故郷の誇り、イチゴで未来を創る。 IT×農業が生み出す、地方の可能性。

東日本大震災で被災した宮城県山元町で、農業にITを導入し一粒1000円にもなる「ミガキイチゴ」を生み出した岩佐さん。子どものころからパソコンが好きで、システム管理などの会社をつくり成長拡大させた後、故郷に戻ってイチゴビジネスに挑みました。新しい農業を通して、実現したい未来とは。お話を伺いました。

岩佐大輝

いわさ ひろき|株式会社GRA代表取締役CEO
株式会社GRA代表取締役CEO。日本、インドで6つの法人のトップを務める。2018年3月、著書『 絶対にギブアップしたくない人のための 成功する農業』(朝日新聞出版) を出版。 そのほか『99%の絶望の中に「1%のチャンス」は実る』(ダイヤモンド社)、『甘酸っぱい経営』(ブックウォーカー)がある。ブログは「岩佐大輝.com」。

自分で稼いでやりたいことをする


宮城県山元町で生まれました。母方の祖父がイチゴ農家で、子どものころから畑に慣れ親しんで育ちました。祖父がビニールハウスの中に僕専用のイチゴの列を作ってくれたので、嬉しくて、遊びに行ってはイチゴをたくさん食べていましたね。

両親がお小遣いをくれなかったので、小学4年から中学3年まで、新聞配達のバイトをしていました。1日13軒の配達と、月々の集金の担当でした。ものすごく怖い番犬がいたり、配達距離が遠かったりと大変なこともありましたが、子どもにしては多い収入が魅力的でした。新聞配達のほかにも、友達相手にオオクワガタを販売したり、貸金業の真似事をしたりと、自分でお金を稼いで増やすのが得意でしたね。

小学5年の時、友達からパソコンの話を聞き、強い興味を持ちました。命令したら、人間の代わりにいろいろなことをやってくれると言うんです。万能感にあこがれて、新聞配達で貯めたお金で購入しました。そこからはパソコン少年になりましたね。指示を出すとその通り動くのが楽しくて、独学で技術を身に着けていきました。

高校は仙台の男子校に進学しました。しばらくは真面目に勉強して成績がよかったのですが、3年からパチンコや女の子と遊ぶことを覚え、ろくに学校へ行かなくなりました。なんとか卒業しましたが、大学へは行けず仙台の予備校に通うことになりました。

そんな中、別れた彼女とトラブルになり、ストーカー行為をされるようになりました。付きまとわれたり、無言の電話が毎晩かかってきたり、彼女と関係のある男から恫喝されたり、精神的にかなり衰弱しました。こんなことをする人がいるというのがショックでした。寝るとき以外に心休まる時間がなく、女性不信に陥り、追いかけられて殺されるのではないかという強迫観念に襲われました。ご飯が食べられず、過呼吸になるなど、パニック障害を発症していました。

そんな状況だったので、予備校のこと、勉強のこと、将来のことは何も考えられませんでした。結局、とにかく彼女から離れたい一心で、仙台を出ることにしました。親にだけ事情と連絡先を告げて、それ以外の人間関係はすべて断ち切って東京に引っ越しました。19歳でした。

東京で起業する


東京に来ても彼女の面影がちらつき、不安に襲われ過呼吸になるなどパニック障害は続きました。なんの目標も持てず、パチンコをしたり、趣味が高じてできるようになったソフトウェアの開発を引き受けたりしてお金を稼いでいました。仙台駅に降り立つだけでも独特の匂いでパニックになるので、宮城にはほとんど帰れませんでした。

21歳の時、親に「大学を出ておいた方がいい」と言われて都内の私大に通うことにしました。ようやく少し周囲が見えるようになると、高校のとき一緒にパチンコをしていた友達が、司法試験に合格したり、官僚になったりするなど、輝かしいキャリアを歩もうとしているのに気が付きました。自分が社会から外れて生きているうちに、みんなちゃんと社会人になっていく。このままではいけないと思いました。

