障害に甘えない自分でいたい。

陸上を通して、自分自身を愛せる人を増やす。

パラ陸上の走り幅跳び選手で、東京2020パラリンピック競技大会でのメダル獲得を目指す芦田さん。一時は、大好きな陸上競技を極めるうえで障害をハンデに感じましたが、恩師の言葉で考え方を前向きに変えられたと言います。芦田さんに訪れた変化とは。お話を伺いました。

芦田 創

あしだ はじむ|トヨタ自動車所属、パラ走り幅跳び選手
幼少期、右上肢にデスモイド腫瘍を患い、治療の中で、右腕が短く、指、手首、肘には機能障がいが残る。15歳で陸上競技を始める。IPC陸上競技世界選手権、世界パラ陸上競技選手権大会、インドネシア2018アジアパラ競技大会などに出場し好成績を収める。2016年、リオパラリンピックの男子4×100mリレーで銅メダルを獲得。東京2020パラリンピックでは、個人種目での走り幅跳びでメダル獲得を目指す。

強いカードを手に入れるしかない


兵庫県丹波市で生まれました。目立つのが好きで、友達と遊ぶ時はリーダー的なポジションに。自分が居心地のいい場所を作っていましたね。

5歳のとき、先天的に右肘の関節を脱臼していることが分かり、手術をしました。その手術が引き金となったのかはわかりませんが、後日、右肘にデスモイド腫瘍という難病を発症。悪性の腫瘍ではないものの、激しい痛みを引き起こし、外傷により発症や転移、再発する特徴のある病気でした。

小学生になっても治らず、年に1回は手術があり、長い時は3カ月間も入院する日々を過ごしました。外傷で腫瘍が生まれるかもしれないので、運動全般ができなくもなりました。体育の時間はいつも見学で、休み時間のドッジボールでは僕だけずっと外野でした。体動かすのが好きだったので、楽しくなかったですね。

腫瘍のせいでできないことがあるのはつまらなかったですが、つらくはありませんでした。これが普通なんだと思っていましたし、両親から言われていた「あなたは、不自由かもしれないけど不幸ではないの」という言葉を信じていたからです。

珍しい病気で、入退院を繰り返すと周りの友達が心配してくれて、ヒーローになったような気持ちもありました。自分はちょっと特別なんだと思っていましたね。

小学校高学年になると、親から私立中学の受験を勧められました。片腕が不自由で影響がある部分を頭でカバーできるように、と考えてのことだったと思います。自分自身でも納得しましたね。ゲームに例えれば、今自分は圧倒的に不利なカードを持った状態でスタートしているところ。勝つためには、状況をひっくり返すような良いカードを持たなくてはいけません。だから、自分の興味のあること、できることをどう頑張るかが大事だと思っていました。常にどうすればより自分をプラスに飾っていけるか、考えていましたね。一生懸命勉強し、私立中学に入学しました。

どうせ失うならと、はじめた陸上


中学校では、元々スポーツが好きだったので左手だけでもできる卓球を始めました。ただ、やりながらボールコントロールなど繊細さが求められる競技は向いてないなと思っていましたね。

腫瘍との付き合いが10年以上になった、15歳のある日、病院に行くとお医者さんから「君の体にはこれ以上メスを入れられないし、放射線治療もできない、治療の手段がなくなってしまった」と言われました。「右腕を切断するしかない」と。

ショックでした。腕がなくなる恐怖よりも、長年治療してきた頑張りが無駄になることが悔しかったんです。これまでずっと大切に育ててきたゲームのデータが消されるような感覚でしたね。治療中に懸けてきた思いがあった分、右腕の切断には、ただ自分の身体の一部が無くなるという以上の意味があったんです。後日改めてどうするか決めましょうと、その日は帰宅しました。

どうせなら腕があるうちに好きなことをしたいと、自粛していた運動を始めることにしました。まずは走ってみました。お金もかからないし、すぐ始められたからです。すると、これまで味わったことのない、風を切る感触が気持ちよくて。もっと味わいたいと陸上競技をはじめました。

これまでできなかったぶんまでと、思いっきり体を動かす毎日を送る中、迎えた定期検診の日。お医者さんから「腫瘍の進行が止まっている」と言われました。腫瘍自体は腕の中に残っているのですが、ガン細胞が死んで痛みや転移がなくなったというのです。

もしかしたら思いっきり体を動かして、自分の心が明るくなったので免疫力が高まったのかもしれません。誰も科学的な理由はわかりませんでしたが、僕としては、なんてラッキーなんだとうれしかったです。

