漁師が損をしないための、独自の六次産業化。腹の底から約束したことを曲げないために。

漁師や地域と直結し、各地の漁場より直送される鮮魚を楽しめる居酒屋「四十八漁場」のバイヤーを務める長野さん。プロミュージシャン、コピーライターと華やかなキャリアを歩む中で、未経験の漁業に転身した理由とは。東北の漁師の方たちに対する想いを伺いました。

長野 泰昌

ながの やすまさ|魚のバイヤー
「塚田農場」「四十八漁場」など、複数の飲食店を経営する株式会社エー・ピー・カンパニー勤務。グループ会社の株式会社セブンワークに出向し、東北を軸に日本全国の漁師や地域と直結し、鮮魚を直送する仕組みづくりを行う。

初めて守った自分との約束


生まれは福島県双葉郡浪江町ですが、育ちは東京の大田区です。音楽が大好きで、物心つく前から、カーペンターズを聴くとすぐに泣き止むような子どもだったそうです。

夢はミュージシャンになることでした。小学生の時に日本武道館で見た、吉川晃司さんのステージの影響です。演奏が始まった瞬間、体中に電撃が走ったんですよね。絶対に自分もあのステージに立ちたい。そう思っていました。

ただ、高校を卒業する時になっても、ミュージシャンになりたいと親に言えませんでした。自営業で一生懸命働いている両親の姿を、幼い頃から見ていたので、親を失望させたくないと思ったんです。

その頃、アルバイト先に英語を流暢に話せる先輩がいて、その人みたいな生き方もいいなと思い、留学することに決めました。高校を卒業してから2年間、英語の勉強と資金集めをし、20歳の時オーストラリアに渡りました。

ところが、英語は全く話せなかったので、学校では10クラス中、下から2番目のクラスでした。悔しかったですし、綺麗な外国人の女の子と話せるようになりたいとう下心もあり、頑張って勉強しました。この時、人生で初めて勉強が楽しいと思いましたね。2ヶ月経つ頃には、生活には困らないレベルになりました。

次の目標は、1番上のクラスまで上がることでした。1番上のクラスは、ティールームから見える場所に教室があって、昼休みに生徒が出入りするのが見えたんですが、その姿すごくかっこよかったんです。俺もあのドアから出てきたい。それがモチベーションでした。

それからは、死にものぐるいで勉強しました。あまりのつらさで逃げようとしたこともあります。そんな時、先生から「I disappointed you」と言われたんです。その一言で、踏ん張ることができました。自分を信じてくれている先生を、失望させたくないと思ったんです。

最終的に、思い描いていたとおり、1番上のクラスまで上り詰めることができました。生まれて初めて「腹の底から自分と約束したこと」を守った経験でした。

心から音楽がやりたい


帰国後、旅行会社に就職しましたが、本当にやりたかったのは音楽でした。ある時、残業してヘロヘロになって帰っていると、電車の窓に疲れ切ってる自分の姿が映るじゃないですか。それを見て「何でこの仕事してるんだっけ?俺、この世界を目指して生きてきたわけじゃないよな」と思ってしまったんです。

それ以上は自分の気持ちに嘘をつき続けられませんでした。とにかく、「一回自分をリセットした方がいいな」と思い、3年ほどで仕事をやめることにしました。

その後、半年ほどアメリカを放浪しているうちに、「やりたいことをやろう」と覚悟が決まりました。特に、ニューオリンズで出会ったストリートミュージシャンに勇気づけられましたね。年配の人たちなんですけど、表現力がものすごく高いし、音楽に対する純粋な気持ちが溢れていて。この人たちができるなら、若い自分もできるだろうと思ったんです。

日本に帰って、ついに親に宣言しました。ミュージシャンになります、と。

それから、仲間とバンドを組み、音楽漬けの生活が始まりました。2年後の30歳になるまでに花が開かなかったら諦めようと誓って、4畳半のアパートに4人で住み、年間100本近いライブをしました。朝から晩までデモテープを作り、オーディションを受ける毎日。それだけやっても、デビューの兆しは全くありませんでした。

デモテープをいくら送っても音沙汰なしでしたが、ある時、ラジオ番組から返信の手紙が届きました。ついに認めてもらえたのか。そう思って意気揚々と封を開けると、中の手紙には「あなたの作った楽曲は、当番組でオンエアーするに値しません」と書かれていたんです。言葉には表せない挫折でした。

