ピーナッツバターで不可能を越えていく。ネパールで暮らす人たちを幸せに。

エベレストに近いネパールの小さな村・コタンで、現地の女性たちと一緒にピーナッツバターを製造・販売している仲琴舞貴さん。キャリアのスタートは実家で経営する美容室のマネジメントやコンビニのリサーチのお仕事だったそう。そんな仲さんがなぜ、ネパールでのピーナッツバター工場の建設と女性たちの雇用を実現させることになったのか。お話を伺いました。

仲 琴舞貴

なか ことぶき|株式会社SANCHAI代表
1978年、福岡県生まれ。家業の美容院の経営に携わった後、コンビニのマーケティングの仕事をしながら写真やデザインを学ぶ。IoTサービスを提供するベンチャー企業に入ったことをきっかけに、ネパール東部コタンへ。現在はヒマラヤの麓のネパール・コタンの、無農薬・無添加で品種改良されていない希少なピーナッツを使ったピーナッツバターを製造、販売。現地女性を雇用し、働く体験を通して豊かな人生を生み出すことを目指す。

父を納得させたかった


福岡県久留米市で、4人兄弟の次女として生まれました。父は大型の美容室を経営し、見た目や服装もかなりインパクトのある変わった人で、母は専業主婦。他の兄弟たちは父に似て口が立つタイプでしたが、それに比べるとわたしはおとなしい性格でしたね。

父に聞いた話ですが、行政書士をやっていた父方の祖父はお人好しで、すぐに困った人をタダで助けてしまうから、家族はずっと貧しかったそうなんです。そこで父は、自分の子どもたちには苦労をさせたくないという思いから、自分で美容室を開業。わたしたち兄弟は幼い頃から「子どもたち全員を自分の会社の跡継ぎにしたい」という父の願いを聞いて育ったんです。だからもう、当たり前のように父の会社を継ぐものだと思っていましたね。

中高一貫の私立校に進学すると、家から学校までの距離が遠かったので部活には入れませんでしたが、そのぶんファッションやデザインに興味を持つようになり、将来的にはアパレル系の仕事をしたいと思っていましたが、その気持ちを父に上手く説明することができず。それだったら、言葉ではなく行動で示して納得してもらうしかないと思ったんです。

そこで、高校2年生のときに生徒会長をやっていた友人に頼んで文化祭の予算を確保し、ファッションショーを開催することにしました。クラスメイトたちにも協力してもらいながら、わたしが洋服のデザインからモデルのアサインまですべてディレクションしました。予算がどうしても足りず、母に相談して父の昔のカラフルな服を持ち出して勝手に裁断することもありました(笑)。

ショー当日は両親が見に来て、すごく感動してくれました。父の服を使ったのもバレちゃいましたが、「俺の服や」とおもしろがって喜んでいました(笑)。わたしとしては、ファッションやデザインに対してどのくらい思いが強いのかを見せて、父に納得してもらうことが目的だったのですが、「ここまでやれるのはすごい。美容の道でも絶対成功するぞ」と言われてしまって…。「えー!」と思いつつも、父らしいなと。

高校卒業後に専門学校に行くにしても費用を出してもらう以上、父が納得しないとだめだと思っていましたし、どうしてもファッションの道を諦められなかったら自力で行こうと思って。そこでまずは一度、父の望む美容の道に進む決意をし、高校に在学しながら通信制の美容学校に入学しました。美容室の経営に必要な免許をとるには、美容学校の卒業証書が必要だったんです。だから、ほぼ卒業証書をもらうためだけに通っていましたね。

高校卒業後は、いったん父の会社のフロントマネジメントとして入りました。お店で働くスタッフのマネジメントを担当する中で、それ自体のスキルだけでなく、現場にいる技術者たちの気持ちを理解する必要があるんじゃないかと思うようになりました。そこで、わたし自身も一度外に出て技術者として働く経験を積みたいと父に頼み、東京の美容室で働くことになりました。

