「働くこと」=「幸せに生きること」。
もう二度と、不幸な働き方を生まないために。
働くを幸せにするために、パラレルワーカーとしてさまざまな取り組みを行う佐藤さん。東京電力で原発事故後の損害賠償を担当し、多くの苦しむ人々を見た経験から、働くことの意義を強く問い直しました。佐藤さんの原体験、信念とは。お話を伺いました。
佐藤 彰
さとう あきら|Gift&Share合同会社代表
高校卒業後、東京電力に入社。東北大震災以降の原子力損害賠償を担当。その後、経営企画・労務人事戦略担当として、全社の働き方改革等を推進。グロービス経営大学院で学ぶ。現在は、ミテモ株式会社にてSDGsワークショップの開催や組織開発・事業開発等のコンサルティングを手がけるほか、個人でGift&Share合同会社を設立し個人と組織の可能性の解放に取り組む。
自立して生きていこう
新潟県出雲崎町に生まれました。4人兄弟の末っ子です。母は癇癪持ちのところがあって、よく怒られていました。外で怒らせてしまうと、崖から落とされたり車に乗せてもらえず置いてけぼりにされたりしました。
その度に理不尽さを感じていたので、小学1年生になったとき家出を試みたんです。しかし、すぐに見つかって連れ戻され、やっぱり怒られて。その時、「こんな思いをするのは依存しているからだ」と思いました。自分に力がなくて頼らざるをえないから、こんな思いをしなくちゃならない。だったら早く自立して、自分の力で生きていきたい、と。そこから依存に対する拒否感が生まれ、自分の力で生きることが大事だと考えるようになりました。
学校の友達とは仲良くやっていましたが、ここでも依存したくなくて特定のグループには入りませんでしたね。一度入ってしまったら抜けるに抜けられない感じが、かっこ悪いと感じていました。タイプの違う友達数人で遊びに行っていました。
遊び方も独特でした。すでに面白いとわかっていることをするのが嫌いなんです。すでに誰かが体験して良い、面白いと言っているものは、面白くて当たり前じゃないですか。そうじゃなくて、自分でいろいろ試してみて、何もないところから面白いものをつくり出すのが好きでした。
国道を走るトラックの荷台に石を投げ続けて命中するか競う遊びをして、トラックの窓ガラスに当ててしまって怒られたり。自転車で急な坂道を下るときどれくらいスピードを出せるのか試して、ブレーキが壊れて止まらなくなり、道路外の田んぼにダイブしたり。面白そうなことを思いついたらやってみないと気が済まなくて、やってからよく怒られましたね。でも、どれも失敗だとは思いませんでした。
例えば自転車だったら、どのくらいのスピードを出したら壊れるか、恐怖を感じるかや、田んぼに落ちるとどうなるかということがわかるんです。「失敗」って「敗け」を「失くす」と書くじゃないですか。はたから見ると大失敗ですし自分でも凹みますが、体験することは全部、自分の学びになりました。
死を身近に感じた父の急逝
地元の中学に進学し3年生になった頃、父が体調が悪いと会社を休みました。話もできるしご飯も食べるのですが、数日だっても具合がよくならなくて。ある日の夜、本当に体調が悪そうなので「早めに寝たら」と話して、自分も眠りにつきました。
深夜の2時ごろ、急に周囲がガヤガヤして、目覚めると母や兄弟が慌てていました。家に救急車が来て、父が運ばれていったんです。そのまま4時ごろ、急逝しました。脳卒中でした。本当にあっという間の出来事で。人って、こんなに簡単に死ぬんだと思い、死を身近に感じたんです。ただ、親に依存しないようにしていたので、父の死も自然の中で受け入れていきました。
高校は、このまま学ぶための勉強をしても意味がないと感じたので、実践したいと商業高校を志望。合格し、学校に通いながらバイトを始めました。学費や学校給食費、定期代など、住居費以外のお金は、全て自分のバイト代でまかなっていましたね。自分のことが自分でできることが、すごく嬉しかったです。
