オンラインワークを、社会の当たり前に。「目の前の可能性に飛び込む」という生き方。

オンライン秘書アシスタントサービスを運営する中川さん。家業の医者を継ぐために小学生から猛勉強を重ねながら、中学以降は一転して自ら選択した自由な道へ。目の前の可能性や機会を選択し続けた中川さんが、28歳にして新たな挑戦を決めた背景とは?お話を伺いました。

中川 祥太

なかがわ しょうた|オンライン秘書アシスタントサービス運営
オンライン秘書アシスタントサービス「caster biz」を運営する、株式会社キャスターの代表取締役を務める。

親の決めた道と自分の歩む道


私は大阪府泉大津市に生まれ、病院を経営する家庭の長男として育ちました。小学生の頃から親の意向で勉強を力を入れており、将来は病院を継いで医者になってほしいという思いもあったのか、中学からは全国トップレベルの進学校を目指すように言われていました。

そのため、小学生ながら相当なハードスケジュールで、学校以外に家庭教師をつけて進学塾にも通って、毎日夜遅くまで勉強をするような生活でした。ただ、学校の授業は塾で随分前に習った内容を扱っているので、授業中はずっと本を読んでいましたね。元々文章に触れることが好きだったこともあり、小学生向けの本からおじいちゃんの家から持って来た本まで、とにかくたくさんの種類を読み漁っていました。

ところが、そんな生活を続けると、小学6年生頃から段々と勉強に打ち込むことに違和感を感じるようになったんです。自我が目覚めて来たのかもしれません。ある時、塾で勉強をしている時に自分が理解している分野について他の子に教えたことがあったのですが、その時に塾の先生から「お前に教わるために塾に来ているのではない」とひどく怒られ、親からもその件で怒られてしまいました。その時に、ふと、「いくら勉強をしても、周りの大人は喜ばないんだな」と感じてしまったんです。

それ以来、どこか勉強に対する姿勢が冷めてしまい、成績も急激に下がっていき、結局奈良県にある西大和学園という中高一貫校に進学を決めました。そして、中学からは態度を一変し、全く勉強をしないことに決めたんです。最初のテストから最下位を取り、以降もずっと最下位グループで居続けました。学校の授業中は寝るか本を読むかして過ごし、夕方からは他の学校の友達と適当に繁華街で遊び、バンドを組んでベースを始め、と自由を謳歌していました。親は驚いていたものの、自由に過ごすことに後ろめたさは感じず、楽しい日々でした。

そんな生活を過ごしていたため、高校3年になり卒業が近づいても、将来のことは全く考えていませんでした。強いて言うならば、付き合っていた彼女が東京の大学で獣医を目指すと話していたので、自分も東京に行きたいなということ、このまま音楽は続けていきたいというくらいでした。そして、両親に東京に行きたい旨を伝え、音楽の専門について話をしてみると、大学でなければ学費は払わないと言われてしまい、仕方なく東京の大学を受験することに決めました。それまでほとんど勉強をしていませんでしたが、半年だけ集中して勉強に力を入れて、センター試験を利用して日本大学経済学部に進学することに決めました。

さすがに親からも、中学頃から医者を継げと言われることはなくなり、本が好きなことからも、「この子は理系じゃないんだろう」と思われていましたね。私自身、親の仕事を見ていて、医者にはもっと責任感ある人がなるべきだから、自分は向いていないという思いがありました。

テレアポバイトの衝撃と初めての開業


しかし、大学自体に関心を持たずに進学したこともあり、入学後も大学に行く理由が見いだせず、1年目で取れたのは12単位だけという状況でした。その分バンドを組んで活動したり、プロのミュージシャンの方の付き人をしたり、スタジオミュージシャンとして仕事をしたりするようになっていきました。

また、バンド活動にかかるお金を稼ぐためにアルバイトを始めるようにもなりました。元々、一度仕事をしてみたいという興味が強く、特に自分が関心を持っているファッション関係の企業でアルバイトをしてみることにしたんです。実際に働いてみると、「品質ってこうやって差が出るんだ」とか「原価ってこういうことなんだ」等、裏側の仕組みを知ることによる気づきが多く、新鮮な経験でしたね。

