人知れず人を支える人にフォーカスする。ドキュメンタリーの現場にある、真実のドラマ。
テレビドキュメンタリー番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』のディレクターを務める築山さん。ずっと漫画家を目指し続け、テレビ局に入社してからはドラマ制作に携わる予定でしたが、どうしてドキュメンタリー番組の制作をするようになったのでしょうか。お話を伺いました。
築山 卓観
つきやま たくみ|『プロフェッショナル 仕事の流儀』ディレクター
NHKにて『プロフェッショナル 仕事の流儀』のディレクターを務める。
無から有を生み、心を揺さぶりたい
佐賀県神埼市に生まれました。吉野ケ里遺跡が近くにあり、黒曜石や土器が採れる自然豊かな環境でした。家にテレビがなく、楽しみと言えば映画を見に行くことか漫画を読むことでしたね。絵を描くことが好きで、漫画を描くようにもなり、将来は漫画家になりたいと考えていました。
高校では部活に入らず、学校以外の時間は漫画を描くか勉強するかという毎日でしたね。描いていたのは、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のようなファンタジーアクションのジャンルです。少年漫画の王道でしたね。描いた漫画を出版社に持ち込み、営業もしていました。無から有を生み、それを世の中に伝えて、面白いとか感動するとか、人の心を揺さぶることがしたいと思っていました。自分の漫画を人に評価されたいと思っていました。
高校卒業後は、美大に行きたいと思ったこともありました。ただ、美大の最高峰、東京藝大に受かるには3浪・4浪もあたりまえと聞き、考えが揺らぎました。受験を突破できるほどの画力があるのか、不安になったんです。
勉強は苦手ではなかったので、難関大にいくことと天秤にかけた部分もありましたね。最終的には、総合大学を受験することにして、東京の大学に進学しました。ただ、漫画家になるという夢は諦めていませんでした。大学に入ったら、たくさん漫画を描いて、賞に応募したり、出版社に持ち込んだり、漫画家になる努力をしようと決めていました。
ネガティブな気持ちでの就活
大学では、それまで以上に力を入れて漫画を描きました。ネタ探しのために面白いことはないかとアンテナを常に張って生活していましたし、暇さえあれば、ストーリーを考え、キャラクターをデザインしていました。賞への応募や出版社への持ち込みも積極的にやりましたね。
しかし、私の漫画が誰かの目に留まることはありませんでした。何本描いてもキッカケが掴めず、同級生が就職活動を始める中、「そこまでして続けていいんだっけ?」と悩むようになりました。段々熱が薄れていくんです。将来の不安を払拭するだけの実績をつくれず、段々と漫画に力を注げなくなってしまいました。
結局、「なんとなく就活してみるか」と、非常にネガティブな気持ちで就職活動を始めました。漫画を描いてきた経験を活かして働くために、テレビ局に入ってドラマを撮ろうと考えました。ドラマの脚本を作ったり、絵コンテを描いたりすることならできるんじゃないかと思ったんです。
正直な話、漫画家に戻るために、テレビドラマの世界で構成や脚本を学ぼうと考えていました。ノウハウを学んで漫画家として独立しようと思いましたね。
いくつかのテレビ局から内定をもらい、最終的にはNHKを選びました。大げさに言うと、自分が入ってNHKのドラマを盛り上げたいと思っていました。
ただ、テレビ番組への思いはあまり強くありませんでした。そもそも高校生まで家にテレビがなかったので、視聴者として番組を見たことがほとんどありませんでした。NHKの印象も、幼稚園の頃に祖母の家で見た大河ドラマや朝ドラは面白かったな、というくらいでした。
漫画家として芽が出なかったことを引きずりながら、前向きになりきれないまま入社しました。
ドラマの世界での挫折
NHKでは、入社後数年間地方局で勤務した後に東京に戻ります。私は奈良局に希望を出しました。ドラマを撮るためには、普通はADを10年、助監督を10年いうことも珍しくない世界です。20年も待てないと思い、若い内からドラマ制作に関われる奈良局を選びました。
希望通り奈良局に配属されてからは、高校野球や情報番組中継から歴史番組の制作まで何でもやりました。ドラマ制作にも携わることができました。ただ、すぐに「ドラマは撮るものではなく見るものだな」と感じましたね。ものすごく大変でした。
地方局でのドラマ作りは何もかも自分でやります。脚本作りから、現場のエキストラ集め、演技指導まで全部自分でやるんです。辛かったですね。時間が足りないんですよ。脚本を考えていると、主人公の心情が矛盾しているように思えて、作り替えなければいけない。それと同時に出演者を誰にするか考えて、服はどうする、美術はどうするというのも全部自分の責任で考えなければいけないんです。自分のスペックを溢れてしまっていました。ストーリーを作るのは楽しかったですが、これをずっと続けるのは大変だなと感じましたね。
1本テレビドラマを撮った後、次はラジオドラマを制作しました。1本目の時は完成させることで精一杯でしたが、多少慣れもあり、以前より満足いく作品ができました。
