生きる力をくれたガーナに恩返しをしたい。雇用を作り、残せるものをひとつでも。

ガーナで雇用を作ることをミッションとして、香辛料「パラダイスシード」の生産・加工・輸出や、ベーカリーの経営、聴覚障がい者支援NGOの運営を行う石本さん。「ガーナに何か恩返しをしたい」と話す背景には、ご自身がガーナに救われた経験がありました。そんな石本さんにお話を伺いました。

石本 満生

いしもと みつお|ガーナで雇用を生み出す
株式会社シェアトレードに務める。また、TOPベーカリーや聴覚障がい者支援NGO「タツノオトシゴプロジェクト」の経営を行う。

保守的な人間が海外にハマる


私は埼玉県新座市で生まれました。小さな頃から保守的な性格で、父が公務員だった影響もあり、将来は公務員になって定時で帰る生活を送ると思っていました。

しかし、高校卒業時に、母から「保守的過ぎる」と言われ、外の世界に目を向けさせるためにと、母と兄と3人でイタリア旅行に行くことになりました。初めての海外旅行。正直、少し遠出するのも面倒だと思う性格だったので、乗り気ではありませんでした。ただ、母も兄も英語を全く話せなかったので、「自分が何とかするしかない」と思い、現地では必死にコミュニケーションを取りました。

すると、思った以上に話すことができ、嬉しく感じました。視野も広がり、この感覚をもっと味わいたいと思うようになったんです。

そのため、大学では、法学部に所属しながらも、語学の勉強に夢中になりました。英語と中国語を学びつつ、留学生の友達との交流も増えていき、3年生の時には、友達に誘われて台湾に遊びに行くことにしました。

すると、中国語はそれなりに勉強していたので、少しは喋れるかと思っていたのですが、思った以上に意思疎通できませんでした。この時、言葉が通じたらもっと楽しいんだろうなと感じ、ちゃんと勉強したいと思いました。また、台湾大学のキャンパスを案内してもらうと、そこはのびのびした空間ながら、みんな勉強に集中していて、「ここで勉強したい」と感じたんです。

そこで、台湾に交換留学に行くことを決め、4年生になる時に日本を発ちました。初めは勉強についていけず、「何で来てしまったんだろう?」と、部屋から出られなくなるほど落ち込んでいました。しかし、徐々に生活に慣れてくると、留学に来たばかりで自分と同じように悩んでいる人の相談に乗るようになりました。

すると、留学生寮長を任せてもらうことになったんです。そして、留学生を取りまとめてイベントをしたり、みんなの相談に乗ったりするようにもなりました。

最悪な状態でのガーナとの出会い


1年の留学を終えた後は、海外の人とコミュニケーションを取ったり、世界をもっと知れる仕事がしたいと思うようになっていました。そこで、公務員試験の勉強ではなく、就職活動を行い、最終的にはプラスティックを扱う専門商社に入社することに決めました。原料から製品まで扱う領域は幅広く、海外と関わるチャンスは十分にある会社でした。

また、卒業までにガーナに行くことにしました。付き合っていた彼女が、将来、ケニアにホテルを建てたいと話していて、自分もアフリカに行ってみたいと思ったのがきっかけでした。ただ、ケニアは選挙の混乱があって行くのが難しかったので、同じくアフリカのガーナにしたんです。半年ほど、お金を溜めたり、現地の日本人や日本にいるガーナ人との人脈を作ったりと、準備を進めていきました。

ところが、出発の前日に彼女にフラレてしまったんです。4年間片思いを続け、やっと振り向いてもらえた相手だったので、ショックは大きく、かなり落ち込みました。ガーナへ向かう飛行機の記憶は一切なく、着いてからもお酒を浴びるように飲み、自暴自棄になっていました。「何のためにここに来たんだろう?」と思っていましたね。

しかし、ガーナの人の優しさに触れるうちに、徐々に立ち直っていきました。彼らは、用事がなくても電話で「元気か?」と聞いてきたり、辛い顔をしていればハグしてくれました。人との距離が近く、意図せずとも気遣ってくれていたんです。

また、彼らは、日本では感じられないような「生きる強さ」を持っていました。貧しいからといって不幸なわけではなく、みんな笑顔で、冗談だって言い合っている。そこに、「生き抜く力」や「絆」のようなものを感じ、憧れすら抱くようになりました。

そして、気がつけば、みんなと一緒に笑っている自分がいました。ガーナの人の優しさや、生きる力に救われたんです。

そこで、2週間の滞在の終わりには、何か恩返しできないかと文房具を買い、仲良くなったナイジェリア人の友達に案内してもらって貧しい地域の学校を回りました。すると、他国からの援助で学校自体はあっても、通っていない子どもが多くいました。制服を買うお金や毎日の食費がなくて、学校に通う余裕はないと言うんです。

この時、開発援助で「箱物」を作るだけでなく、経済が循環する仕組みも大事なのだと痛感しました。また、一緒に学校を回ってくれたナイジェリア人に、私は彼にどんな恩返しができるか聞くと、「子どもたちに何ができるかを考えてくれ」と言われました。

この時、将来はガーナに雇用を作るために働こうと決めたんです。それが自分にできる恩返しなのだと。また、生きる力を学びたいとも強く感じていたので、いつかガーナに戻ろうと思ったんです。

未熟な今の自分では迷惑にしかならない


そして、日本に帰り、社会人生活が始まりました。しかし、あまりにも仕事ができないし、自分に甘さもあり、1年目の終わりには自律神経失調症になり、休職することになりました。

