可能性を信じ、器いっぱいの人生を生きる。 人材育成・学校教育両面から自律型人材を育む。

一人ひとりが目的をもち、主体的に生きる自律型人材・組織の育成に取り組む熊平さん。元々は、実家の事業を手伝うためにMBAを取得し、ビジネスの世界で尽力していたと言います。そんな熊平さんが人材や組織に関心を持ったきっかけとは?そして、目指す未来とは。お話を伺いました。

熊平 美香

くまひら みか|自律型人材・組織を育成する
青山学院大学部法学部を卒業。家業の企業で勤務したのち、ハーバードビジネススクールでMBAを取得。会社に戻り、取締役経営企画室長などを務める。その後、日本マクドナルド創業者の藤田田氏の元で新規事業や人材育成事業に携わり、独立。昭和女子大学ダイバーシティ推進機構キャリアカレッジ学院長、クマヒラセキュリティ財団代表理事、Learning for All 理事、未来教育会議代表、21世紀学び研究所代表理事など、20以上の会社や団体の取締役や委員等を務める。

ビジネスへの関心


広島市で生まれました。家は、曽祖父の代から続く家業があり、父が会社を継いでいました。家には従業員が出入りすることも多く、自然とビジネスに関する会話が耳に入ってきましたね。

曽祖父は元気でしたが、彼の娘にあたる私の祖母は亡くなっていて。毎月1回、お寺のお坊さんを招いて法要をしていました。読経を聞いてお墓まいりに行くんです。父は忙しくてあまり家にいなかったので、一緒に居られるその時間が好きでしたね。加えて、高名なお坊さんと接すると、人としてあるべき姿を教えてもらっているような気がしました。少しでも自分を高めようと努力して、より良い素敵な大人になりたいと思うようになりました。

地元の小、中学校と進み、高校生になると、著名な企業の創業者の手記などを好んで読むように。夢の実現のためにチャレンジする話が大好きでしたね。経済紙や雑誌を読んでは、早くビジネスの世界に行きたいと憧れました。父から家を継ぐように言われたことはありませんでしたが、興味があったので関わりたいとは思っていました。会社がよくなるよう、役に立ちたかったんです。

高校では、アメリカにいく機会にも恵まれました。東海岸にはほとんどアジア人がおらず、滞在中には世界地図を見せられて「ここから来たの?」と中国を指さされることも。日本が、地図上になかったんです。そんな環境の中で、「日本には日本の良いところがある、その良さを表現したい」という思いが強くなりました。

滞在中、アメリカ人に、「将来、何になりたいの?」と聞かれることがありました。「世界とつながる仕事で活躍したいです」とその時感じた思いを答えると、その人は「素晴らしい夢だね、できるよ!」と言ってくれたんです。「一生懸命やってできないことはない。たとえできなくても、やることで失うことはないよ」と。よく知らない大人なのに応援してくれたことが嬉しかったですし、なるほど、と思いました。たとえダメでも失うものはない。だから、夢に向かって生きようと思えたのです。

課題は解決されるべきもの


海外や日本文化に興味があったので、大学は比較文化を学べる学部へ。しかし入ってみると自分に合わず、別の大学へ転学。改めて将来を考え始めました。一部の大企業を除いて、女性の仕事はお茶くみという会社が多い時代です。人の役に立てる一人前の人間になりたいという思いがあり、責任ある仕事をするチャンスが欲しいと思いました。そのチャンスは、性別で判断しない父の会社の方が多いのではないかと考えたのです。父の会社に就職しました。

入社してからは、「この会社の課題はなんだと思いますか?」とみんなに聞いて回りました。みんながどう捉えているのか興味があったんです。聞き続けると、何が課題かわかってきました。今度は、課題に対して「じゃあどうすればいいと思いますか?」と聞くことに。すると、あれほど雄弁に課題を語ってくれた人が、誰も答えられなかったんです。本当にびっくりしました。「課題って、解決するものじゃないの?」と。

私には、未来は今日より良くならなきゃいけないし、そこに自分も貢献していくべきという思いがありました。会社にいても、課題を解決する方法は見つからない。だったら外で見つけなければと、思い切ってアメリカのビジネススクールへ学びに行くことにしました。

