしてきたんです。バレーにはかなり打ち込んで、県大会で2位まで行きました。
進路については、長男だから工業所を継ぐことは決まっていたので、「大学くらいは出とかんといけん」と大学受験を視野に入れて県立の普通科の高校に行きました。高校でもバレーは続け、県のベスト8まで行くことができました。
マネジメントや営業を学ぶ
大学は、岡山市にある開学2年目のところを選びました。歴史がないからこれから新しいことができるんじゃないかと思いましたし、産業社会学科という学科があったためここで学べば将来の役に立つかなと思ったんです。
しかし結局、大学時代はバイトばかりしていました。年間300万円くらい稼いでいましたね。ホテルのウェイターのバイトです。フロアの取りまとめ役をしてたので、人の使い方や現場の士気を高める方法を学べたのが良かったです。特に女性が多い職場だったので、お互い僻み合ったりしないようにみんな平等にやらんといけんとかね。いろいろな人が働いているので、それぞれの悩みや考え方を聞けて勉強になりました。
将来は父のような仕事をしたいと考えていましたが、すぐは継がせてもらえず普通に就職活動をしました。最終的に、父がブリヂストンと取引をしていた関係で、ブリヂストンに勤めることになりました。
会社が東京だったので、初めて上京しました。配属されたのは営業の部署です。タイヤ以外にもいろいろな加工品を販売しており、まず売ったのは給水のために建物の中にはりめぐらせる樹脂ホースというものでした。以前は全ての配管は鉄で、職人さんが手作業で繋げていましたが、樹脂だといちいち繋げる必要がなくて楽なんです。社長に「これから伸びる部門だから勉強しとけばええ」と言われて、アパートやマンション一軒一軒に材料を持って行って、実演販売をしていました。最初は全然売れなくて、同僚と飲みに行ってうさを晴らしたりしていましたが、商品の理解が進むにつれどんどん売れ始めました。時代の流れに乗って売上が伸びていくのが面白かったです。
次は、建物の免震のために、建物の下に入れて揺れを吸収する防振ゴムを主に建設会社に販売しました。これもいろいろな物件に使われて、首相官邸にも導入されました。スケールの大きい仕事をやらせてもらいましたね。樹脂ホースと防振ゴムで、工業用品の営業を6年やれたので、後につながる経験になりました。
潰さんようにせんといけん
それから社長が変わったタイミングで、加工品部門も縮小することになったため、僕は地元に戻ることにしました。東京も十分に満喫したし、やっぱり田舎の方がええなと。岡山に帰って、実家の昭和工業所で働き始めました。
昭和工業所ではブリヂストンの物流業務を受注していたので、その倉庫の出荷業務を3年くらいやりました。すると、ブリヂストンが自社倉庫を持つことになり、発注がなくなったんです。うちの倉庫は使われなくなりました。
倉庫業務がなくなったので、昭和工業所はタイミングプーリや歯車など、自社製品の製造にシフトしていくことになりました。これまでは、県内の別の地域にある工場でおじさんが一人で細々と製造・加工を担当していたんですが、僕もそこに行って製造技術を学ぶことになったんです。
販売は自信がありましたが、製造は初めてなので自信がなかったですね。ただ、父が「現場を知らんとモノは売れん」という徹底した現場主義だったので、とにかくやってみることになりました。
何もかも初めての中で、特に鉄を削るのが怖かったですね。回転している刃物を少しずつ送ることで鉄を削るのですが、近くでやるのでかなり怖いんです。いつもケガの隣におる、という意識で毎回緊張感を持ってやっていました。また、技術のことを理解するのはやっぱり難しくて、おじさんに一生懸命聞いてました。メーカーに行って勉強したり、わかるようになるまで意地でもやっていましたね。
実は小学生の頃から親父に、僕が工場をすぐ潰すって言われとったんです。それに対して、反骨精神で「潰さんようになんとかせんといけん」と思って頑張っていました。倉庫業が無くなってしまったので、この製造業を同じくらいの売上を出せる事業にしないといけない。絶対に潰さないぞという気持ちでやる気を出していました。
それから、僕は文系なんですけど、理系で東大卒みたいな人たちと喋るのが新鮮で面白かったです。自分も理系みたいな顔して工場に行っていました。僕は行く場所行く場所でカメレオンみたいに変わるんですよ。これまでいた環境との差に面白さを見つけて頑張っていましたね。
不思議なことに、倉庫がなくなってから製造の依頼がブワーッと入ってきて、売り上げが伸びたんです。他の工業所が休んでいる土曜などにもうちは営業していたので、そういうところが受け入れられたのかもしれません。営業兼技術職みたいな感じで10年くらい働き、34歳の時に代表になりました。親父がいるから権力はなかったんですけどね。でもトップかどうかとか関係なく、祖父の代から続いているものを自分も続けていかにゃいけんっていう意識がありました。
社員の幸せと会社の発展を目指して
現在は、昭和工業所の3代目として、父の後を継ぎ工業所を経営しています。工業所で製造しているのは、タイミングプーリーや歯車などです。
うちは多品種小ロットで、毎日製造するものが変わるくらい、いろんなオーダーに対応しています。 それを実現するために、多能工で1人の職人がいろんな機械に対応できるように教育しています。さらに、高性能の検査機器を導入することで、規格にぴったりあった製品を作れることも強みです。
だから、町工場ですけど大企業からたくさん発注いただいていますね。取引先は全国に30社あります。他社ができんような難しい仕事をして、お客さんがありがとうと喜んでくれるのが一番嬉しいですね。
最近は、売り上げが上がってきたため採用を強化しています。今は現場に7名しかいなくて人材不足なので、人を増やしたいですね。そのために、ここで働きたいと思うような環境づくりをしています。
具体的には、有給を取りやすくして残業もほとんどないようにしてます。勤務時間も区切って、主婦の方でも子育てしながら働けるようにしていますね。融通がきくところが小さい所の良い所だと思うので。他にも、作業環境がよくなるように工場の中に有線で音楽を流したりもしています。
今後の目標としては、売り上げ1億を目指し、安定した企業にしたいです。
あとはやっぱり、自分自身も幸せになりたいし、社員にも幸せになって欲しいですね。「世界へ」とか大きいことをみんな考えるけど、そんなこと思わんでいいんですよ。社員が自分の幸せを思って、納得がいく生活ができればいいですね。
自分も社員も幸せでいれば、自然と会社も大きくなっていくんじゃないかと思います。
2018.12.20