ベンチャー女優が挑戦するエンターテイメント。「全てを失った一日」を越えて目指すもの。

「ベンチャー女優」として、フリーランスで女優・タレント・歌手業を幅広くこなす寺田さん。中学3年生で芸能界に入って以来、順風満帆の躍進を遂げながらも、自信が鎧となり大きな挫折を経験。それでもエンターテイメントに関わり続けると決めた背景にはどんな覚悟があったのか?お話を伺いました。

寺田 有希

てらだ ゆき|ベンチャー女優
フリーランスの女優・タレント・歌手として幅広く活躍する。

ステージに憧れて15歳で芸能界へ


私は大阪府堺市に生まれ、幼稚園の頃から人前に立つことに憧れを抱いて育ちました。小さい頃からピアノを習っていたのですが、大舞台でも怯まない性格で、発表会では緊張しながらも、練習だと失敗していた箇所が何故か弾けるようになったこともあり、「私はステージに立つことが向いているのかな?」とぼんやり感じていたんです。特に、SPEEDやモーニング娘。などの全盛期だったこともあり、キラキラした世界に憧れ、小学校の卒業文集にも将来は歌手やアイドルになりたいと書きました。ただ、田舎の学校ということもあり、周りにはバカにされると思い、それ以降はあまり友達に話すことが無くなっていきました。

その後、中学生になると、ちょうど公開オーディションを行うTV番組が流行りだし、私自身受験資格を満たす年齢になりました。しかし、中学では陸上部に所属し、ひたすら部活に打ち込んでいたため、特別行動を起こすことも無く過ぎていきました。

すると、中学3年生の春、芸能事務所主催の大規模なオーディションの告知をTVで見て、母や姉から受かるんじゃないかと言われ、応募を薦められたんです。芸能界に憧れを抱いていることは話していなかったものの、バレていたのかもしれません。

ところが、結果は不合格。受かる人は一回で受かるだろうから、他にも何個も受けようとは思わず、「私は無理なんだろうな」という感覚でした。ただ、そのすぐ後に他の事務所主催のオーディションの募集が始まると、再び姉から「あんたはこっちのほうが向いていそうだから、受けてみなよ」と言われたんです。正直、一度他で落ちているので、応募するかとても迷いました。その年は書類審査が無かったので、悩み続けた結果、行くだけ行ってみようと決めたのは本番前日の深夜でした。

しかし、実際に参加してみると、今度は順調に選考を通過し、決勝大会に進むことができたんです。それでも、結果的には再び賞を取れずに落選。「なんだ、今回もダメなんじゃないか、もう普通に受験をしよう」と感じましたね。それからは、いい高校に通って大学に進学して、少し興味のあった薬剤師になってという理想を描き受験勉強を始めました。

そんな風に気持ちを切り替えて過ごしていたある時、先のオーディションの主催事務所の方から連絡があり、選考には落ちたものの、事務所に所属し、TVのアイドル番組にレギュラー出演しないかというお誘いをいただいたんです。そのような連絡をいただいたことに驚きましたし、アイドルとして活動していくことへの迷いもありました。ただ、せっかく声をかけてもらったのだし、とりあえずやってみようと挑戦を決めたんです。

順風満帆な芸能生活でまとった「自信の鎧」


中学3年生の12月にデビューを果たして以来、私は自信満々に活動をこなしていきました。自分でもやっていけると感じましたし、逆に自信を持っていないと崩れてしまいそうな不安もあったんです。そして、高校に入学すると、デビューして1年経たないタイミングで、週刊ヤングジャンプの「制コレ(全国女子高生制服コレクション)」でグランプリを獲得し、NHKの朝ドラに昼ドラにと、次々に活動の機会が広がっていきました。目標に対してすごく順調に進んでいる感覚があり、将来は大竹しのぶさんや深津絵里さんのような女優になりたいと考えていました。

ただ、トントン拍子で進んだ分、自信は鎧にもなり、仕事を断るようにもなっていったんです。自分が自信を持てるイメージが浮かばない仕事は断っていただき、周りの方を信じて仕事を託すこともできませんでした。目指す目標までは一本道で、その道から外れるようなものは受けないと考え、すごく売れている時に仕事を断ったんです。

また、高校の卒業が近づくに連れて東京に出たいという思いが強くなり、自ら事務所の東京本社に所属するキッカケを作るため、推薦での大学受験を経て明治大学文学部に進学を決めました。そして、事務所に直談判をして、東京の本社に所属させてもらうことにしたんです。さらなる機会のため、大学生になってからは東京で活動を始めました。

全てを失った一日


しかし、東京に拠点を移してから、歯車が狂い始めていることに気づき始めました。オーディションに合格できないことが続き、あれよあれよと仕事が無くなっていったんです。何かが音をたてて崩れていくのを感じながらも、マネージャーさんや事務所への態度も変えられずに居ました。今までの自分を否定することが怖かったんですよね。

そのため、東京では、週に2回は事務所のレッスンに通う以外は、ほぼ普通の大学生として過ごしていました。仕事が無いと思いたくないし、やることがあることが救いだったため、レッスンには休まず通っていました。だからこそ、「なんでレッスンを受けているのに仕事が来ないんだろう」と責任転嫁を繰り返す日々を過ごしていましたね。

いわゆる「王道」をずっと走って来たこともあり、「こうすれば売れるから」とアドバイスをいただいても、自分の考えに合わなければ取り組まず、自分が信じている道を曲げてしまったら目標にはたどり着かないと感じていたんです。