泣く泣くUターン、そして再び東京へ


上京後は代官山の美容室で働き始めました。今までいろんなヘアスタイルを見てきましたが、その良し悪しの判断基準がよくわからなかったんです。ショー用の奇を衒った髪型も理解ができなかったし、個人的にはまったくいいと思えなくて。

ですが、その代官山の店長に出会って驚きました。ものすごく技術のある人で、実際に切っている姿を見たときに「やっぱり素晴らしいものはわかるんだな」と初めて理解ができたんです。店長は職人気質で「見て覚えろ」というタイプの人でしたが、一流の技術者である彼の元で働けたことは、すごく大きな経験になりましたね。

代官山で働き始めて1年が経つ頃、父が持っていた病気がひどくなり「早く帰ってきてほしい」と連絡がきました。生死に関わるような病気だと思っていたわたしは、ようやく慣れてきた職場や東京を離れることに悲しさを感じつつも、泣く泣く福岡に戻ることにしたんです。いざ帰ってみみたら、幸いすぐに命に関わるものではなくて安心しました。もしかしたら、娘を手元に置いておきたかったのかもしれません。ただ、今後実際に後を継ぐことも視野に入れて、また父の会社で働くことになりました。

それからは、必死で経営について学びました。本を読み漁ったり、コーチングを学んでみたり。もちろん父から教わることもありましたが、自分で学べば学ぶほど、すでに経営者としてのキャラクターが確立している父のやり方をそのまま踏襲することは無理だと気づきました。父には反発もしましたし、よく喧嘩もしましたね。

お互いのやり方が違うことを再認識していたその頃、同じように数年前に実家に戻ってきていた弟が東京での起業を計画していて。弟の計らいでわたしも一緒に上京して手伝いをすることになり、7年勤めた父の会社を辞めました。なんだかんだ言って子どもを愛し、やりたいことは応援してくれる父なんですよね。

2回目の上京後は、自分でも少し収入を得ながら弟の起業を無償でサポートしていました。タイミングが来たら離れることはお互いに合意していましたし、このまま続けているのはあまりよくないなと思い、1年半が経った頃に辞めて次を探し始めました。すると、ちょうどイギリスに住んでいる友人から連絡が来て、半年間知人の家のお手伝いをしてくれないかと誘われたんです。

何も決まっていなかったので、思い切って一人でイギリスに行くことにしました。知人に紹介され、日本人のマダムとイギリス人のご主人が住む豪邸で生活させてもらいながら、2匹の大きな犬のお世話をしていましたね。ふたりとも犬をすごく大事にしていたのですが、マダムは腰が悪く、ご主人は事業が忙しかったので、わたしが代わりに散歩をしていました。マダムもご主人も温かくて気さくな方で、イギリスでの生活はすごく楽しかったです。

模索する中で見つけた新たな道


半年間の滞在を終えて帰国すると、日本はちょうどリーマンショックの真っ最中でした。特に何も決めずに帰ってきたので、全然仕事がないことに焦りを感じました。自分が何をやりたいかを考える余裕もなく、とにかく生きるための仕事を探さなければならない状況になってしまったんです。その時、たまたま見つけたのがコンビニのリサーチのお仕事でした。

大手コンビニの子会社で、競合比較をしながら強みや弱みを分析する仕事に打ち込みました。もともとワーカーホリック体質だったので、プライベートとそうでない時間の境目を作るのが苦手な性格。でも、就業規則が厳しくて、時間外の残業や休日出勤ができないとわかるとすごく混乱してしまって(笑)。「え、何をしたらいいんだろう?」って。

でも逆にチャンスだなと思い、仕事以外でとにかくいろいろやってみようと頭を切り替えて学びの場を探し始めました。その中で、写真家・ホンマタカシさんのワークショップを発見。もともと写真が好きだったのと、なんとなく興味を惹かれて、小さなカメラ一台を持って参加することにしました。