就職先は、特に希望はありませんでした。遊び方と一緒で、すでに意味を感じられる場所に行くのではなく、入ってみてから自分で意味を見出す方が面白いと思っていました。学校に来ている求人票の中から、一番人気のあって条件のよかった東京電力の事務職に応募、無事就職することができました。
楽しめるかは自分次第
最初の配属は群馬県、顧客対応が主な仕事でした。指導係の先輩は言われた仕事だけするタイプでしたが、僕はそれだけでは能がないと、それ以外にもいろいろとやりたいことを発言していました。生意気でしたね。
実は入社前年、会社の不祥事が発覚しており、会社全体の信頼が失墜。周囲からは白い目を向けられており、他人に社名の書かれた名刺を出すのが怖いような状態でした。だからなのか、社員のモチベーションは低かったです。周囲からのクレームもあるし、社内のシステムの形態も旧式だし、愚痴ろうと思えばいくらでもネタはありました。
でも、どうせ働くなら楽しい方がいいと思ったんですよね。7時間働くんだったら、楽しんだ方が断然お得じゃないですか。他人のことをとやかく言う前に、まず目の前の顧客に貢献できるようになろうと考えました。環境も先輩もシステムも変えられないけれど、目の前のお客様に対しては自分が全責任を負っている。だからその人に世界一の対応ができるようになることを目標にしていました。
その後、地元・新潟県の総務へ異動になりました。部署は総務でしたが、実際の仕事は数百万円規模の工事の設計。いきなり任されてやり方がわからないまま、なんとか周囲に教えてもらって考えていきました。なんとか資料を作り上司に説明すると、「お前はどう考えているんだ」と突き返されました。先輩がどう言っているかなんて関係ない、誰かじゃなくてお前はどう思っているんだ、と。正論すぎて反論できませんでした。本質を問われ続けるので、逃げ場のない苦しさはありました。でも、そのおかげで自分で考える癖がつきましたね。
そんな時、中越沖地震が発生しました。世界で初めて、直下型地震が原子力発電所を襲ったんです。前例のない、何もかもが初めての状態でした。でも、普段から自分で考え決定する癖がついていたので、初めてだらけのことにも自分で意義づけし、対応することができました。総務として、復旧対応に奔走しました。
その後、半年間本社の法務室へ異動。周囲は有名大卒のエリートばかり。高卒なんて僕一人です。わからなすぎて失意のどん底に突き落とされました。自分がミジンコみたいに思えてきて、本当にこの場にいていいのか苦しみました。
でも、なんとか1カ月もがいてみると、少しずつ新しい世界が広がってくるんです。その世界が自分自身とつながった瞬間、弾ける感覚がありました。すると、仕事が楽しくなって。5カ月目には、過去最多に近い法律相談の件数を受けるようになっていました。
どんな仕事も最初は苦しむけれど、知識がついて、見える世界が広がれば、楽しみ方が見つかります。環境じゃなくて、自分がどう楽しむかをいつも大事にしていました。
人を不幸にするために働いてきたのか
その後、新潟に総務として戻り、学んだ法務を生かして仕事をしていました。そんな最中、東北大震災が発生したんです。
昼夜問わず、福島第一原発事故の対応に動き続けました。避難した方の受け入れ先を確保しながら、新潟県の原子力損害賠償の拠点を立ち上げ。県内で法務知識があるのが自分一人だったため、そのまま法務担当を任せられました。避難してきた方々の質疑応答をする立場です。26歳、損害賠償の担当としては最年少でした。
最初の避難所に向かい、駐車場についたときは、恐怖で立てなくなりました。あの体育館の中で、どんな人たちがどんな思いで我々をみるだろう。それを考えると、喉がカラカラに乾き、ドアを開ける手が震えました。
中にいたのは、300人ほどの避難した人たち。その目を見て、「本当の憎しみ、本気の殺意ってこういうことなんだ」と知りました。大勢の避難者と報道陣の前で、土下座して謝罪し、厳しい質疑応答に答えました。
自分のその状況よりも、目の前の現実があまりにも過酷で。本当にこの人たちの人生を壊してしまったんだと感じました。多くの避難所を回り、県内で風評被害を受けて倒産の瀬戸際に追い込まれた企業にも対応しました。
