世界一周、商社マン、カレー屋の失敗。
負け続けた僕の、メキシコでの新たな挑戦。

渋谷にあるバー「Encounter(エンカウンター)」の共同オーナーを務めながら、現在メキシコで行う事業の準備を進める西側さん。サッカーでの挫折から「自分は努力しても無駄な人間」と自信を失っていたところから、再び自信を取り戻すにはどんなきっかけがあったのか。また、「誰かと一緒に仕事はしたくない」という考えが変わるまでにはどんな背景があったのか。西側さんがこれまで挑戦してきたお話を伺いました。

西側 赳史

にしがわ たけし|バーのオーナー、メキシコへの日本コンテンツの輸出、日系企業のメキシコ進出支援
渋谷にある「Encounter」の共同オーナーを務めつつ、メキシコでコンテンツ事業を行う新会社の設立を準備中。

努力しても結果を出せない人間


大阪で生まれ、兵庫で育ちました。サッカーが好きで、中学2年生の時で日韓ワールドカップの試合を見に行った時、会場の熱気に圧倒され言葉にできない程心が揺さぶられました。選手は観客席とは比べもにならないほどの熱気を感じているんだろうと思い、それを体験してみたいと、本格的にプロ選手を目指すようになりました。

選手として目立っていたわけではなかったのですが、高校に入ってから急成長したプロ選手も多く、「まだ陽の目は当たっていないけど、いずれプロになるんだ」と考えていました。そこで、サッカーの強豪であり、大学付属校で受験を気にせずサッカーに打ち込める、関西学院高校に進学することにしました。強豪校だけあってサッカー部の人数は100人を超え、私と同じキーパーのポジションも同学年に5人、部内に11人もいる環境でした。

その中でも一番下手だった私は、部内の誰よりも必死に練習をすることで、同じ学年の5人の中でもトップになることができました。ところが、一つ下に日本代表候補にも選ばれるような後輩が入ってきたので、私はいつも二番手のキーパーでした。

3年生の9月、最後の大会前でもその立ち位置は変わりませんでしたが、最後に監督とも些細なことから揉めたことで、ベンチからも外され、最後の試合は観客席で応援することになってしまったんです。

同じように一生懸命努力してきたメンバーはみんなピッチかベンチにいるのに、自分だけ蚊帳の外。そして、県大会の決勝で、高円宮の杯で全国を制覇した滝川第二高校に敗れ、私のサッカー人生は終わりを告げました。

先輩も後輩もプロから声が掛かるような選手だけど、自分は違う。どんなに努力したって結果を出せない人間なんだと、大きな挫折感を感じました。

自分を変えるための世界一周への挑戦


大学では、サッカー部に入っても惨めさを感じてしまうし、かと言って変なプライドもあってサークルにも入らず、サッカーから離れることにしました。学校にもまじめに行かず、麻雀やパチンコに明け暮れる生活が始まりました。

半年も経つとサッカーに関わりたい気持ちが出てきて、社会人リーグでプレーすることにしました。しかし、高校の時程の熱量を感じることはできず、「一応本気でやっている」状態でしたが、怪我を機にチームを辞めることにしました。

ただ、心の中ではサッカーに関わりたいという気持ちは持ち続けていたので、元サッカー選手のセネガル人がバーを開くという求人を見つけて、応募してみることにしました。すると、バーの店員は20歳以上でなければと雇ってもらえなかったのですが、そのセネガル人が持つ少年サッカーチームでコーチとして働けることになりました。

そこでは、またサッカーに関われるのが、純粋に嬉しかったですね。しかし、子どもの半分くらいは外国人で、日本語だとコミュニケーションが難しい部分もありました。英語を学ぶために海外に行くことにしたんです。日本人がいない場所を探していくと、カリフォルニア州にあるヨセミテ公園のレストランでの求人を見つけ、行ってみることにしました。

英語なんて全く分からない状態でしたが、周りの人に可愛がってもらいすぐに打ち解け、英語も上達していきました。サッカーの遠征以外で海外に行ったのは初めてで、今までに出会ったことのないような人と関わるのが刺激的で、もっと海外に行きたと思うようになり、3ヶ月で帰国した時には世界中の友達に会いに行くため、世界一周することを決めていました。