そんな背景で様々なバイトをしていると、ある時、非常に時給の高いアルバイトを見つけたんです。それはライブドアマーケティング社のテレアポのバイトで、「Yahoo! BB」を個人宅に営業する仕事でした。条件が良いのでやってみようと思い飛び込んでみると、とにかく衝撃的な職場でした。派手な髪色のギャルや制服姿の高校生、仕事終わりのサラリーマンのおじさんが並んで席に座ってひたすら電話をかけ続け、時給3,000円を越えるような成果を出しているんです。年齢も性別も関係のない人が集まる中で、成果が出る仕組み、競争をさせる仕組みが築かれていることに「これはすごいな!」と驚きました。

自分自身、最初はうまくいかない時期もありましたが、楽器演奏と同じで努力を積み上げていくと成果に繋がっていき、最終的には「もしもしの『も』」を聴いただけで受注できるか分かるような覚醒状態に至ることもありました。そして、そんな特殊な環境に身を置くことで、段々とビジネスに関心を抱くようになっていきました。

ところが、ちょうどそんな時にライブドアショックが起こり、会社の状況が一変、仕事が無くなってしまったんです。ものすごく活気があった環境が急にトーンダウンしていき、最終的には会社を離れることになりました。ただ、成果を出していたこともあり、経済的には貯金が出来るような状況まで回復していましたね。

すると、ちょうどバイトを辞めて少ししたタイミングで、下北沢で古着屋を運営していた知人が店を辞めるため、居抜きで使ってみないか?という誘いを受けたんです。元々以前に古着屋のアルバイトをしていたことに加え、ファッションの分野には関心もあったので、テレアポで得た元手の資金で店を開業することにしました。

自分の店を立ち上げるのは始めての経験でしたが、ゼロからイチを生み出すのはとにかく楽しかったですね。自分でレイアウトを決めて商品を仕入れて、夜中12時を回っても壁を塗ってドリルで工事をしてと、充実した日々でした。

IT業界で切った再スタート


ところが、古着という商品特性上、仕入れが安定せず、利益率もかなり低い状況が続きました。それでも、業者やフリーマッケットを回ったり海外に足を運んだりとなんとか試行錯誤を続けました。

しかし、最終的にはそれでも数が足りず、八方ふさがりになってしまい、1年半で店を閉めることに決めました。「手詰まりだからしょうがないな」という感覚でしたね。撤退の決断をすることは大事だと常々考えていたこともあり、迷いはありませんでした。

学校には通っていませんでしたが、学年的には大学3年生の終わり、21歳のタイミングで、改めて何をしようか考える期間となりました。大学への復学も考えたのですが、足を運んでみると、ビジネスの「ビ」の字にも触れず、2年前と何も変わっていない周りとは会話が通じず、「ここに戻るのは意味が無いな」と感じてしまいました。また、ずっと続けていた音楽に関しても、バンドのメンバーが抜けたり、自分が音楽を通じてやりたいことが定まらなくなったりしたことから、一度活動を休むことに決めました。

そんな風に色々と自分の中で整理をした上で、残ったのは「インターネットに関わる仕事で働きたい」ということでした。というのも、古着屋の横にあった雑貨屋さんがインターネット通販で商品を販売しており、話を聞いてみると、1本50万円のアクセサリーがネット経由で売れると言うんです。こちらが店頭に立って必死に3,000円のTシャツを売っているのに、「なんだこの差は!」と衝撃を受けました。これは自分もインターネットでビジネスをしなければと感じたんです。

そこで、転職エージェントの方を通じて、インターネットの広告代理店業務を行うソウルドアウト株式会社への就職が決まりました。正直、素晴らしいエージェントの方が履歴書を綺麗にしてくれて面接も手伝ってくれていたため、名刺交換やメールのCCすらわからない状況で入社でき、上司からは「お前みたいなやつは初めてだ」と言われましたね。(笑)

それでも、理解ある上司の元、仕事に少しずつ慣れていくと、半年程でなんとか営業マンとして現場に出られるようになっていきました。正社員として企業で働くのは初めての経験でしたが、仕事は面白いものの、思った以上に厳しい環境でしたね。自営業はぬるすぎたなと思うほど複雑な労働を長時間行っており、「サラリーマンはすごいな」と感心しました。

しかし、結婚して子どもが生まれたこともあり、育児について実家にも頼りたいという思いがあったため、1年強ほど働いた後、関西での転職活動を経て、インターネットの監視業務アウトソーシングサービスを運営するイー・ガーディアン株式会社に転職を決めました。できるだけ家庭の時間を多く作りたいという思いがあったので、非常にホワイトな働きやすい社風が決め手でした。

