弱さを大胆にポップに。福祉の世界を、もっと身近に、面白く。

広告代理店にてコピーライター兼プロデューサーとして働く澤田さん。本業のかたわら、老若男女が運動神経の良し悪し関係なく一緒に楽しむことができる「ゆるスポーツ」の普及にも取り組んでいます。息子の病気をきっかけにハマった、障害のある方々と関わる道。キーワードは「弱さを大胆にポップに」。その意味とは?お話を伺ってきました。

澤田 智洋

さわだ ともひろ|コピーライター・プロデューサー
広告代理店勤務。コピーライター兼プロデューサー。世界ゆるスポーツ協会の代表理事を務めるなど、福祉分野でもさまざまな活動を行っている。

価値観は国それぞれ


東京の病院で生まれ、生後3か月でフランスへ引っ越しました。親の仕事の関係で海外を転々としていたんです。1歳から7歳までロンドンで暮らし、その後日本に帰ってきて、小学4年生まで日本の小学校に通いました。

主に英語を使って生活をしていたので、日本語は少し不自然。日本の同級生からは「外人」なんて呼ばれたりしていましたが、僕は全く気にしていませんでした。部外者として扱われることには慣れていたんです。

兄弟は年子の弟が一人と妹が一人。弟は、全然運動ができなかった僕とは対照的に、運動神経抜群でした。運動会のリレーではアンカーを走るくらい足が速かったです。クラスメイトの期待を一身に背負って走るキラキラした姿を見て、自分は弟のような主役タイプではないんだろうなと考えるようになりました。身の回りの出来事をどこか俯瞰的に見て、ニヤリと笑うようなニヒルな性格になっていきました。

外国を転々として暮らしたことで、価値観なんて一歩その場所を離れればひっくり返ると感じていたので、それなら逆に、自分で世界を作ろうと考えました。小学校の頃から、簡単な創作ゲームを作ってはクラスで広め、楽しんでいました。誰かの、何かの、手のひらの上で転がされるのは嫌だと思っていました。

小学校5年生からは再度フランスへ。1年間日本人学校に通いましたが、せっかく外国に住んでいるのだから英語が話せるようになりたいと考え、調べるうちに「パリのイギリス人学校」を見つけました。その、超がつくほどマイナーなところにも惹かれ、「ここだ!」と思い、入学を決意しました。

しかし入学してからは地獄でした。小さい頃には話せた英語も、しばらく日本にいたことでほとんど忘れて、せっかく話しかけてくれるクラスメイトとうまくコミュニケーションがとれませんでした。最初こそ日本人だということで珍しさを感じ、寄ってきていたクラスメイトも、3日も経てば徐々に僕の元を離れていきました。誰とも話せないので英語も上達しない、だから友人もできないという悪循環に陥ってしまって、むちゃくちゃしんどかったです。

特に辛かった思い出として印象に残っているシーンが2つあります。一つは移動教室でのワンシーン。2人がけの椅子なのですが、クラスメイトの人数が奇数である関係で、僕だけいつも一人で座っていました。「なんでこのクラス奇数なんだよ!最悪!」と思っていました。

もう一つは、毎朝乗るスクールバス。誰とも話せないから学校に行きたくなさすぎて、気分が悪くなり、バスの中では毎朝吐き気と戦っていました。吐いちゃったらどうしようという気持ちからビニール袋をずっと握り締めていましたね。

そんな時、自分の気持ちを軽くしてくれたのが「音楽」でした。しんどいバスの中も音楽を聴いている間は忘れられる。 MICHAEL JACKSONやX JAPANといったPOPをよく聞いていました。「気分をその瞬間スイッチングできるなんて、何て偉大な発明なんだ!」と子供ながらに感動しました。イギリス人学校には約2年間程在籍し、中学3年生からはアメリカのシカゴに転勤となりました。

数々の有名なミュージシャンを輩出した国なので、すごく嬉しかったです。海外転勤はあまり好きではありませんでしたが、初めて喜びました。実際に住んでみると、いい意味で適当。イギリスやフランス、日本と比べて過度に人に対して干渉してこない感じが心地良かったです。アジア人などのマイノリティーもたくさんいました。

早速、ギターを買って、中学3年生の時にバンド結成。初めは日本で流行っていた「L’Arc~en~Ciel」のカバーをすることに。ただ、誰かがつくった曲をコピーしつづけることにすぐに飽き、ギターを始めて3ヶ月でオリジナルの曲を作り始めました。音楽熱は高校生になっても冷めず、ついには知り合いのレーベルからデビューするまでに。音楽を通じて友人もでき、高校時代は結構楽しかったです。

初めて自分が没頭できるものに出会い、ただただ楽しむことに時間を使っていました。また、自分の居場所ができたことで初めて「部外者」ではなく「社会の一員」として周りから認められているような気もしていました。そんな高校3年生の夏、再び日本に帰ることになりました。