1年程お金を貯め、大学を休学して世界一周の旅に出ました。

旅を決断した背景には、友達と会う以外にも、「挑戦したい」という気持ちがありました。昔は「何万人もの前でサッカーをプレーすること」が夢だったのに、少し英語が喋れるくらいで満足していたら、器が小さすぎると。世界一周に行くなんて、不安も恐怖も大きかったけど、ここで行かなきゃサッカーで感じた惨めさを引きずる自分を変えられない、そう思っていたんです。

挑戦は「旅をすること」ではなく、旅の中にあった


ところが、すぐに多くの日本人が世界中を旅していることが分かりました。ある種旅人の「お決まりコース」みないなものもあり、世界一周は特別なことだと思っていたのに、「誰でもできることなんだ」と思ってしまったんです。

旅を始めて1ヶ月もすると、特別でないなら帰ろうかとも思い始めていて、ただここで逃げるわけにも行かないと悩んでいた時、パラダイムシフトが起きました。

「自分にしかできない旅をしよう」と頭に浮かんだんです。世界一周自体が挑戦なのではなく、旅をする中で色々なことに挑戦していけばいいんだって。

それからは行く先々で自分にしかできないことを探し、挑戦していきました。5500メートル級の山に登ったり、モロッコのマラケシュでは輪投げ屋を始めてみたり、コロンビアでお金が尽きた時は寿司を売ったり、その他にもダンスをしたり靴を売ったりと、普通の旅人がしないような様々なことをしていきました。

色々な挑戦をする中で、もちろん毎回恐怖はありました。輪投げ屋をやった時には何度も警察に注意もされ、逮捕されるかもしれないと不安もあったけど、挑戦してみたらそれで稼ぐこともできたし、現地の人に雇ってくれと言われる程の成功を成し遂げることができたんです。

1年間の旅を終える時には、様々なゼロイチで何かをすることを経験していたので、「自分は何も成し遂げられない人間じゃない」と自信を持てるようになっていました。サッカーで失っていた自信を、旅で取り戻すことができたんです。

また、旅から帰ってくる時に「なんでこんなに挑戦できたんだろうか?」と考えていくと、それは「帰って来れる場所と仲間がいる」ことが自分の中で大きかったことに気づきました。どんなにボロボロになっても帰れる家がある。無茶をした経験を笑って話せる仲間がいる。

多くの人にも同様の「帰ってこれる場所」を持てるように、世界中に居場所を作りたいと考えるようになりました。

友達のため、カレー屋で一発儲けたい


世界を回った中でも好きだと感じた中南米と関わる仕事をしたいと考えていました。祖父が経営者だった影響もあり将来は独立しようと思っていましたが、いきなり独立しても中南米とのビジネスは難しいと感じていたので、まずは世界で仕事ができる総合商社に絞って就職活動をすることにしました。

自分の経験が、他の人から見てどう映るのか試してみたかった気持ちもありました。商社OBの話を聞く中で一番成長できそうだと感じた、双日に入社し、半年程すると中南米を担当させてもらうようになりました。

想像以上に成長機会を与えてもらい、ダイナミックな仕事にやりがいを感じていました。ただ、社員全員が一つの目標に向かっているとは感じられず、違和感もありました。やる気に満ち溢れ、結果を出す人たちがいる一方で、あまりやる気を感じられない人もいました。その状況に納得できなかったし、ある種の寂しさを持ちながら仕事を続けていました。

1年目の終わり頃から、中学時代の友人と同居するようになりました。その友達は家庭環境が複雑で、両親はいなく、祖父母の介護をするため大学も中退して働いていたのですが、ある時家を追い出されてしまったと連絡があったんです。

精神的にかなり参っている状態でしたが、父親に背負わされた借金もあり、派遣の仕事なんかもするようになっていました。しかし、数百万円の借金を返済するには時間がかかりすぎるので、期間限定で彼が得意だったカレーの移動販売でお金を儲けることにしました。

ただ、味も世界一ではないし、僕自身に発信力がなかったので、このままスタートさせても上手くいかないだろうと考え、SNSをつかって、様々な有名な人に連絡をしてみることにしました。すると、有名な連続起業家の方など数人が面白いと連絡を返してくたんです。次第に多くの人を巻き込んでいき、友人を会社の代表としてカレー屋を開く方向で話が進み、私は商社の仕事をしながら夜はカレー屋の準備の打ち合わせと、忙しい日々を送るようになりました。