それでも、約束の30歳になっても音楽を続けました。可能性を諦められなかったんです。自分たちで決めたことなのに、カッコ悪いですよね。メンバーのひとりは去りましたし、周りの人からはバッシングを受けました。でも、自分の気持ちに嘘はつけない。あと半年だけ。そう決めて、音楽を続けました。

すると、その半年後、事務所から声がかかったんです。手伝っていた別のバンドに事務所から声がかかった時に、すかさず「俺、こういうバンドもやってるんですよ」とデモテープを渡したら、「こっちの方がいいじゃん」と言われて。いつチャンスが訪れるか分からないと、常にデモテープを持ち歩いていた甲斐がありましたね。

念願のメジャーデビュー。そりゃ嬉しかったですよ。ただ、それまで努力をしてきたとは思いません。自分と約束したことを諦めないでやっていただけで、それって努力でも何でもないんですよ。

心をなくした震災で見た光景


ファンや周りの人に支えられながら音楽活動を続けていたのですが、時が経つに連れて、自分の音楽に自信を持てなくなっていました。「こうありたい」という理想を貫く環境を、作れなかったんです。メジャーで活動を続けることが目的になり、自分を曲げて周りの言うことを聞くようになっていた。結局、本来スタートでしかないはずなのメジャーデビューが、ゴールになっていたんです。

デビューから6年ほどしたタイミングで、音楽をやめました。自分に正直でないまま続けるのは、ファンの人たちに申し訳ないと思ったんです。

その後、広告業界で働く知人を手伝い始め、コピーライターになりました。この頃は、フリーランスとして働きながら、大病を患ってしまった叔母の看病をしていました。時間的に融通の効きやすかった僕が、病院への送り迎えをしたり、福島の祖父母の実家に連れて行ったりしていたんです。

一緒に暮らしていたこともある叔母が、どんどん弱っていく。見た目にも表れるし、介護も必要になる。何十回手術をしても回復しない。どうにかできないものかと、色々とこみ上げてくるものがありました。

数年間、本当にいろんなことをして、叔母も家族も医師の先生も頑張ったんですけど、いよいよ余命は短いという状況になって。2011年の春先、僕は最後に叔母に会うために、福島の浪江町まで行く予定でした。いつもは朝には東京を出ていたのですが、その日は原稿が書き終わらなくて、昼前になっても出発できませんでした。しかも、妹から、午後に休みを取れるから一緒に行こうと誘われたので、午後から行くことにしました。

そして、ちょうど車に乗ろうとした時に、ガクッと揺れました。東日本大震災が起きたんです。親戚とは連絡が取れないし、福島は津波と原発で大変な状況。もし午前中に到着していたら、僕はおそらく死んでいました。

3月の最後の週、家族の大切なものだけでも取りに行こうと、震災後初めて浪江町の祖母の家に行きました。放射能が蔓延している中、耐熱服を着て、防毒マスクとゴーグルつけて。

慣れ親しんだ故郷の跡形もない状況を目の前にして、生まれて初めて心をなくしました。悲しいとかそういうレベルじゃないんですよ。当時、CMでは「みんなで力を合わせて頑張ろう」と、毎日、毎日流れていて、自分だってそう思って故郷に向かいました。でも、そこで目にした光景は「どうかんばるの、これ」という状況。

本当に、言葉では言い表せない。地獄絵図とはまさにこういうことだと思った。人だけではない。家畜たちも繋がれたまま餓死している。牛たちなんかは牛舎の柱を食べていたり、豚は共食いをしていたり、ねこは餓死した牛にトラのように群がっている。

そんな大変な状況が、世の中の人には全く知られていませんでした。これはもっと多くの人に伝えなきゃダメだ。そう考え、誰にも知られていないような東北の真実を、自分のブログとかラジオで発信するようになりました。何も力にはなれないんですが、とにかく東北のために何かできないかと思っていました。

そんな悲しい顔をしないでほしい


震災後、福島だけでなく、漁師をしていたいとこが住む岩手の陸前高田市広田町にも足を運んでいました。漁師は、家だけでなく船も流されてしまい、生きていくすべを失っていました。魚市場も開いていないので、たとえ漁に出れたとしても売り先がない。それでも、漁師として生きていく覚悟があって、少しずつ海に出て、魚を地元の人に届け始めたんです。