ワークショップでは、写真の歴史を振り返りながらそれぞれのカテゴリーでの課題を出されました。実際に作品を作りながら、「写真とは何か」という問いを掘り下げていくのですが、それがめちゃくちゃおもしろかったんです。写真にどんどんのめり込んでいきました。

3~4カ月間のワークショップ終了後、新たに開かれた選抜クラスには選ばれなかったのですが、どうしても諦めきれなくて。自分で作品をまとめて提出したら、運よく選抜クラスに呼んでいただけて、作品作りを続けられることになりました。

撮影自体のスキルが上がっていく一方で「何を表現したいのか」というコンセプトの部分を上手く見つけられない壁にぶつかりました。自分の目指す作品がなんなのか、よくわからなくなってしまったんです。そこで、一度撮影することから離れて、さまざまなギャラリーや美術館に行きまくり、とにかくたくさんの作品を観て、そこで感じたことを自分の言葉に置き換える作業を繰り返しました。すると、いろんなことに気づきました。

​​写真に限らず、目に見えるものは、どんな見方をするかによって解釈の方法が変わる。つまり、ものの「良さ」や「価値」というのは、対象そのものではなく、その周囲の構造の中で生まれていくのだと気づいたんです。

この気づきを、リサーチの仕事の中で実験的に確認してきました。商品やサービスの価値がどこから生まれるのか、比較すべき対象や切り取り方を多角的に考えていくことで、価値の本質が捉えられるようになってきました。

結果5年働きましたが、30代半ばを越えたこともあってまた別のことをしようと退職を決意。これといった語れるスキルもないし、転職活動には苦戦しましたね。そんなとき、知人の紹介で、ある人に出会いました。その“ボス”はもともと投資家で、これからスタートアップを立ち上げようとしているタイミングでした。何となく興味を持ち、その人の会社に転職することを決めました。

入社後、IoTのサービスを作っていく中で、良い教育を受ける機会のない子どもたちのためにネパールの学校を運営しているNPO団体と、代表のネパール人の青年に出会いました。彼らが運営する学校の子ども達が通学するための継続寄付の仕組みを、IoTの仕組みを使って強化するプロジェクトを行うことになり、私が担当することに。寄付の仕組みを考えていく中で、寄付だけに頼るのではなく、現地で何か経済的な基盤が作れたらいいなと考えるようになりました。

その中で、この学校のあるコタンという地方で、無農薬のピーナッツを作っているという話を聞いたんですね。無農薬といえば日本ではすごく価値があるけれど、現地ではその価値が生かされていないと。

今は活用されていないピーナッツを活用することで、現地の方々の生活を豊かにすることができるのではないか、と考えたのです。そこでボスに相談をし、寄付の仕組みを作るのと同時に、現地でピーナッツバターを作るプロジェクトを始めることになりました。

目指すは現地で暮らす人たちの幸せ


いざプロジェクトが始まり、考えた寄付の仕組みをコタンで実現できるのか、そして本当にピーナツバターが作れるのか、リサーチのためにネパールに渡ることになりました。目的地であるコタンは、首都カトマンズから車で8~10時間ほど東側に行った山岳エリア。ただでさえ時間がかかるのに、当日不運なことに、道の途中で土砂崩れが起きて前に進めなくなってしまったんです。

しかし、ジープの運転手さんがものすごくワイルドな人で(笑)。他の人たちが諦めて帰ろうとしている中、「俺だったらこっちの道行けるぜ」と叫んだと思ったら、ものすごい山道や道なき道をガンガン突き進み始めたんです。その時、人生で初めて「このまま死ぬかもしれないな」と冷静に思いました。いつ死ぬかわからないなんて、ものすごく当たり前のことなのに、その当たり前のことを全く意識していなかった自分に気づきました。恐怖と同時に、スペクタクルの作りこまれた安全な世界の外側に踏み込んでいる感じがして、すごくワクワクしたんです。自分以外の誰かが作り込んだ幻想を取っ払って、世界にダイレクトに触れている感覚でした。