積極的思考停止


海外の高校に通っていた学生を対象とした入試制度があることを知り、慶應義塾大学を受けることにしました。志望した学部は経済学部。理由は「一番わからないな」と思ったからです。新聞を読んでも、誰かに聞いても、その仕組みがよく分からない。こんなに分かりにくいのは何かがおかしいからに違いない。もっとわかりやすくできるはずだと思ったことがきっかけでした。

結果的に、経済学はすごく面白かったです。言葉を一つづつ理解することで、ある時はっきりと「あ!そういうことか!」と概念や全体的な体系がわかるようになる。経済ってすごく複雑で、簡略化できない。分かりにくくなるのは当たり前なんだと気づきました。

高校時代にやっとマイノリティから抜け出せた僕は、中学時代の失敗の反動で、いかに目立たず、みんなと同じように過ごすかということに腐心するようになっていました。いわゆる日本の大学生的な生活です。友人と浅いことで笑いあって、バイトをして、ダラダラ過ごす。あれやこれやと考える必要はなく、ただ流れていくエスカレーターに乗っていればいい状況がそれまでの人生と比べると新しく、社会に埋没している感覚も良かった。積極的に思考停止していました。

ただ、どこかで冷めている自分もいました。仲間内で楽しく盛り上がっても、一歩外に出れば何も残らない。「何て狭い世界なんだ」と思っていました。

そんな思いがあったので、就活の際、何か社会に対して大きく影響をあたえられる仕事がいいなと思っていました。強いブランド力を持った会社か、強いブランド力を持った会社と仕事をしている会社、どちらかに絞って就活をしました。とはいえ、実現したいビジョンを明確に持っているわけではなく、ただみんなと同じように就職して、定年まで勤め上げれればいいな程度に考えていました。

最終的には広告代理店へ入社することに決めました。ここなら広い世界でみんなに知られるようなものが作れそうだし、そもそも何をしている会社なのか言語化しづらくて、だからこそ面白そうだと感じていました。

再びズレた人生へ


初めは営業職からキャリアをスタートさせました。1年目の終わりにクリエイティブ試験というものを受け、2年目からはクリエイティブ職として、CMプランナーやコピーライターを務めました。

自分が作ったCMが、多いときには国民の70%近くの人に見られるという仕事に最初はすごく興奮しました。しかしすぐに慣れてしまって、こなす日々を送るようになってしまいました。

面白いとは思うのですが、同時に虚しさも感じるようになったのです。自分の作ったアイデアはキャンペーンや広告として一定期間は世の中に出ていきます。しかし終れば、一部資産になる点を除いて、何もなかったかのように消えてしまう。すぐに割れてしまうシャボン玉を、懸命に作っているような感覚でした。

ただ、賞を取って活躍する同期の姿を見ると、焦りを感じるようになりました。コピーライターは社内だけでも数百人はいる。その中で抜きん出るためにはどうしたらいいのだろう?と。ずっと日本にいたわけではないので、コピーライターには欠かせない語彙力という点では他の人には敵いません。どうしよう。もともとマイノリティだったので、高校、大学、社会人と周りの人と同じような人生を送るのが喜びだった。でも、そろそろまたズレたいなと思い始めたんです。

転職もチラつきましたが、中学校でイギリス人学校という新しい環境を選んだことで味わった地獄を思い出し、まずは社内でできることをもう少し探してみようと踏みとどまりました。

そこで、同期が担当していた雑誌で、漫画の自主企画を一緒に作らないかと持ちかけました。たまたまタイミングと運が重なり、連載が決まりました。

同じ頃、就職してからずっと封印していた音楽も解禁。とある飲食店の新商品について、オリジナルのバンドが曲に乗せて紹介するキャンペーンを実施。その作詞作曲を自分でやり、大きな話題を生みました。

コピーライター兼、漫画家兼、音楽作家と、複数の職種を掛け合わせていくことで面白い仕事をどんどん任され、良い意味で社内でどんどんズレていくようになりました。その結果、仕事にのめり込むようになり、「よしよしこれで定年まで勤め上げられるな」と考えていました。

違和感


仕事がようやく軌道に乗ってきたとき、32歳で長男が生まれました。生まれて3ヶ月ほど経ったある日、お義母さんから「なんだか目が合わない気がする」と言われました。あまり深刻に考えていなかったのですが、しばらくすると目が充血してきたため、病院に駆け込みました。

近くの眼科で診てもらったところ、「異常があるけど、ここでは詳しく検査できない」と大きな病院を勧められました。翌日、紹介された病院に行くと、先生から「もしかしたら脳に腫瘍ができてるかもしれない。そうなれば命の危険がある。」と言われました。