ビジネススクールでの日々は、学びの連続でしたね。何より驚いたのが、日米関係が緊迫してバッシングさえ起っている中で、アメリカを代表する経営者や経営学者たちが進んで日本の成功から学ぼうとしていた姿勢です。感情論やプライドに左右されることなく、創業の精神や自社の存在意義に立ち返り、今の時代に合った事業を探すことの必要性や、事業拡大の方向性など、見えてくるものがありました。英語の講義についていくのは大変でしたが、会社を良くするという目的があったから頑張ることができました。

名前を奪われるほどの衝撃


卒業が近づくと、会社に何かお土産になるようなビジネスの種を持って帰りたいと考え始めました。いろいろな方とお話させていただく中で、世界有数の研究機関の事業開発責任者に、コンピュータセキュリティのプロジェクトを一緒にやらないかとお声かけいただいたんです。

日本はバブルの真っ只中でしたが、父も私も、これからは事業者が淘汰される時代がきて、既存事業を続けるだけではいけないとわかっていました。実家に戻ると、経営陣で話し合い、コンピュータセキュリティの新技術開発を始めることに決めたんです。並行して、金庫扉を製造する事業から、建物全体のセキュリティをトータルに提供する事業に、方向転換すべく、会社の舵を切りました。

私は、経営企画室長として企業変革ビジョンを構築する傍ら、コンピュータセキュリティの新技術開発責任者として、アメリカ人と日本人のエンジニアの開発チームのマネジメントを行うことに。難易度が高く、かなり苦戦しました。まず文化が違うので、プロジェクトを進めるプロセスが異なります。足並みを揃えて前進するにはどうすればいいか試行錯誤しました。加えて私自身が開発者ではないので、技術のことがわからず悩みましたね。

それでも続けていくと、専門性がなくても仮説の確かさは判断できることに気づき、きちんとコミュニケーションを取ることで解決できるのではと感じ始めました。

そんな矢先、会社でクーデターが起きたのです。父は社長を退任することに。私も会社を辞めることになりました。本当に大きなショックを受けました。社員の方々は、私に対して娘や妹のように接してくれて、毎日家にも飲みに来るような関係性で。そんな人たちにクーデターを起こされたことが辛かったですし、小さい頃から会社と一緒に生きてきたので、まるで自分の名前を奪われたような衝撃でした。

会社を辞めた翌朝、起きようとしても、上半身が重すぎて布団から持ち上がりませんでした。起きる目的がないんです。ビジネススクールの時は、どんなに葛藤があっても会社のためという目的があったから頑張れた。でも目的がなくなってしまったから、もう頑張れないかもしれない、と思いました。

でもその時、息子が「ママ、お腹すいた」と言ったんです。その言葉になんとか起き上がることができました。彼に救われましたね。

学習する組織との出会い


家族のおかげで生活はできていたものの、アイデンティティがなくなった感覚は拭えませんでした。30歳を超えてもう一度、自分は何者なのか模索する日々。ご縁のあった経営者の方から声をかけていただき、新規事業の立ち上げを一緒にさせていただくことになりました。

仕事はとても面白かったですが、子どもの成長もあり、徐々に両立が難しくなって。組織や事業のコンサルティングを立ち上げ、独立することにしました。自分自身、事業戦略を変えることについては、家業で成功体験を積みましたが、人と組織を変えることについては、道半ばで会社を離れたので、その手法にまだ確信が持てないままでした。

ある時、仕事でアメリカに行き、日本でリーダーシップ研修をするために、良いプログラムをされている方を探しました。すると、アメリカを拠点とする大手総合電機メーカーが開設した、世界有数の企業内ユニバーシティのプログラムを紹介してもらえたんです。

プログラム開発者の話を聞いて、深く感銘を受けました。彼らが提唱しているのは「学習する組織」。大企業のブランドと、中小企業のスピードと柔軟性を共に持つ組織をめざし、管理者には、ボーダーレス、オープン、フラットな学習する文化を醸成することが期待されていました。これらの考え方は、私が企業改革する上で困っていたことの答えそのものでした。

これから先、世の中の変化はどんどん速くなるから、全てを社内で生み出すことは難しい。でも、あらゆる領域の良いものをいち早く取り入れられる力を持っていたら、どんな変化が訪れても一番になれる。その土台として学習する組織があるのだと、スクールを始めた経営者は語っていました。その考え方にも大きく頷かされましたね。