すぐに復帰できたものの、主要な取引からは外され、定時には絶対に帰るようになりました。会社としては、また倒れられたら困るので当然のことでした。

ただ、そんな状況では役に立てないし、もうこの会社にはいられないと転職を考えるようになりました。正直、仕事を辞めて、すぐにでもガーナに行きたいと感じていました。

しかし、母に「今の状態でガーナに行っても、迷惑にしかならない」と言われてしまったんです。悔しいけど、その通りでした。今辞めてしまったら、逃げているだけ。そこで、少なくとも、何かをやりきったと思えるまでは、仕事を続けることにしました。

その後、新しい先輩が出向して来てからは、また一から仕事を教えてもらったり、貿易の補佐をさせてらもらったりするようになり、大量に送られてくる英語のメールに対応する日々が始まりました。大変でしたが、海外に関われる仕事だったこともあり、何とか踏ん張れました。

また、先輩が本社に戻ってからは、貿易に関しては任せてもらえるようになりました。次第に、海外出張にも行かせてもらうようになり、また、素晴らしい同僚や先輩たちに恵まれていたこともあり、4年目にもなると、仕事にかなり前向きになっていました。

母の死と、渡航への決意


一方で、ガーナへの想いは忘れるわけもなく、毎年、長期休みにはガーナを訪れていました。また、日本でもガーナ関連イベントに参加していて、特に、ガーナのイベントで料理を作っていた人のイベントには足繁く通うようになりました。

そのイベントの主催者は、シェアトレードという会社で、ガーナの香辛料「パラダイスシード」を日本に輸入しようと試みていました。そのために、現地に住み込み、生産や輸出を管理できるスタッフを求めていました。その香辛料を作ると、カカオ農家の複収入源にもなるので、私が目指している「雇用の創出」にも近いと感じていたので、いつかガーナに行く時には一緒に何かしたいと考え、関係性は保っていました。

そんな時、母が末期がんだと分かりました。元気になるだろうと思っていましたが、心配はかけられないので、今はタイミングではないと気持ちを閉じ込めて、ガーナの話はしないようになりました。

しかし、母はそんなことはお見通しで、「本当はガーナに行きたいんでしょ?心配しないで行っておいで」と言われてしまいました。この時、病気の母にこんな心配をかけてしまっているのかと、申し訳ない気持ちになりました。同時に、そうであれば、将来絶対にガーナに行かなければと強い気持ちも湧いてきました。

その少し後、ヨーロッパに出張に行っている間に、母は息を引き取りました。この時、自分の人生を変えるのは今しかない思い、シェアトレードに連絡を取ってガーナに住むことに決めました。そして、5年ほど勤めた会社を辞め、2014年2月より、ガーナで暮らし始めたんです。

ガーナに何かを残せる仕事


ガーナで暮らし始めてからは、パラダイスシードの生産や加工、輸出を行いながら、この国で雇用を生み出すために何かできないかと探していきました。そして、1年ほど色々見た上で、ベーカリーの経営を始めました。

「おいしいパン」に出会うことがなく、これはビジネスになると思ったんです。実際、大手が台頭しているわけではないので、ビジネスとしての勝機はありますし、パン作りならば、お金だけでなく「技術」が残せるのも魅力でした。一方的に何かを売り買いするだけでなく、「何を残せるか」は、常に考えていたことだったんです。

さらに、青年海外協力隊として、聴覚障がい者のための学校で働いていた人と一緒に、聴覚障がい者支援NGO「タツノオトシゴプロジェクト」も立ち上げました。ガーナでは、聴覚障がい者が職業訓練校で技術を習得しても就職が難しく、そのせいで「学校に行っても意味が無い」と、親が通わせたがらないこともあると聞きました。

そこで、どうせ雇用を作るのであれば、より困難な状況にある人たちと一緒に仕事をしようと考えたんです。ただ、一方的な支援ではなく、聴覚障がい者の方たちは、優しくて真面目で懸命に仕事もしてくれるので、企業でもぜひ採用したい人でした。

現在、ベーカリーで働く3分の1の人は聴覚障がいを持っています。彼らが働いている姿を色々な人に見てもらうことで、他の企業でも聴覚障がい者採用が広がれば良いですし、学校に行けば就職にも繋がるという価値を、親にも感じて欲しいですね。

「石本にできるなら」と思ってほしい


今後、事業の幅は、ベーカリー以外にも、農業、食品加工、サービス業等へ広げる予定です。雇用を拡大しつつ、スタッフ一人ひとりが成長して自立できるような機会を増やすことで、より多くのものを残していきたいです。シェアトレードの事業も同じで、一方的な取引をするのではなく、双方が持っている知識や経験を共有しながら、現地の方と一緒に成長したいですね。次の一歩としては、加工場の建設も予定しています。

そして、ガーナで奮闘する私の姿を見た日本の若い人が、「石本にできるなら、自分もやってみよう」と思ってくれたら嬉しいですね。私は特別なスキルもない普通の日本人だし、日本では会社の看板で仕事をしていたので、自信は全くありませんでした。そのため、ガーナに来ても何ができるのか不安で仕方ありませんでした。

しかし、今はゼロからイチを作る経験をさせてもらい、小さな実績が少しずつ自信と勇気に繋がっている気がします。経験が血肉となり成長を実感できるんです。正直、生活面から問題に直面してばかりですが、「a wave grows stronger with each obstacle it encounters」という座右の銘に従い、困難がある時こそ成長のチャンスだと思い、諦めずに進んでいきます。

どんなに問題が多くても、ガーナ人と充実した日々を過ごせている私は幸せだなと思います。これからも、ガーナで雇用を作り続けていき、将来的には日本と繋ぐようなこともできればと思います。

とは言っても、今はガーナの人たちに助けられ、生きる力を教わっているばかりで、恩返しどころか、借りが増えるばかりです。ただ、いつ返し終えられるのか正直分かりませんが、この借りは返済しきって、ちゃんと恩返しをしていきたいです。

2015.09.25

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