治療の影響で、右腕に機能障害は残りましたが、生活に制限はなくなりました。楽しかった陸上競技は続けることにしました。

初めて、障害を障害に感じた


高校進学後は陸上部に入り、400メートルの選手になりました。練習を頑張れば頑張ったぶんだけタイムになって返ってくるのが楽しかったです。地面にどれぐらいの力を加えるとどれぐらい前に進むのか。自分の走りを自分なりに科学的に証明することによって、数字ではっきりと答えが出る世界に美しさすら感じていました。練習に没頭し、タイムはどんどんよくなりました。

高校1年生でいきなりの大会出場など、同世代に比べれば圧倒的にタイムがよかったので自己肯定感が跳ね上がりました。ようやく、最高に結果を出せる世界にたどり着いたと思い、自分にスポットライトが当たっている感じがしていましたね。

しかし、ある時からよく怪我をするようになり、治療中にチームメイトに追い越されるようになりました。他の人が両腕を使ってできるトレーニングが自分にはできない。身体操作が難しい。人と同じトレーニングをしても、同じように結果が返ってこない。フラストレーションが溜まるようになりました。

そのとき初めて、「ああ、自分は右腕に障害があるんだ」と思うようになりました。陸上競技が大好きだからこそ、もし腕に障害がなければもっと速く走れるようになるのに、と考えるようになったんです。

同じ頃、パラ陸上の大会に出場しました。よくない精神状態にも関わらず、日本記録を出して優勝したんです。モヤモヤした気持ちを抱えたままでも勝てることに、面白さを感じられなくて。かといって、健常者の大会で勝てるタイムを出すことはできません。自分が納得できて、一生懸命戦える場所はどこなのか、分からなくなりました。

与えられた状況でベストを尽くす


モヤモヤを抱えたまま大学に進学しました。陸上は続けましたが、部活には入らず、のんびり活動できるサークルに入りました。陸上が好きな人同士が集まり、週に一回練習する生活で、アスリートっぽい生活からは身を引きました。

21歳で周りが就職活動を始めると、自分は今後どうすべきか悩みました。2020年の東京パラリンピック開催が決まっていたので、その大会を目指しもう一度頑張るのか、それとも陸上は諦め、別のキャリアを歩むべきか。悩んでいる様子を見て、大学が競走部の監督と話す機会を作ってくれました。

初対面でしたが、監督に、陸上は好きだが他の人と同じようにできないこと、今後キャリアをどう歩むべきか悩んでいることなど、心の中を打ち明けました。すると監督に「お前は人生において、障害に対して甘えていないか」と言われたんです。その言葉にハッとしました。

これまで、右腕に障害があるから頑張れない、右腕に障害があるから結果が出ない、と「右腕」を主語にして考えていたことに気がついたんです。「自分は」どうしたいのか、考えていなかったんですよね。自分自身の気持ちを考えなくなったのだから、自分の立ち位置が分からなくなっているのも当たり前でした。

いつのまにか自分は、障害に不自由であること以上の意味を与えていたのだと気が付きました。チャレンジをしない言い訳にしていましたし、自分を可愛く見せる武器としても使い、楽をしていました。障害に甘えていたんです。

そう気がついたとき、「右腕が」を取り払って改めて「自分が」挑戦したいことを考えました。その結果、自分のありのままの姿でどこまでパフォーマンスを出せるのか、チャレンジしたいと思ったんです。自分は自分のままでベストを尽くすことが美しい。そう思えるようになったとき、自分で自分を愛せるようになりました。自分のことを想い、あえて厳しい言葉をかけてくれた監督にすごく感謝しました。

自分を愛せるようになり、改めて周りを見ると、障害のあるなしに関わらず、自己肯定感の低い人が日本には多いと感じました。自分のベストを尽くすことが美しいはずなのに、多くの人が他人と比べてしまい、自分を好きになれていない。そんな現状を変えるために私ができるのはパフォーマンスを通して「自分のままベストを尽くせば良い」とメッセージを伝えることだと思いました。

自分が自分を愛すため、そして周りの人にメッセージを伝えるため、与えられた状況でベストを尽くす生き方をしようと決めました。

目標達成のため、走り幅跳びへ転向


目標にしたのは、5年後の東京2020パラリンピックでした。自分の姿を通して周りにメッセージを発信したいと思っていたので、日本で一番注目される大会で結果を出そうと思ったんです。1年後にリオパラリンピックが迫っていましたが、今の自分では手が届かないので、その次の大会に照準を合わせました。

まずは、リオパラリンピックに出場して経験を積まねばと思い、どの競技なら出場権を獲得できるのか本気で考えました。これまでずっとやってきた400メートル走では自己ベストを大幅に更新しなくてはならず、現実的に出場権獲得は難しい状況でした。一方、走り幅跳びならジャンプ力にも自信がありましたし、手が届くかもと思いました。