さらに、プログラムで伝えている内容が、現場に浸透し、実践されていることにも驚きました。これは日本に伝えなければと思い帰国。「学習する組織」論に基づくコンサルティングを始めました。

リーダーシップや企業変革の研修などを行うと、企業には喜んでもらえました。でも、アメリカで見たようにはいかなかったんですよね。企業内ユニバーシティを運営していた大手総合電機メーカーは、社内でプログラムの内容を徹底し、学習する組織の実装に成功していました。経営者がやり切らせていたんです。でも、日本では理論や手法を学んでも、それを組織に展開し、実装するリーダーがいませんでした。

黙って座って研修に参加しているけれど、誰も聞いていないんじゃないか。私は何も変わらない研修を提供しているんじゃないか。徐々に、人が学ぶことに可能性を感じられなくなっていきました。

しかしある日、小学生になった息子が、私が話していた心理学の理論を、まるで自分の知識のように話し始めたんです。あの子は外向的で論理的なタイプ、僕はこういうタイプの子と友達になりやすいんだね、なんて。それを聞いていて、自分のやっていることは役に立つんだ、という気持ちを失わずにすみました。

教育の世界に答えを求めて


コンサルティングをする中で、とりわけ課題に感じていることがありました。それは、社員に「あなたは何がしたいんですか」と聞くと、フリーズしてしまうことです。自分のやりたいことや価値基準がなければ、本当の意味で主体的に動くことはできません。この現状をどうしたらいいのか悩みました。

そんなとき、学習する組織に関連する国際的なカンファレンスに参加する機会があって。行ってみると、学習する組織の理論は、企業だけでなく気候変動など様々な文脈で社会問題の解決に活用されていました。この理論は企業だけではなく、他の分野でも活かせると感じたんです。

子どもも成長し、少しずつ自分の時間が持てるようになったころ。これから先のテーマを決めようと考え、「教育」を選ぶことにしました。自分のビジョンを考え、主体的に動ける自律した個人を育成する必要があると思ったのです。

培ってきたつながりのなかで、ある大学院大学で、教育の現場を見せていただけることになりました。2003年、国際的な学力検査で日本の学力の低下が問題視され、ゆとり教育に批判が集中していた時期です。

大学院大学で現場を見ていくと、先生方が大変忙しく、授業の準備に力を入れられない状態が何年も続いていると知りました。他にも様々な問題があり、企業であれば完全に債務超過、これでは教育を変えるのは難しいと落ち込みましたね。

そんな中で、アメリカでTeach For Americaという取り組みを知りました。教員免許の有無にかかわらず、国内の一流大学の学部卒業生を、教育困難地域の学校に常勤講師として赴任させるNPO法人です。これは日本でもやるべきだと思いました。日本で立ち上げようとしている人がいると聞き、一緒に設立を目指すことに。

最初は、子どもたちの学習を支援する場づくりから始めました。学習が遅れがちな子どもたちに学習プログラムを提供するのです。始める前、紹介されたケースワーカーには、「この子たち、15分座っていられればいい方ですから」と言われました。そうなのかな、とドキドキしながら、プログラムを開始したんです。

結果として、子どもたちは3時間にも渡り、真剣に勉強してくれました。子どもたちには、確かに勉強したい気持ちがあったんです。

その時、大きな罪悪感を覚えました。きっと、この子たちが勉強したい気持ちを出せないほど、大人がこの子たちの成長を諦めてしまっているんです。大人が学力をつけることを諦めるから、子どもたち自身も自分を諦めてしまう。子どもたちに本当に申し訳ないと思いました。

もしかして、昨日まではダメな人間だったかもしれません。でも、明日の自分を決めるのは本人。ほかの誰にも、人の可能性を決めつける権利はない。無責任に断定的な評価を下す権利はないんです。

それに、学習が遅れがちな子たちは、勉強する環境がないなど、何かしらマイナスを抱えています。努力したくてもできない子がいるということを知らず、本人のせいになってしまう現状がありました。もしかしたら本人すら気づいていないかもしれない、「勉強ができるようになりたい」という声を聞いて、真剣に向き合うことができたら、何時間も集中して学ぶことができるのに。

人がもともと持っている資質や才能、個性を信じていく。そんな空間を、社会を作らなければいけないと強く思いました。

自律した人材育成を


あるべき教育の姿を求めて、2011年、子どもが世界一幸せな国と言われるオランダに視察に行きました。オランダでは、独自の「ピースフルスクールプログラム」に基づいてシチズンシップ教育が行われていたのです。

