父を超え、日本を代表する経営者に。負けたくないから成長し続ける。

印刷企業の経営企画部にて、次世代の事業の柱を構築する坂田さん。常に成長する環境に身を置き、「日本を代表する経営者になる」と志を掲げていますが、数年前までは、「志という言葉が大嫌いだった」とか。そんな坂田さんに訪れた転機とは?お話を伺いました。

坂田 卓也

さかた たくや|印刷企業の経営企画
凸版印刷株式会社 経営企画本部経営戦略部 主任
次世代の事業の柱を構築するべく、事業支援および事業創造に従事。青山アクセラレータープログラムメンターを従事。

褒められたいから勝ちたい


埼玉県に生まれ、幼い頃に福島県、高知県と続けて引っ越しました。性格は活発、というよりも、超がつくほどの問題児でしたね。身体が大きかったので、ふざけて友達に怪我をさせてしまったこともありましたし、家でお経を上げているお坊さんの頭を木魚のように叩き始めたことなどもありました。

そんな「聞かん坊」の僕に対して、褒めると調子に乗ってしまうと思ったのか、母はあまり褒めるようなことはしませんでした。母に「褒められたい」という一心で、何でも一番になろうとする負けず嫌いな性格が養われました。

持て余しているエネルギーを何かに向けてほしいと思った母の勧めで、小学1年生の時に剣道を始めました。道場に入って剣道を初めて見た時は、怖かったですね。静寂な雰囲気や、大人が激しくぶつかり合う姿に、「なんだこれは?」と思ったんです。それでも、負けず嫌いだったので、逃げずに立ち向かっていきました。

生徒の人数が少ない道場だったので、年上の先輩に混じって稽古していました。年上相手なので、練習でも試合でも負けてばかり。「剣道以外だったらこんなに勝てないことはないのに」と、悔しくて、2つ年上の先輩に勝つことを目標に、がむしゃらに稽古しましたね。

5年生で埼玉県に引っ越してからは、地元の名門道場に通いました。レベルの高い環境でしたが、それまで上級生との練習で鍛えられていたので、同級生の中では負けなしでした。

ただ、強い人に囲まれている環境でなくなった影響で心が緩んでしまったのか、成長は鈍ってしまいしました。県大会優勝を目標にしていたのですが届きませんでした。引っ越す前に通っていた道場が高知県の大会で優勝したと聞き、一層悔しい気持ちになりましたね。

困難なことで日本一を目指したい


中学でも剣道に打ち込みました。高校では勉強で上を目指そうかと考えたこともありましたが、最終的には、剣道で日本一を目指せると感じた山梨県の高校に進みました。15歳で埼玉県の親元を離れて暮らすのは大きな決断でした。不安もありましたが、剣道で日本一を目指すと覚悟を決めていましたね。

高校、大学もずっと剣道に打ち込みました。しかし、目標の日本一には一度もなれませんでした。社会人になってからは、こだわっていた「一番になること」の対象は、剣道から仕事に移っていきました。

社会人でも実業団で剣道を続けましたが、私の中で、剣道は「面白いもの」に変わっていました。学生時代と変わらず、素晴らしい仲間や先輩たちと日本一を目指しつつも、大変な練習を苦しいとは感じず、純粋に楽しいと感じるようになっていたんです。

苦しいことを乗り越えた経験こそが糧になる。そう考えていたので、苦しくて障壁の多いと感じる仕事に力を注ぎたいと思っていました。剣道を真剣に続けながら、仕事にも打ち込むことが、成長に最も繋がるだろうと。

就職した印刷会社は、一流といわれる大学出身の人ばかりでした。明らかに自分より頭がいい人たちでしたが、その中でトップになろうと思っていましたね。仕事の「型」を学ぶため、上司に言われたことにはとにかく全力で取り組みました。

2年目になった年に、会社の中でスーパースターのような人が上司になりました。その人は、前向きな若手を引き上げようと、私に目をかけてくれました。私も、成長したいという一心で、その人の下でがむしゃらに働きましたね。

成長できる環境に身を投じたい


数年後、その上司が別の部署へ異動になり、一緒に進めていた案件は自分が判断する立場になりました。すると、仕込んでいた案件の花が開き、あるプロジェクトで社長賞を受賞できました。

この年齢で、しかも新規案件で受賞するのは前代未聞でした。前年に、同期も社長賞を受賞していましたが、それは既存案件だったので別物と考え、「一番になれた」と、大きな達成感がありましたね。結果が出ると、自分がどういう人間か社内で「タグ」がつき、仕事がやりやすくなりました。どんどん新しい企画を立ち上げ、さらに結果を出していきました。

私が会社の仕事にのめり込む一方で、東日本大震災の後から、周りの若い人たちが、「自分はこうやって社会に貢献したい」と自分を主語にして語るようになりました。一流企業を辞めて独立する人もいました。私には、その流れが全く理解できませんでした。「自分がどうなりたいか」なんて分からず、自分とは関係ない話だと思っていましたね。