そうして、16時間かけてなんとかコタンに辿り着くことができました。本来であれば夕方到着するはずが、もう夜で。真っ暗で何も見えませんでしたね。翌朝になってあたりを見渡すと、山々の合間に家々がぽつんとあるだけで、他には本当に何もなくて驚きました。いったん、IoTプロジェクトに向けて通信の接続環境をテストをしつつ、実際にピーナッツバターの農家さんを訪ねて回ることにしました。とはいえ、日本と違って地図アプリを立ち上げても何も表示されない場所。あらかじめあてをつけてから、バイクで移動しました。

ピーナッツのおおよその収穫量や種類、保存方法、収穫後の流通に関してなど、色々聞き込みしました。しかし聞いてみて改めて、電気もない、水もない、ガスもない、道も悪いコタンの地に、新しく工場を建ててピーナッツバターを作ることは、不可能だと思いました。諦めかけていたんです。

そんな中、訪ねたとある農家で甘いスパイスティーを飲みながら話していたとき、農家のおじさんが「ここはとっても素敵なところでしょ」ってわたしに言ったんです。自然が美しくて、ここで生まれ育って僕は本当に幸せだと思っている。子供達もみんなそう思っていると思うと。ただ、コタンには学ぶ場所も働くところもないから、若い人たちはみんな出て行ってしまうそうなんです。「ここに働く場所ができたら、みんな残って、この土地を良くするために頑張るのに」って。その話を聞いたときに、前日に感じたワクワクした感覚がリンクしたんです。

コタンの人たちの暮らしは決して裕福とは言えないし、ものすごく不便。若い人が都会や海外に出ていかなければならないというのも、リアルな課題です。それでもこの地で生まれたことを心から幸せだと言い切って、たしかに生きている人がいる。実際、みなさん本当に朗らかで幸せそうなんですよ。

彼らが幸せを感じながらこの場所で生きていくことが、わたしが目指すべきところだと思いました。その一つの手段として、ピーナッツを買い取って経済的なインパクトを生み出すだけではなく、雇用を生み出そうと考えたのです。なぜなら、私自身が仕事を通じて学び、成長することができると信じていましたから。

そう決意した瞬間から、「どうやって工場を作るか」だけを考えるようになりました。

場所や見方が変われば価値になる


とはいえ、本当に実現できるかどうかの確証は1ミリもありませんでした。ボスに相談して、もともとの寄付の仕組みづくりのプロジェクトに組み込む形で、どうにかプランを立てました。利益がどのくらい出るのかも全くわからない中で成功させるためには、コストを圧倒的に下げるしかない。そのためにできるのは、人件費を抑えることと最短で工場を建てることでした。

そうと決まってからは、とにかく自分でできることは自分でやりました。それ以外のできない部分を補うために、通訳やレシピ開発、現地に精通している人などをアサインしました。工場長を引き受けてくれた地元の青年は、海外の食品工場での勤務経験があって、衛生管理に必要なことを理解していたのですごく助かりましたね。

わたしは、現地の人々とのコミュニケーションや、工場に必要な設備などのリサーチのために、何度も日本とコタンを行き来するようになりました。日本では、レシピ開発をお願いしていたフードプランナーの友人の家で、他の友人も呼んで一緒に試行錯誤しながらサンプルを作りましたね。何しろ、条件が「電気を使わなくても作れる」なので(笑)。ミキサーも使えないので、空き瓶でピーナッツを細かく砕いたりもました。このまま商品化するのは難しいと思いつつも、なんとか形にしたんです。

工場の場所も決まり、オープンを3カ月後に控えたタイミングで、まさかの送電開始の連絡が。本当に奇跡かと思いました。電動のミキサーでグラインドをかけたら、恐ろしいぐらいにとろとろでおいしいピーナッツバターになって感動しましたね。

おいしさの理由を改めて調べて、いくつかわかったことがありました。まず2種類あるコタンのピーナッツのうち、農家のおじさんたちが「こっちが美味しいよ」と教えてくれた、小粒のものだけを使っていたのですが、ここに美味しさの秘密がありました成分を調べてみると、たんぱく質の含有量が通常の約1.3倍も多く、栄養価も高い。この小粒のピーナッツは一度も品種改良されていない希少なものだったんです。