小学校を視察に行って小学生たちを見た時、「人間としての成熟度で負けた」と衝撃を受けました。小学生なのに、ちゃんと自分の感情をマネジメントし、意見が異なる他者と和解することができるのです。

例えば喧嘩が起きた時には、先生は一切手を出さず、高学年の児童が仲介に入ります。当事者は、泣きながらでも冷静に、何があったか、自分がどう感じたかを話す。仲介者は当事者に話を聞きながら、両者が納得いく落としどころを探すための話し合いを支援していました。

視察に同行した息子もこれを見て、「これじゃ日本は負けるよね」と一言。その通りだなと思いましたね。子どもたちに教育をする前に、まず大人が変わらなければならない、と痛感しました。

帰国し、日本でもピースフルスクールプログラムの普及に尽力。それとともに、日本の教育のあり方を考えたり、企業とともに社会人の学ぶ力を育てる取り組みを行なっていきました。

その中で重視したのはリフレクションです。リフレクションとは内省力のこと。すでにある慣習的なやり方や規定に則るだけでなく、変化に応じて自ら考え、行動できる力です。世界に目を向けても、経済協力開発機構(OECD)は、近未来に子どもたちが身につけるべき基準や行動指針として「リフレクションが要」と発表していました。自分を省みて、自分のやりたいことを明確化したり、意見を他者に伝えたり、一方で自分の外の世界の意見を受け入れたりして学ぶことができる、まさにオランダの子どもたちが持つ力。

そんな力を持つ人材を増やすことで、一人ひとりの可能性を伸ばし、ともに変化を作っていける社会が実現できると考えたのです。

器いっぱい生きる


今は、慣例や枠にとらわれることなく自分のやりたいことや意見をもち、他者に伝えながら前進できる自律型人材・組織を当たり前にするために活動しています。

具体的には、株式会社LIFULLと共同で大人の「学ぶ力」を変えていく一般社団法人21世紀学び研究所を設立し、個人、企業両方に向けたプログラムを提供したり、昭和女子大学ダイバーシティ推進機構キャリアカレッジで、学院長として女性の活躍推進や働き方改革の支援を行なったりしています。様々な委員会の委員、企業の取締役を務め、政策への提案も行っていますね。

自律型人材の育成のため大事にしているのは、「リフレクション」、自分を客観的に捉える「メタ認知」、自分の意見を伝え、相手の意見を受け止め考えを広げる「対話」の3つです。これらを誰もが当たり前にできることを目指しています。まずはリーダーを増やしていき、その先の組織へも展開していきたいですね。

社会は、どんどん変化が大きくなります。これまでの組織は、指示命令に迅速に従うトップダウンの仕組みでよかったかもしれませんが、これからはそれでは変化に対応しきれません。トップダウンではなく、現場の自律性と創造性が、組織の未来を形作ります。多様性を活かす組織は、対立を前提として、それをどう乗り越えていくかが重要になるのです。すでに海外では、産官学民が協同する取り組みも生まれています。個々人が自律して対立を乗り越え、一緒に変化を作っていける社会にしたいですね。

その上で大事なのは、一人ひとりが自分の可能性を決めつけないことです。日本人は特に、海外と比べて無意識に、自分の可能性を決めつけてしまう。何かに必死にならない方が賢明だ、という風潮があるように思います。かつて海外で言われたように、一生懸命頑張ってダメだとしても、失うものはないはずなのに。決めつけてしまっては、潜在的な能力を伸ばす機会を失ってしまいます。

以前、ある方から「人には器がある」と教えていただきました。持って生まれた器は変えられなくても、器いっぱい生きるか、小さく生きるかは自分で決められると。総理大臣や大企業の社長のような肩書きがなくても、すごく輝いている人ってたくさんいますよね。そういう方は、器いっぱい生きているのだと思います。

どう生きるかは自分で決められる。だから、自分の可能性を信じていくべきだし、そういう社会であるべきだと思うのです。

私自身、まだまだ成長したいですね。自分の描くゴールを達成するためには、やるべきことがたくさんありますから。できないと決めつけないで、可能性を信じて、器いっぱい生きていきたいです。

2020.11.02

インタビュー・ライディング | 粟村千愛
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