一人でやるのか、仲間とやるのか


オープンの1週間前に、その友達が蒸発してしまいました。最悪の事態も考えましたが、数日後に何とか連絡がつき安全だということは分かりました。お店のオープンは遅れて色々な人に迷惑をかけつつも、彼が戻ってこれるように、もう少しだけ待ってくれるように頭を下げて回っていました。

ところが、1ヶ月ほど経った時、「警察に捕まったから、話はなしにしてくれ」と連絡が来たんです。悔しかったですね。結局、自分は友達1人すら救えないのかと、無力さを感じてしまったんです。

カレー屋の話は白紙に戻り、それからは巻き込んでしまった人達に謝罪に行き、罵声を浴びせられる日々を過ごしました。ただ、カレー屋のオーナーは非常に優しい人で、謝りに行くと逆に、「夜は空いているから、バーでもやってみない?」と誘ってくれました。

元々は友達のためのカレー屋準備でしたが、私自身にも様々な学びがあって社会の中でゼロから一を作れる可能性も感じたし、このまま失敗で終わりたくない気持ちがありました。だけど、人と一緒にやるのはうんざりだと思っていました。誰かのせいで刺されるのは嫌だし、人を巻き込まないで自分だけでやりたいと。とは言え、1人で運営するのも無理があり、1ヶ月程どうしたらいいか考えていました。

そして出した結論は、もう1回だけ誰かと一緒にやってみようということでした。今誰かと働く経験をしておかないと、今後一生1人で生き続けることになると思ったんです。

料理ができて頭のキレる商社マンの友人を誘い、さらにバーで知り合った人が「俺もやりたい」と言ってきたんです。正直、彼とは初対面ということで、大丈夫かと不安でしたが、2回目に話した時に「後ろ髪を引く奴とはできない」と言うと、「俺は大丈夫だよ」と言ってくれ、3人で一緒にやることを決めたんです。その後、彼とは信頼できる「なくてはならない仲間」になることができ、私は本当にラッキーでした。

メキシコでの新しい挑戦


会社勤めと並行で始めたのが「Encounter(エンカウンター)」というバーです。最初は週末の夜だけカレー屋を使わせてもらい、2014年8月に渋谷の道玄坂に自分達のお店を出しました。

お店が完成した日は嬉しくて涙が止まりませんでした。自分一人では絶対できなかったものが、オーナーの2人やスタッフのみんな、内装工事を手伝ってくれたメンバー、みんなで一つの目標に向かったから達成できたことでした。完璧なチームではないけど、お互い補いあって1人では到底できなかったものができることを実感し、人と一緒にやりたくないという気持ちを払拭することができたんです。

一方で、会社の仕事で自分は嬉し泣きするほどの一体感や達成感を感じられるか考えると、そうではないと思うところもあり、独立する決心ができました。そして、2015年1月に会社を退職して、昔から温めてきた中南米での事業をするための準備を始めることにしました。

今はEncounterの共同オーナーとして働きながら、新しく立ち上げる会社の準備を進めています。「Encounter」という名前には、「出会い」の意味を込めています。みんなが「帰ってくる場所」であり、新しい出会いが生まれて「出発する場所」でもある、そんな空間にしていきたいです。

また、4月にはメキシコに渡る予定です。日本のアニメを現地で放映し、そこから派生した版権ビジネスを行う予定で、現地のテレビ局などに仕込みに行くんです。また、日系企業のメキシコ進出支援も行います。メキシコの経済は急速に成長しているので、チャンスに富んだ市場にも関わらず、日系企業の進出は限られている。この現状に風穴をあけてみせます。

メキシコでの日本の認知度を高めていき、ゆくゆくは訪日観光客の数を増やしていきたいと思います。

私はサッカーでもカレー屋でも、大きな失敗を経験してきました。でも、だからこそ自分で世界一周に出て自信を持つこともできたし、Encounterで仲間と一緒にやる素晴らしさを感じることもできました。

将来やりたいことは、昔来ていた服を今はカッコいいと思わないように、徐々に変化していくものだと考えていますが、私がサッカーや旅やEncounterを通じて得た軸は変わらないと思います。

いつでも帰ってこれる居場所を作ること。中南米と日本の架け橋となる。みんなで一つの目標に向かって行くこと。

これからもこの根幹をぶらさずに、新しいことに挑戦し続けていけたらと思います。

2015.03.13

西側 赳史

にしがわ たけし|バーのオーナー、メキシコへの日本コンテンツの輸出、日系企業のメキシコ進出支援
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