「え、マジで?」前日まで普通だと思っていただけに、すぐには状況を理解することができませんでした。詳しく検査してもらっている間に自分でもネットを使って調べまくりました。明確な答えは出ず、不安だけが募り、人生で初めて経験する、先の見えなさ、絶望感を味わいました。

検査の結果、さまざまな目の病気を併発していて、障害が残るとのことでした。奥さん曰く、診断結果を聞いた直後の僕の顔は、顔面蒼白で、倒れるかと思ったらしいです。

まずは神に祈りました。キリスト、ブッダ、アッラー…。とにかく、あらゆる神様に息子の病気を治してほしい、幸せに暮らしていけるようにしてほしい、とお願いしました。

一通り祈り終わり、息子の命には別状がないと分かった後は、冷静になり、事実を受け入れ始めました。そして、視覚障害を持っている人がどんな人生を歩んでいるのか、再びネットと図書館で調べ始めました。しかしとにかく、情報が少ない。学校には通えるのか、大人になったらどんな暮らしをするのか、知りたいことはたくさんありましたが、手に入る情報量は圧倒的に少なかったです。

だから、実際に話を聞きに行こうと考え、3ヶ月で100人以上の障害を持つ方、ご家族、雇用されている方とお会いする機会を得ました。するとだんだん、息子の人生がイメージできるようになりました。目が見えなくてもこんな勉強ならできるな、こんな恋愛をするんだ、こんな働き方があるんだ、などなど。また、会う人会う人、とっても明るい。自分が障害者に対して持っていたイメージとのギャップを感じました。

初めは、息子の病気や今後の人生について知りたいと思い始めたリサーチでしたが、これまで触れてこなかった福祉の世界の広さ、深さを感じ、何て面白い世界なんだとハマっていくようになりました。経済学を勉強したり、就職を決めたりした時と同じ感覚だったと思います。

また、息子の病気が発覚してから、しばらく仕事の量を減らしていたのですが、自分がいなくても仕事は回り、広告は生み出され続けるということに、当たり前ですが気づきました。そもそも広告代理店に仕事を依頼するクライアントは力があるので、自分が関わらなくても他に人が集まってきます。

一方で福祉の分野には、あまり世間には知られていない世界が沢山ある。初めは僕の方から息子のことを相談するのですが、僕の仕事内容を知ると、今度は相手から相談されるようになりました。だんだんと、強いものをより強くするよりも、弱いものを強くする方が面白そうだなと感じ、福祉の世界に貢献したいと考えるようになったのです。

世界を平和にするのは無理だけど


現在は、コピーライター兼プロデューサーとして自分でコンテンツを作りながら、同時に監督のような立場でプロジェクト全体を見ることが多いです。自分の世界に入り込んでコピーを考えることと、俯瞰的に全体を見渡すのを行ったり来たりすることで、どちらの仕事にも良い影響を与えることができます。

同時に、福祉の活動も積極的に行なっています。2015年には年齢、性別、運動神経、そして障害の有無にかかわらず誰もが一緒になって楽しめる「ゆるスポーツ」というものを生み出しました。現在は運営団体を法人化し、代表理事をやっています。

僕が福祉関係の仕事をするときに大切にしてるのは、「弱さを大胆にPOPに」ということ。障害や弱さがあることを隠さず、あえて前面に、それもデフォルメして強烈に打ち出す。例えば、ゆるスポーツも人の障害や弱さから、新しいスポーツを作ることが多い。また、3人に1人が65歳以上の高齢者という高知県のPRでは平均年齢67.2歳のお爺ちゃんだけで結成したアイドルグループを作ったり、その他には義足の女性を集めて「切断ヴィーナスショー」というファッションショーを行ったりしています。

関わる人に、直接的に大きく影響を与えられるということが福祉の仕事の魅力です。生きる希望を失っていたような人でも、半年くらい一緒にプロジェクトを進めるうちに生き生きしてきて、目が輝き、印象が全く変わったりします。そんな姿を間近で見ると、人ってこんなに変わるんだと思ったりします。その振れ幅を間近で目撃できるのが嬉しい。

息子が病気になったことや、自分の幼少期の経験を開示することことで、マイノリティとされている方々に安心してもらえて、力になれるということもモチベーションの一つです。

僕は今「世界平和」に興味を持っています。ただ、歴史上誰も成し遂げることができていないだけに、実現は難しいものだと思っています。しかし、「個人平和」は作れると思うんです。

周囲にいる誰ともいがみ合わず、助け合って、過去に縛られず、将来への不安もない。また、命の危険もなく、衣食住が満たされ、気の合う仲間がいるような状態を、例えば5分の間なら実現させることができると思うんです。多分、そんな瞬間的な個人平和の積み重ねの先に、世界平和が見えてくるのだと思います。

自分が進めているプロジェクトが、障害者や高齢者などのいわゆる社会的弱者の方々にとっての個人平和作りの一助になれれば、それこそが僕の平和につながります。

2017.11.06

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