しかし、世に出してみると、反響がすごく悪かったんです。「ああ、俺才能ないんじゃないか」とかなり落ち込みました。1本目も反響はなかったんですが、出しただけで満足がありました。2本目以降は、結果を出したいという欲がありました。出来には納得感があり、自信もありました。
ただ、局内でも局外でも評価されなかったんです。無反応ではないんです。「ダメだ」と言われるんです。「お前は間違っている」と言われました。「お前はドラマをはき違えている」「矛盾だらけだ」と、脚本の根本に厳しい指摘をされました。
この道で生きていくのは無理だなと思いましたね。このままいっても花は咲かないだろう、と。監督になれるのは一握り。ドラマの世界で戦っていくイメージが持てませんでした。
ドラマ以上にドラマチックな現場
東京に戻ってドラマ部に入ってからではドラマ以外の番組を作ることが難しいので、奈良にいる間は様々なジャンルの番組に携わりました。酷評されたラジオドラマの制作と同時期に、仕事に情熱を傾けるプロフェッショナルに焦点を当てた、『プロフェッショナル 仕事の流儀』というドキュメンタリー番組の企画を提案し、ある回だけ制作することになりました。
それまでにもドキュメンタリー番組は何本か制作していましたが、そこまで興味はありませんでした。ドラマのようにゼロから世界観を作るのではなく、カメラで現場を追っているだけで、何も生み出していないと思っていたんです。
ところが、『プロフェッショナル 仕事の流儀』の制作に携わる中で、その考え方は変わりました。ドキュメンタリーの面白さに気づき、「ゼロから何かを生み出すだけが尊いわけではないのかもしれない」と感じたんです。
ドキュメンタリーの撮影では、「こういうことが起こるだろう」と予想して現場に行くと、思いもよらなかったことが突然起こります。
アンコールワットの修復をする石の職人さんに密着した時、部下の石工さんに奥さんを亡くして傷心中の弟子がいました。子どもがたくさんいるのに家もなく、石工として生計をたてていかなければいけない状況です。主人公は、その事情を知った上で、決してその人を褒めないんです。弟子を育てるために褒めないで、その弟子が作った石をあえて捨てたりする。
でも、最後に、主人公が日本に帰る時に、自分の着ているジャンパーを脱いで、その弟子に投げるんです。「お前が頑張っていけよ」と。
ものすごく感動的なシーンでした。まさにドラマだなと思いましたね。 脚本を書いてドラマを作らなくても、真実の現場に、ドラマ以上のドラマチックなものがあるんだなと気づきましたね。ドキュメンタリーの現場には熱がありました。
結局、奈良で5年働いて東京に戻る時には、ドラマ部ではなく、『プロフェッショナル 仕事の流儀』を制作する班に希望を出すことにしました。ドキュメンタリーの熱に感動していましたから。
選考の結果、志望通りの配属になりました。最高に嬉しかったですね。これからの人生は、人の生き様を伝えることに全力を注ごうと決めました。
人のためにどこまでできるか
現在は、『プロフェッショナル 仕事の流儀』のディレクターとして、企画から、ロケ、編集、音楽・ナレーション入れまで一気通貫で番組作りを行っています。
番組作りは、新聞やネット、人の紹介などを通じて直接会いにいき、「仕事人」を選定するところから始まります。企画が採用されてからは、カメラ・音声含め3人体制で40日間密着し、現場でありのままの姿を撮ります。
大切にしていることは嘘をつかないこと。番組によっては、「演出」と「嘘」の間のようなきわどい内容の番組もありますが、それを絶対にしないとこだわっています。ただカメラを回し続けるのではなく、その人にとって何が大切なのかを観察し、その人の価値観を掘り下げていくイメージで、撮影しています。
取材を終えてからは編集スタッフと一緒に映像編集の作業を行い、音楽とナレーションを加えて完成です。3ヶ月半毎に1本の番組を作るようなペースですね。
振り返ってみると、清掃員の方や引っ越し屋の方など、自分が作る番組は社会的に陽の当たりにくい職業や立場の主人公が多いです。民放にはできないことという意味で、NHKだからこそこの分野に取り組む部分もありますね。著名人だけを持ち上げるのではなく、市井の人でもすごい人はいるんだというのを伝えたいんです。その方が、世の中的にも反響が大きかったりするんですよね。
人知れず人を支えるようなプロフェッショナルを追いかける中で、背筋が伸びるような学びがありました。みんな、他の人のために仕事をしているんです。「他人のためにここまでやるのか」というくらい。そういった姿を見ていて、「人のためにどこまでできるか」というのが、私の仕事の流儀にもなりました。
普段は気づかないものですが、人の生活は他の誰かがしてくれたことで成り立っています。みんな誰かに助けられて生きているんです。そうやって、人知れず人を支えている人、陽の当たらない人たちが、「すごい」とか「ありがたい」と思われるように、伝えていきたいですね。
人知れず人を支えている人にフォーカスをする。このテーマで番組を作ることをこれからも続けていきたいです。
2016.03.14