それでも女優を辞めたいと思うことはなく過ごしていたのですが、大学4年を迎える春休みに東日本大震災が起こって以来、エンターテイメント業界に急激な変化が起こりました。「自粛ムード」の影響もあり、事務所全体の活動ががくんと右肩下がりになってしまったんです。

元々、就職活動などは考えていなかったものの、次第にそうも言っていられない状況になっていき、2012年3月31日、大学の卒業と同時に事務所との契約を終了しました。周りの同世代はこれから社会人になり仕事を始めるというタイミングで、私は、大学生と所属する事務所と給料と、1日で全てを失ってしまったんです。

分かりやすく味わった人生の挫折は、ショックという言葉を越えたものでした。中学3年から、これしかないと思って続けて来たことが一気に崩れ、初めて自分のわがままのせいで歯車が狂っていったことに気づきました。周りが就職をする時に自分は職を失って、「私は何をやっているんだろう…」と呆然としてしまいました。

フリーランスへの覚悟とわがままだった自分への後悔


しばらくは何も手につかない状況でしたが、とりあえずちゃんとお金を稼がなければと思い、イタリアンレストランのホールでアルバイトを始めました。それまでは仕事の給料があったので、私にとってそれが初めてのアルバイトでした。それからは、バイトをしながら、それまでに仕事で関わった方々にフリーになったことを伝えて回り、なんとか仕事を続けようと努力しました。公には活動休止を謳わず、それまで通りブログも書き続けることにしたんです。

しかし、バイト先で「お姉さん綺麗だね、芸能とかやっていないの?」などと言われる度に、店の裏に回って涙を流したり、事務所の人に勤務中に会ってしまい、「私は今バイトなんだ」と再認識させられたりと、辛い思いをすることも沢山ありました。

それでも、フリーになってから1年後、初めて舞台出演の声をかけていただいたんです。その時はオファーをもらえたことがただただ嬉しく、本当に久しぶりに人前で演技をしました。見ていただいた方の「面白かったよ」という言葉がいつにも増して快感に感じられましたね。

さらに、その舞台以来、他の仕事も入り始め、以前別の仕事でご一緒させていただいた堀江貴文さんの「ホリエモンチャンネル」というYouTubeの番組のアシスタントを務めさせていただくことにも決まり、いよいよフリーランスとしてやっていこうという覚悟が決まりました。「フリーで『寺田有希』として成り立ってやろう、周りを驚かせてやろう」と考えるようになったんです。事務所を辞めてから1年半、24歳にして、「私はやっぱりこの世界で生きていくんだな」と再認識するキッカケとなりました。

同時に、フリーランスとして働き始めることで、それまで自分が如何に恵まれていたかも理解するようになりました。例えば仕事の獲得やギャラ交渉など、それまでは関わることが無かった部分や人に触れるようになり、「私の周りにいた方はこんなことも考えていてくれたのか」と、本当に申し訳ない気持ちで一杯になりました。今までの自分は最低だったと感じるとともに、これからは周りの方の思いやりに応え、人に対して優しくなろうと考えるようになったんです。衝撃的な発見でした。

寺田有希というエンターテイメントに関わる人を120%幸せに


フリーランスとして仕事を始めると、ベンチャー起業家やデザイナー・エンジニアなど本当に様々な方と出会うようになりました。そして、色々な人の話を聞いていると、皆失敗することを恐れていないことに気づいたんです。それまでは、成功している人は成功しかしていないと考えていたのですが、とりあえずやっている人、失敗し続けた人が成功していたんですよね。それに気づいてからは、「じゃあ女優でも同じなんだな」と感じましたね。何でもやってしまえばいいんだと。

そこで、失敗を恐れずに他の人がやらないことに挑戦しようと考え、自分のことを「ベンチャー女優」と名乗ることに決めました。自らを事業主として考えて、自分をこれから売り出していく商品としてプロモーションしようと考え、それが異端児でもいいからとがってみることにしたんです。その先に何かが待っているかもしれないという感覚がありました。

現在はメインで女優業を行いつつ、自らイベントを開催してみたり、歌をうたってみたり、これまでの固定観念を崩して、色々な仕事に挑戦しています。例えば、事務所所属のタレントの場合、カレンダーは人気がないと発売できず、私はそこまで至ることができませんでした。ただ、フリーならば自分でプロデュースしてしまえばいいと考え、実際に販売にも至りました。

昔描いていた型通りの女優像ではないですが、ステージ上に立っている時はいつでも楽しいですね。どんなシーンでもいいんです。自分が表現者なんだと感じられる瞬間が、自分らしくいられる気がしてすごく好きです。幼い頃の未来予想図と今の楽しいイメージが重なり、「やっぱり私はここを目指していたんだな」と感じます。

これまでの私は自信の鎧をまとった堅物でした。でも挫折があったからこそ、感謝を覚えることができました。それが無かったら、私はもっと嫌な大人になっていたと思います。だからこそ、自分のこの性格には挫折が必要だったと、今は前向きに考えることが出来ています。

最近、デザイナーやエンジニアの方がフリーランスとして活躍する機会はたくさんあるのに対し、テレビの業界ではまだそうなっていないのが現状です。でも、YouTuberのようにお客さんは作品が面白ければファンになってくれると思うんです。だからこそ、私も型にとらわれずに、寺田有希という一つのエンターテイメントでありたいと考えています。

私のことを知っていただき、実際に活動を見に来ていただき、「面白かったよ」といっていただけることが一番のモチベーションです。お金や時間を費やしていただける人のためにも、これからも、私のエンターテイメントに関わった人を120%幸せにし続けたいです。

2015.07.18

インタビュー・執筆 | 新條 隼人
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