やってみると、最初は女子選手より記録が出ず、焦りました。ただ、3カ月ほど練習するうちにだんだんうまくなり、1年後にはリオパラリンピックの出場権獲得が狙える位置につけられました。

競技を変えることに不安はありましたし、周りからも止められました。それでも、自分で決めたことだから、必ず成功すると信じて揺るがなかったですね。勝ちたい気持ちが自分を支え、自分の選択を正解にできました。

迎えた、リオパラリンピックへの出場権がかかった大会当日。プレッシャーより、早く跳びたいワクワク感の方が強かったです。自分のパフォーマンスができれば絶対に出場権は獲得できると思っていました。その結果、いつも通りのジャンプができ、無事に代表権を獲得できたんです。

細かい目標設定で記録を伸ばす


必死の思いで出場したリオパラリンピックでしたが、結果は全然駄目でした。個人の走り幅跳びで12位。ベスト8にも入れませんでした。

悔しくて、日本に帰ってきてすぐに東京パラリンピックに向けて猛練習を始めました。その結果、自己ベストを更新し、リオパラリンピックならメダルを取れていた記録をマークできました。

しかし、自己ベスト記録を出した一週間後、怪我をしてしまったんです。目の前が真っ暗になりましたね。治療やリハビリに励みましたが痛みが引かず、貴重な1年間を棒に振りました。

ただがむしゃらに走り続けられるのには限界があり、出したいタイミングで結果を出すには戦略が必要と痛感しました。大会までは4年間もあるのに練習のペース配分を考えていなかったし、自己ベストを更新した1回はどうやって跳べたか説明できず、再現性がありませんでした。怪我が治った後は細かい目標を設定し直し、一つずつクリアしながら記録を伸ばしていきました。

ようやく東京パラリンピックが開催されるというタイミングで、新型コロナウイルス感染症が流行し、大会が延期になってしまいました。あと半年、と気持ちを作っていたので延期が決まった瞬間はやる気がなくなりました。ただ、ショックもありましたが、同時に休めるとも思いました。張り詰めていた心身を一旦緩め、コーチと相談し10日ほど練習せずのんびり過ごした後、できる範囲内でゆっくりトレーニングを続けることにしました。「与えられた状況でベストを尽くす」が僕のモットー。だから立ち止まらざるを得ない状況を受け入れて一旦休み、調整期間に当てようと考えたんです。

誰もが自分を愛して生きられる社会へ


現在は、東京2020パラリンピック競技大会出場に向け、調整中です。新型コロナウイルスの影響でいつ開催になるのか分かりませんが、秋開催を想定し地道なトレーニングを積んでいます。コンディションは悪くないので結果を出せると信じています。

練習とは別で、学校などでの講演活動もしています。自己肯定感をテーマに自分の経験を話し、もっと自分を好きになろうといろいろな人に伝えています。今は自分の経験しか話せませんが、いずれは科学的根拠を示しながら話せるようになりたいですね。

私にとって陸上競技は、一つのツールでしかありません。今後の人生で自分が取り組みたい活動のための影響力を手に入れられるツールであり、何より自分が自分を好きでいられるツールなのです。どこまで遠くに跳べるのか、どれだけ速く走れるのか、挑戦し続ける自分が好きですし、自分らしいとも思います。

障害者スポーツは、純粋なスポーツとしてではなく福祉に結びつけられて考えられることが多いですが、個人的にはその風潮に疑問を感じています。障害は個性の一つで、それ以上でもそれ以下でもないと思っているからです。

ただし、そのままでは間違いなく社会的に不利になってしまう個性ではあります。障害を持つ人は、その個性をチャンスとして活かせる生き方を考える必要がありますし、何よりも社会がその選択肢を用意するべきだと思います。

障害者が自分を障害者だと感じる原因を取り除き、一人ひとりが自己肯定感を持って生きていけるようにするため、パラリンピアンとして、一人の人間として挑戦を続けていきたいです。

2020.05.18

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 種石 光

芦田 創

あしだ はじむ|トヨタ自動車所属、パラ走り幅跳び選手
幼少期、右上肢にデスモイド腫瘍を患い、治療の中で、右腕が短く、指、手首、肘には機能障がいが残る。15歳で陸上競技を始める。IPC陸上競技世界選手権、世界パラ陸上競技選手権大会、インドネシア2018アジアパラ競技大会などに出場し好成績を収める。2016年、リオパラリンピックの男子4×100mリレーで銅メダルを獲得。東京2020パラリンピックでは、個人種目での走り幅跳びでメダル獲得を目指す。

記事一覧を見る