しかし、彼らのような成長をする人がいる一方で、自分の成長が鈍っていることを感じていました。お客さまの課題が複雑化し、それまでの「根性論」だけでは通用しなくなってきているのも感じていました。

このままではまずい、環境を変えなければ。そんな焦りから、経営大学院に行くことを決めました。ビジネスマンとしての力をつけて、その上で転職するのか、会社で働き続けるのか、考えようと。

また、経営大学院に行くと決めると、自社の経営にも目が向き始めました。それまで、営業として、顧客の事業に関しては一生懸命考えていましたが、自社の印刷産業については、考えたことがありませんでした。会社に対して漠然と課題を感じるものの、言語化できていない。チャンスがあるなら経営に携わってみたい。そう考え、経営企画への異動希望を出すと、様々な方の配慮で、異動できることになりました。

大嫌いな「志」という言葉


大学院は、私に気合を入れ直させてくれました。圧倒的に自分をストレッチさせてくれる環境でしたね。授業初日は、周りとのレベル差があり過ぎて、会話にまったく入れないほど。会社の中で天狗になっていた自分に気づきました。

これまで出していた成果なんて、結局は、「社内でちょっと評価される程度」のこと。それだけの人間だったわけです。心のどこかで感じていた、「自分はイケてないんじゃないか」ということが、はっきりと現実になりました。自分の未熟さに気づいたからには、目の前の高い壁に、挑戦しないわけにいきませんでした。

大学院では、ビジネススキルを学ぶだけでなく、「志」を考える授業があり、自分と向き合うようにもなりました。私は、志を言葉にするのが大嫌いでした。「そんなもの、言葉にするべきではなく、背中で語るべきだ」と思っていたんです。

しかし、授業を受けるうちに、その考えは変わっていきました。

担当していた田久保先生は、「志の教育は日本一」とも言えるような人でしたが、聖人君子ではなく、一緒に飲みに行くと親身に話を聞いてくれる本当に素敵な先生であり、兄貴でした。先生が自分のレベルまで降りてきてくれたお陰で、その情熱を身近に感じることができたんです。

この人が「志が大事」だと言うならきっと大事なんだろう。そんな気持ちから、自分の志とは何か考え始めました。考えた志を言葉に出し続けると、次第に魂が宿ってくるのを感じました。「自分とは何か」をひたすら追いかけて出てきた、紛れも無い自分の言葉でしたから。

また、田久保先生の、「子どもたちの暮らす未来を、もっと良くしたい」という言葉に、強い共感を覚えました。先生が小学校で授業をした時、冷や汗が止まらなくなり、言葉をためらったそうです。目の前の子どもたちの将来を考えると、大変なことばかりだったからと。

私も、社会への恩返しではないですけど、次世代のために何かしたいと感じていたんです。考えていくうちに、「日本を代表する経営者になる」と、自分の志が言語化されていきました。経営者として大きな事業を成功させ、GDPが何兆円上がったとか、そのおかげで出生率が上がったとか、何かしら社会を良くするインパクトを生み出したいと。

日本を代表する経営者として


経営者となって事業を成功させたいと思う一方で、「日本人」の価値観も大切にしていきたいとも考えています。幼い頃から剣道を続けていたおかげで、武士道精神ともいえる、「日本人としての精神性」が、自然と身についてきた感覚があります。

日本人の精神性の強みとは、「言葉を多用しなくても文脈すら読める心」と、「きちっと正確にやり遂げようとする心」という、一見矛盾する二面性を持っていることだと考えています。文脈を読む心は、抽象的で、創造性のある力。正確にやり遂げようとする心は、具体的で、実行する力。どちらもあること、両輪を持つことがイノベーションに繋がると考えています。

日本人からプロの経営者は生まれない、などと世の中で言われたりもしますが、そこで言われる「日本人らしさ」とは何か、まだよく分かっていません。単純に、イノベーションを起こす経験が足りていないだけの気もしています。

まずは、型を真似するところから始めて、その上で、日本人としての強みや特徴もしっかりと理解する。そして、日本の美徳や屈強な精神を持った経営者として成長していきたいですね。

私にとってのロールモデルは父親です。自分の考え方を曲げない人で、それが原因で会社では苦労もしていたはずですが、自分の信念を貫き通し、上場企業の役員となり、会社に社会に貢献していました。父は大学生の時に実の父を亡くしたり、私の姉にあたる娘を幼くして亡くしたり、自分も入院したりと、かなり苦労をした人。修羅場の経験値は普通の人とは違うんですよね。だからこそ、大変そうな姿を家族には一切見せずに、全く心配させません。そんな父には感謝していますし、父を超えたいとも思いますね。

日本を代表する経営者となり、日本の未来を明るくしていくために、成長の歩みを止めるわけにはいきません。自分の言葉に責任を持って、口先だけの人間にはならないように、行動で示していきます。

2016.01.08

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