目の前のこの人たちを不幸にするために、自分は必死に8年間働いてきたのか。そう思いました。
事故の責任を、自分が一身に背負うことに理不尽さは感じました。でも、それと目の前の人たちの苦しみは関係ないんです。目の前の人たちの人生が壊されてしまった現実をみると、そんなこと言っていられないと思ったんです。自分を人殺しだ、犯罪者だと定義しないと、この人たちの苦しさ、悲しさには向き合えない。自分たちのしたことを償うためには、本当の誠意を持って向き合って行かなければならないんだと。
誠意とは何かを、ずっと考えていました。真剣に向き合う中で、罪の意識だけでは自分が潰れてしまいます。でも、自分が鬱になろうとも、目の前の苦しんでいる人の人生は良い方向にはいかない。だから、潰れるわけにはいかないと思いました。
26歳でこんな経験をしているのは、世界でおそらく自分だけです。だとしたら、これは神様が人生の糧にしろと与えてくれたチャンスかもしれない。これには絶対に意味がある、自分にできることがあるはずだと考えるようにしました。
会社をやめるという選択肢もありました。でも、理屈じゃないんですよね。目の前の人をなんとかしたいという気持ちは。それだけを考えて3年間、昼夜を問わず働きました。
働くを幸せにしたい
その後、人事の部署に異動になりました。そこで改めて周りを見ると、大好きな社員も苦しんでいたんです。自分が頑張って働いてきた中で、人の人生を壊して、そのことに一緒に頑張った社員も苦しんでいる。これでいいのか。働くって苦しいことなのか。
「いや、違う」と強く思いました。働くってのは人を幸せにするためにあるし、働いている人たちも幸せであるべきだ。自分のような思いをする人を作りたくない。働くを幸せにしたい。自分の根底となるような強い想いが生まれ、働き方に関心を持つようになりました。取り組みをしていった結果、本社への異動で労務人事戦略担当になり、全社員3万2000人の働き方改革に携わることになったんです。
しかし、いくら想いがあっても、現場を変えることはなかなかできません。自分の力が足りないから、辛い思いをする人が増えていく。もうこんな思いをさせたくない。絶対に働くを幸せにするんだ、3万2000人を幸せにするんだ。なんとかして働き方改革を進めたいと、模索を続けました。
働き方は生き方だ
さまざまな方法を探す中で、ある働き方改革の取り組みの成果説明会に参加しました。その中で、登壇者が発した言葉に衝撃を受けたんです。
「働き方改革は生き方改革だ。自分が何を成し遂げたいのか、もっと言えば、どんな死に方をしたいのかを自分で決めることだ」。
それを聞いて「働くって会社の中だけのものじゃなく、人生そのものだったんだ」と一気に視野が広がりました。それはまさに、自分がやりたいことだと感じたんです。
その登壇者の働き方を考えるコミュニティに参加し、継続的にいろいろな企業の方と交流することになりました。どんどん世界が広がる感覚があり、思考が磨かれていきました。そのコミュニティの中で参加者が変わっていく様子をみて、これを社内にも取り入れたいと思うようになりました。
ただ、社内コミュニティづくりは、怖くてすぐに踏み出すことができません。内容に確信はあっても、人は集まるだろうか、自分に良い場が作れるだろうかと不安でした。そんなとき、面倒を見ていた後輩が、「私はたくさんのものをもらいました。佐藤さんの話を求めている人はいます、これを私だけがもらうのは違うんですよ」と背中を押してくれたんです。それで決心がついて、社内コミュニティを立ち上げることに決めました。同期やその後輩が積極的に動いてくれ、20人ほどの参加者を集めることができたんです。
最初は、働き方を定義するテーマから始めました。参加者に悩みや会社への想いを語ってもらえる場をつくったんです。一人ひとり悩みがありながらも、この会社を好きになりたいという想いを持っていました。それを聞けたことに、心打たれ、すごく勇気をもらいました。この場を作ったのは間違いじゃなかったんだなと思えたんです。