コタンでは「農薬が買えないから」という理由で完全無農薬だったし、ピーナッツの産業がそこまで発達していなかったからからこそ、品種改良されずに受け継がれて作られてきた。一見、ネガティブな理由で自然のまま作られたピーナッツは、まるで埋もれていた宝物のようでした。つまり場所や見る人が変われば、価値のあり方が変わるんですよね。わたしが写真を学んでいたときに感じた「構造の中から生まれる価値」そのもので、おもしろいなと思いました。

オープン3週間前になると、働いてもらえる人を探すために、手分けをして工場の近隣の家を一軒一軒訪ね、自分たちの思いを伝えてまわりました。「自分たちの手で、価値のある良いものを作っていこう」と。

自らが変化して成長する意志を持つ人と働きたいと伝え続けた結果、50人以上の現地の女性が集まってくれました。嬉しかったですね。その中から、成長してこの地をよくしたいという意志の強さを感じた女性8人を採用。トレーニングの期間を経て、ついに工場をオープンさせました。工場オープンの約3カ月後からネパール国内での販売を開始。ピーナッツバターを持って営業をする中で、その濃い味わいと、自分の意志で働き始めたコタンの女性たちの姿が共感を呼び、事業を続けていくうちに、20以上のホテルや飲食店と取引を持つことができました。

生産者とお客様を繋げる仕組みを


はじめの1年間はネパール国内だけで販売をしていましたが、2019年の5月に日本への輸入を開始しました。働いていた会社からは独立し、日本でも株式会社SANCHAIという名前の法人を立てました。現在は、現地法人の代表と併せて日本でも代表取締役を務めています。新型コロナウイルス感染症の影響で、現地ではインバウンド事業がかなり難しいこともあり、今は日本での販売がメインですね。時勢が落ち着いたら、シンガポールなど他国への販路開拓も考えています。

不可能だと思っていた工場ができて、一度も家庭の外で働いたことのなかった現地の女性たちがピーナッツバターを作っています。その女性たちが「わたしの人生が生まれ変わったんです」と言って、喜んで働いてくれていることがすごく嬉しいですね。日本でお客様がテイスティングして驚いている様子や、購入して喜んでくださっている姿を、現地に行ったときに女性たちに「あなたたちが作ったピーナッツバターを、日本でたくさんの人たちがすごく美味しいって喜んでいるよ」と見せると、みんな目に涙を浮かべながら喜ぶんです。

彼女たちにとって、自分で収入を得ること自体初めての経験。お金を得ることもそうですが、それ以上に、自分たちが作ったものを誰かが評価してくれ、尚且つその誰かを喜ばせることができるという事実がとても嬉しいんだと思います。そんな姿を見てわたしも最高に幸せですし、それこそこの事業で叶えたかった「コタンの人たちが、生まれ育った愛する地で幸せに暮らす」という価値を生み出せているんじゃないかなって。

今後、目先のやるべきことは、この事業自体をきちんと確立させつつ、ピーナッツバターの素晴らしさをさらに伝えていくこと。さらに、今後数年の中でピーナッツバターを通して、お客様と生産者を繋げるような仕組みを作れたらいいなと思ってます。

会社を継続していくにあたって重要なのは、お客様がわたしたちのピーナッツバターを気に入ってずっと食べ続けてくれることです。それが売り上げになって、働いてくれている彼女たちを雇いながら会社を継続的に回すガソリンになる。要するに、彼女たちの幸せを支えているのってお客様なんですよね。だからこそ、これからわたしはお客様と生産者がお互いの存在をよりリアルに感じるための仕組みづくりをしていくべきだと考えています。その先で、消費活動や購買活動の在り方も変えていきたいと思いますね。

2021.08.30

インタビュー | 伊東 真尚ライティング | むらやま あき
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