なんとか皆に追いつきたいと焦りましたね。普通にサラリーマンをやっていたのでは、人生を取り戻せない。一発逆転するしかないと思い、起業することを決めました。そのころ、コンピューター関係の案件を個人で請け負い、半日で20万円くらい稼いでいたので、これならいけると思ったんです。仕事の方が面白く、結局大学には行かなくなりました。定食屋などでバイトして資金を貯め、24歳のとき、システムの受託管理とセキュリティをメインとした会社を立ち上げました。

それからはとにかく仕事に打ち込みました。パソコンに向かったまま寝落ちし、起きたらまた仕事をするというような毎日でした。それでも、パソコンが好きで没頭できるのが楽しかったんです。その甲斐あって、1年目に黒字を出すことができました。会社は軌道に乗り、数十人を雇うまでに成長しました。リーマンショックのときは取引先が打撃を受け、うちも億単位の損害がありましたが、なんとか乗り切れました。経営大学院に通うなどスキルアップもしながら、次はどんな事業をしようかと仕事を楽しんでいました。

震災で変わり果てた故郷


33歳のとき、東日本大震災が発生しました。僕の地元、宮城県の沿岸部に位置する山元町は、大きな津波の被害に遭いました。僕も家族と連絡が取れず、翌日には援助物資を搭載して山元町へ向かいました。久しぶりに帰った故郷で目にしたのは、自分の知っているのとはあまりにも変わり果てた光景でした。津波によって町はほとんど流され、あちこちに特殊車両が止まっていました。戦争ってこういうものなんじゃないかとすら感じるくらい、至るところが破壊され尽くしていました。

それを目にしたとき、まるで自分の身体が破壊されたような衝撃を受けました。アイデンティティが奪われてしまったような、大きな喪失感があったんです。自分の身体は生まれ育った土地でできていたんだ、と初めて実感しました。

幸いなことに、家族は避難して無事でした。自宅の20メートルくらい前で津波が止まったそうです。避難所に行くと、昔なじみの近所の人や友達が、「ひろきちゃん、よく帰って来てくれたね」と喜び抱きついてきてくれました。行方が分からない人が多い中、顔見知りと再会できたことを喜んでくれたんです。ずっと帰りづらかった故郷ですが、ここが自分の拠り所だったと改めて気づかされました。

それからは、ボランティアとして被災地を駆けずり回りました。最初はコンピューターやインターネットの知識を生かし、「水がない」などの情報発信や、安否確認の情報収集をしました。被災した家の泥かきなどにも尽力しました。

そんな中、ボランティアセンターで一人の男性に出会いました。彼は津波で5歳の娘を失いながら、役場の職員だからと、笑顔でボランティアの受け入れや指示出しを行っていました。彼の姿を見て、自分が同じ立場だったらどんなにつらいだろうと思いました。それなのに、笑顔で避難する人たちのために働いている。この人と一緒に何かをしたいという想いが沸き上がってきました。

地元の誇り「イチゴ」をつくる


ある日、いつも通り泥かきのボランティアをしていると、地元の人から「君は経営者だから、泥かきをするより雇用をつくってくれ」と言われました。たしかに津波は、生活の場も仕事の場もめちゃくちゃにしてしまいました。見かけだけ町が元通りになっても、雇用がなければ地元で生きていけません。それ以来、起業の経験を活かして、ビジネスで地元に貢献することを考え始めました。

町民に「町の誇りは」と聞くと、7割が「イチゴ」と答えました。調べてみると、震災前の出荷額はおよそ10億円で、行政予算が数十億の町において、かなり価値の高い産業だとわかりました。可能性を感じて、イチゴを軸にビジネスを展開しようと決めました。ボランティアセンターで出会った男性に声を掛け、一緒に事業を始めることにしました。

山元町は、もともとあったイチゴ農家129軒のうち、124軒が津波で流されるというひどい状態にありました。まずは残った5軒の農家をブランディングし、売り上げをサポートしようとしました。しかし、それぞれの農家に話を聞くと、既存の生産方法や販路を変更するのは難しいとわかったんです。それならばと、自分たちでリスクをとって農場をつくり、ロールモデルになることにしました。地元で本腰を入れてやろうと決め、東京の会社は別の者に経営を任せました。