そこから、社内有志団体を拡大。さらに、つながった他の企業の人と一緒に、数十社合同で、社外コミュニティも立ち上げていきました。
依存せず、自分に正直に生きる
コミュニティを作りながら、グロービス経営大学院にも通学。さらに世界が広がると、会社の看板を背負わない自分はどこまでできるのか、自分を試したい気持ちが出てきました。働き方改革の業務はひと段落し、社内での仕事は今の自分の範囲内でできるものになっていたんです。
もちろん、仕事にやりがいはありますし、成果も出せて、期待されているのも感じていました。でも考えるほどに、会社に依存していないか、と自分に問うようになったんです。
今は収入も肩書きも保証されているけれど、それらを保証してもらっている代わりに、自分の選択にも制約ができます。依存しないということは、制約がないから自分に正直に生きることなのだと気がつきました。自分の本心に従って生きられる状態、それが自分の目指す働き方、すなわち幸せな生き方なのではないかと思ったんです。自分がまずそれを実践することで幸せな働き方を増やしていきたいと考え、転職を決意しました。
社内の今まで関わった方に転職を報告したときに、引き留めてくる人はいませんでした。正直寂しかったですが、多くの人が「お前が決めたってことは、信念があるんだよな」と言ってくれて。嬉しかったです。自分は16年間ブレずに行動できていたんだ、と感じることができました。
働くこと=幸せに生きること
現在は、パラレルワーカーとして働いています。まず、教育、地方創生事業を行うミテモ株式会社で、ワークショップやソーシャルデザインをメインに活動しています。社員それぞれが教育やクリエイターなど各分野のプロで、個性を掛け合わせることでさまざまな事業をしている会社で、私は人事領域やSDGsなどに携わることが多いですね。
また、個人では合同会社Gift&Shareを立ち上げ、コーチングやコミュニティの運営、イベント登壇、コンサルティングなどを行なっています。
どちらの活動でも、目指しているのは働くを幸せにすることです。「ワークライフバランス」とよく言われますが、ワークとライフは切り離されたものではないと考えています。「幸せに生きる」ことが「働く」こと。そう言える社会をつくりたいです。
そのために大事だと考えるのは、社名にもした「ギフト&シェア」。よく、大切なのは「ギブ・ギブ・ギブ」と言いますが、直訳すると「ギブ」は「与える」という意味なので、自分にはあまりしっくりこなくて。誰かが誰かに与えるんじゃなく、その人の存在や強みそのものがギフト。そんなその人の存在や強みが贈り物のように周囲に共有される社会にしていきたいです。
自分に正直に、自分を活かして生きていくことが、社会にとって価値を生み出す「働く」ことになる。そんな社会を目指しています。手段にこだわりはありません。人の想いと働くこととを触媒すべく、先陣を切ってなんでもやっていきたいですね。
そして、子どもに働くってこういうことだ、と伝えたいです。仕事が終わったときに「はぁ、今日も疲れたな…」ではなくて、「いやー、今日もやりたいことたくさんできたな!」って。子どもに自分の背中を見せるのは、親としての責任だとも思っていて。自分自身の実践を通して、働くことは苦行じゃなくて、楽しいんだよ、幸せなことなんだよ、と伝えたいと思っています。
2020.07.27
佐藤 彰
さとう あきら|Gift&Share合同会社代表
高校卒業後、東京電力に入社。東北大震災以降の原子力損害賠償を担当。その後、経営企画・労務人事戦略担当として、全社の働き方改革等を推進。グロービス経営大学院で学ぶ。現在は、ミテモ株式会社にてSDGsワークショップの開催や組織開発・事業開発等のコンサルティングを手がけるほか、個人でGift&Share合同会社を設立し個人と組織の可能性の解放に取り組む。
編集部おすすめ記事2019.10.11
編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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