クラウドソーシングに感じた可能性と課題、28歳で起業へ


新しい環境では、大阪営業所の立ち上げや、西日本の新規営業を行い、育児が落ち着いてからは同社の東京の拠点で営業を行うようになりました。すると、企業運営上の業務やビジネスプロセスを専門企業に外部委託する「ビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)」という業界への限界も感じるようになっていきました。

というのも東京で人件費が高騰するため、地方に業務運用のセンターを設け、人員を採用して仕事を振るのですが、各エリアでの人員募集に限界がある上、さらに契約社員が来るので離脱も多かったんです。「いつ業界に地盤沈下が起きるかわからない」という危機感がありました。

同時に、その課題に対し、オンライン上で仕事を受発注する「クラウドソーシング」は一つの解答になるのではないか、と非常に可能性を感じていました。ただ、一方で、業務を通じて発注側としてクラウドソーシングを利用する中で、ワーカーに対してのセーフティーゾーンが無いことに、歪みも感じていました。最低賃金が無いためダンピングが起こり続け、給与に課金するビジネスモデルのため、継続的に仕事を続ける動機が形成しにくい状況だったんです。実際に、非常に優秀な方ながら、自社では低い金額しか発注できず、仕事の後に「何か他にいい仕事があればいいですね…」としか言えない状況にもどかしさも感じていました。

そんな背景もあり、クラウドソーシングの有識者の方と仕事を進めていく中で、一般的な労働条件でワーカーができるだけ働けるような環境を作り、給料をもらうことに課金せず、オンラインワークを継続的に仕事にできるような仕組みをつくりたいと考えるようになっていきました。すると、ちょうど同じような事業への投資を考えていたベンチャーキャピタルの方と出会う機会があり、起業前提で出資をいただけることになったんです。

私自身、起業単体にまったくこだわりは無かったのですが、大きな可能性を感じているクラウドソーシングの課題を解決することに、自分が何か担える役割があるのであれば、挑戦してみたいという思いでした。シンプルに、目の前の可能性に飛び込むような感覚で決めた、28歳の決断でした。

オンラインワークを社会のあたりまえに


そんな背景から、2014年10月に株式会社キャスターを立ち上げ、海外のサービス等も分析した結果、同年12月に「caster biz」というオンライン秘書アシスタントサービスをリリースしました。

具体的には、地方や海外在住の女性にオンライン上でバックオフィス業務を依頼することができるサービスで、初めて半年ほどで数十社の企業に導入していただいています。特に、アシスタントの女性の支持は予想以上で、月500人を越える募集をいただいています。20代後半から30代前半のIターンで地方に住んでいる方や、40代の子育てが一段落した層の方を中心に申し込みただいており、webのリテラシーや、委託されることが多い経理や人事・カスタマーサポート・秘書業務の経験者の方を中心に採用しています。

そもそも、地方にはキチンと定時で働けて、最低賃金を満たしているような、女性にとってよい条件の仕事が少ないように思います。だからこそ、このオンライン秘書アシスタントサービスだけで生活をしていけるような水準で給与が支払えるような仕組みにしています。

また、発注側のクライアントに関しては、上場企業から個人事業主まで幅広くご利用いただいており、ある事業部で利用してみて、他の事業部に横展開していただくケースもあります。バックオフィスをまかなう人材のサービスとして、想定よりも大きい企業にも利用していただけているような印象です。

実際にサービスを始めてみて、思った以上に「こういうものを求めていた」と言っていただけるケースが多いことを嬉しく感じています。正直、最初は不安な面もありましたが、「みんなそう思っていたんだ」と感じられたのは大きいですね。だからこそ、今後はいかにオンラインワークを当たり前にしていくかに力を注いでいきたいです。うちの会社が儲かるとか拡大するとかの話ではなく、ワーカーがこの仕事で食べていける状態・クライアントがこの仕組み前提でビジネスを行う社会をいち早く作っていきたいですね。

個人的に働き方にこだわりは無いものの、今回の挑戦は周りの方の協力や支持を得ながら進めることが出来、非常に恵まれているなと感じます。古着屋の時は家族も周りも反対しかなかったですからね。(笑)まずこの事業に注力することはもちろんですが、将来はできるだけゼロからイチを生み出す仕事に携わっていたいです。

2015.07.23

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