そんな時に、テレビ番組の企画で、いくつかの企業が陸前高田に来ました。販路を失った漁師と、直接契約ができないかということで。飲食大手のAPカンパニーとは本格的に取引をすることになり、後日、打ち合わせの場が持たれました。

当時、僕は部外者でしたが、心配だったので、オブザーバーとして会議に参加させてもらいました。漁師は、海で魚を獲って市場に持っていく、という仕事以外やったことがない人たちです。ある日突然、東京の大企業が来て「じゃあ、各店に魚を送ってください」と言っても、彼らはどうしたらいいか分からないんです。請求書とか、伝票とか、そんなの作ったことないんですから。だから、僕は心配だったんです。

すると、やっぱり話し合いの中で「自分たちではできない」という現実を前に、漁師の人たちはすごい悲しい顔をするんですよ。震災でものすごい大変なことがあったのに、この人たちは、またこんな悲しい顔をするのか。僕は、見ていることができませんでした。なんとかしないとまずい。それで、「僕がやります」と手を挙げちゃったんです。

魚の知識なんかないし、僕だってどうしていいか分かりませんよ。でも、漁師と会社の間に入って、繋げることはできるだろうと思ったんです。APカンパニーの社長は、どこの誰かもわからない俺に「じゃあ君、よろしく頼むよ」みたいな感じで言ってくれて、即決。すぐに広田町に移り住みました。

ただ、知識ゼロで通用するほど、漁業の世界は甘くありません。とにかく何かを売るために、何かをしなければなりません。まずは、現場を知り、漁師との信頼関係を深めるために、一緒に船に乗って漁に行くことにしました。

一番きつい真冬の漁。水しぶきが起きたと思ったら即座に凍るほどの寒さ。船酔いも想像以上で、全く役に立てず、「もう来るな」と言われて船を降ろされました。それで諦めるわけにはいかないので、次の日からは夜明け前から待ち伏せして船に乗せてもらいました。

起死回生の「どんこ」と「広田つぶ」


彼らの生活を間近で見ていると、漁は博打だと思いました。海に出ても、魚が取れるかどうかは分からないんですから。でも、漁に出れば仕掛けておいたカゴに必ず引っかかっているものもありました。「どんこ」と「広田つぶ」でした。どちらも、ほとんどが捨てられていたのですが、これが売れるようになれば、漁師のセーフティーネットになる。このふたつを死ぬ気で売ろうと決めました。

どんこは、地元の人が大好きな魚です。「どんこ汁」という料理があって、それまでは冬に地元の人が食べるだけでしたが、これだけ愛されているなら、知名度さえ追いつけば東京でも必ず売れると思いました。広田つぶはツブ貝の一種で、殻が硬いので手間がかかるし、可食部分は10%くらいしかないので、飲食店が嫌がるんですよね。そこで、手間を省くためにと、殻を割ってから出荷することにしたんです。最初は「そんなの意味がない」と言って割るのを嫌がっていた漁師たちも、次第に手伝ってくれるようになりました。

でも、いくら経っても全然売れないんです。2日に1キロとか、3日に2キロとかしか売れなくて。あまりにも売れない時期が続くので、漁師からは信用されなくなるんです。どんこやつぶ貝をもらいに行く度に、罵倒されるようになって。毎日毎日それが続くもんだから、さすがの自分も限界が来てしまって。

ある日、「東京に帰りたい」って言っちゃったんです。

でも、つまらない男のプライドがあるんでしょうね。翌朝、目が覚めた時に、自分を許せないんです。何てことを口にしたんだと。俺は、腹の底から自分自身と約束したのに、逃げようとしやがった。このバカ。他人に嘘はつけても、自分自身には嘘つけないぞ、と。

それでも、苦しいことには変わらないので、一度、東京に行くことにしました。地元の人が愛して止まない魚が、必ず売れると思いながら出している魚が、どうして売れないんだろう。店舗で何が起こっているのか、本当に売ろうとしてくれているのか、この目で見てみたかったんです。

そしたら、現場では若い子たちが、すごく一生懸命売っていた。お客さんに「そんな岩手の魚を食べて大丈夫なのかよ」と言われながらも、一生懸命売っていたんです。自分が恥ずかしくなりましたね。俺は自分の仲間に対して何を疑っていたんだって。その姿を見た時からは、強かったですよ。