はじめに、数百万円かけて手作りのビニールハウスを立てました。やるぞという姿を見せることが大事だと思ったんです。次に地元の農家の方を探し、会いに行きました。熟練の農家の方に話を聞くと、「イチゴづくりは感覚で覚えるもの」と仰います。しかし、地域に農業を残すためには、何十年もかけて感覚を覚えていたのでは間に合いません。熟練農家のクラフトマンシップを大切にしながら、勘や経験の領域にITを導入して、イチゴづくりをしようと考えました。

僕はそれまで農業をしたことがありませんでした。しかしまずやってみなければと、株式会社GRAを設立し、思い切って数億円を借りました。温度や湿度、栄養分などの情報を絶えず集められる、センサーを完備したハウスをつくり、熟練農家に話を聞きながら、イチゴにとって最適な環境を再現できるよう試行錯誤を重ねました。これまで、熟練農家がそれぞれ持っていた暗黙知を、ITによって明示化し、再現可能なものにしようとしたんです。

これまで形式化されていなかった知識や感覚をデータに落としていくのは、生半可な仕事ではありません。熟練農家の先輩とよく話し合い、時には衝突もしながら、試行錯誤を繰り返しました。イチゴの収穫は年1回なので、成果はすぐにわかりません。それでも地道にデータをとりながら、何度もPDCAサイクルを回してよりよいイチゴづくりに取り組みました。

その結果、約2年かけて、同一面積でとれるイチゴの量が2倍になりました。また、「ミガキイチゴ」というブランドをつくって販売することで、価格も倍になったんです。ミガキイチゴは、山元町でつくるイチゴの中でも、糖度や糖と酸味のバランス、香り、大きさ、ツヤなどさまざまな項目において、GRAの基準を満たしたものだけを厳選したイチゴです。完熟するのを待って直接農場から送るので、一番おいしい状態で消費者のもとに届くんです。特に状態がいいものは、1粒1000円で買っていただくまでになりました。

地方を、農業を強くする


現在は、GRAでミガキイチゴをつくるほか、ミガキイチゴの普及や活用を通した地域活性化に取り組んでいます。普及に関しては、ミガキイチゴを使ったワインや日本酒、化粧品などの六次化製品の製造・販売に取り組むほか、東京の三軒茶屋にいちご専門のカフェも出店し、広くミガキイチゴを知って、味わってもらおうと活動しています。タイやマレーシアなど、海外への輸出も開始しました。

また、ミガキイチゴを栽培しているハウスを解放して、イチゴワールドという施設にしました。冬から春にかけていちご狩りを楽しめるほか、農場設備を見学できます。人口約1万人の山元町に、年間5万人の観光客が来てくれました。NPO法人GRAも立ち上げ、株式会社GRAと連携して街づくり、人づくりを支援しています。

そのほか、新規営農者の育成にも力を入れています。寮に入って学んだあと、山元町でイチゴ農家としてすぐ起業できる体制を整えています。GRAで培ってきた栽培技術を学べるほか、独立時のハウスの建設まで支援するので、最短1年で起業できます。これまでの2シーズンで、10人が独立しました。さらに、ほかの企業のCSR活動と連携し、インドで僕たちのノウハウを使ったイチゴの栽培にも挑戦しています。

さまざまな活動を通して、地方と都会をつなぎ、地域社会に面白いことを増やしていきたいと思っています。地方にはまだ開拓余地がたくさんあり、やり方次第でいくらでも面白くなります。日本の多様性を豊かにしているのは地方です。国の豊かさを担保する財産として守っていきたいです。

また、農業というビジネスも強くしていきたいです。農業にITを導入することで、作物の生産性や品質を向上させ、安定して農作物をつくれるようになりました。未経験者でもきちんと学べば1年でノウハウを獲得できるので、若者も農業に参入しやすくなっています。今後はさらに所得水準を上げ、新規就農者を増やしたいです。また、IT×農業のビジネスモデルは横展開できるので、インドだけでなく日本のほかの地方にも広めていきたいと考えています。

競争の激しい時代ですが、何か1つグローバルレベルで勝負できるものがあれば、その地域は生き残れます。ミガキイチゴのようなコンテンツが1つあることで、地方も農業も強くできる。農業を強い生業とし、そこから新たなコンテンツを生み出して、地域社会を豊かにしていきたいです。

2018.04.26

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