それでも状況は変わりませんでした。広田フェアをやっても、売れるのはフェアの期間中だけ。情けなかったですね。何か方法がないのか、月に一度は東京に行き、お客さんが頼む料理を食い入るように見続けました。

そんなある時、会議で「陸前高田の魚は売れると思う。神経締めを覚えれば絶対に一番になれる」と言われました。神経締めとは、魚を獲った直後に専用のワイヤーを使い魚の神経をかき出す処理のこと。鮮度を保ったまま魚を届けられる手法です。その存在は、もちろん以前から知っていましたが、試したことはありませんでした。そこで、魚市場の同業者の人に何度も頭を下げて、神経締めを教えてもらいました。

ただ、確かに魚の鮮度は上がっていましたが、売れるようになるかは確証がありませんでした。というのも、都会では、本当に美味しさを分かっている買う人だけでなく、「美味しいと言われているから美味しいだろう」と、ブランドイメージで買う人も多いんじゃないかと思っていたんです。

そこで、神経締めをしたことを言わずに、いつも通り出荷してみることにしたんです。鮮度を上げることに意味があるのか、試したかったんです。すると、すぐに「魚に何かした?」って、センターの人や料理人から連絡が来たんです。これには驚きました。神経締めは本当に意味があることで、自分たちが生きる道はここしかないと思いました。それで、漁師全員分の道具を買い、神経締めをみんなにもやってもらうことにしたんです。

自分の声を無視できなくなる瞬間


その後、ちょうど漁師全員が神経締めを覚えたタイミングで、テレビ番組で特集されました。テレビの効果で、売上は爆発的に増え、今では広田つぶやどんこの売上で漁師一人分の給料を出せるほどになりました。捨てられていたものが、一人分の生活費に変わったんです。気仙地区に住み始めて2年。やっと成果を出せた瞬間でした。

テレビの効果で増えた売上は一時的なものではなく、2年近く経った今も、放送当時と同じ水準です。元々与えられていた、岩手県での事業を3年で黒字化させるというミッションはどうにか達成し、2016年4月から、漁師や漁港との直接取引を広げるため、陸前高田以外の場所でも活動しています。

陸前高田で3年間過ごし、漁業、水産業のリアルなものに触れる中で、本当に新しい価値を生み出そうとするなら、ひとつの地域で完結できるとは考えられなくなりました。当時、漁師と店舗が直結しなければ未来はないと思って漁業の世界に入ってきましたけど、漁業組合や魚市場が存在する価値も分かりました。もちろん課題もありますが、それを否定するのではなく、紡ぎ合わせることこそが次の未来を生み出せる。そんな気がしてならないんです。

APカンパニーは小売店舗を持ち、自分たちで売価をつけられるので、魚の需給バランスの影響を受けずに、ある程度は自分たちで漁師から仕入れる値段を決められます。その日の市場価格と比べて高いと思う時だってありますが、お互いがきちんと生業を立てていけるラインで取引できるんです。小売を持つ我々だからこそ、漁師、市場、加加工場をうまくつなぎ合わせ、生産・流通・小売を統合した、独自の六次産業の仕組みができると考えています。

つまるところ、漁師とか、汗を流して働いている人たちが、貧乏くじをひかないようにしたいんです。漁師の人たちと間近で過ごしたことで、彼らが背負っているものの重さは、痛いほどよく分かります。僕も彼らの人生を背負っているから、簡単に逃げるわけにはいかないんです。

ただ、ストーリーだけじゃ魚は売れない。良い商品を作ることが何よりも大事。本当にいいものなら、頭を下げなくても買ってもらえるので、世の中に求められるいいものを追求していきたいです。そんな壮大な想いを、本気で共有できる仲間がいるこの会社だからこそ、実現できることがあると思います。

僕は自分自身を粗末にしてまで、人を幸せにしたいとは思っていません。ただ、自分のことを大切にしつつ、誰かの役に立つためには、踏ん張らなければならない瞬間があるだけなんです。つまるところ、自分に嘘がつけないだけだと思うんです。誰に嘘をつこうが、自分の心は本当の答えを知っていて、それを無視できなくなる瞬間が来ただけ。誰にでも来るのと同じように、僕にもその瞬間が来ただけだと思います。

僕の人生は、偶然が重ならなかったら3月11日に終わっていたかもしれません。本来、手にすることができなかったかもしれない人生だからこそ、今の自分に何ができるか、何をするべきか、常に問いかけ、心の声に正直に生きていきます。

2016.09.16

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