考えてみると、自分が「自由」であると直接的に感じる人はあまりいませんよね。反対に、何か特定の事に対して「不自由」であると感じる人はたくさんいます。

社会の既存のルールや雰囲気が許容する範囲のなかで、自分のしたいことができないと人は不自由だと感じる、私はそう考えます。そして、人種やLGBTといった問題から、その他のなかなか注目を浴びにくい問題まで、生きている人たちが感じている一つひとつの具体的な不自由を解消していくために、人々は社会のルールや雰囲気を少しずつ変革してきたんです。

自由とは何だろうと考えるうちに、そもそも自分の「したいこと」とは何だろう、なぜこのような「欲望」を持つのだろう、ということについても考えるようになりました。

例えば、なぜ多くの日本人は欧米の文化に憧れを持つのだろうと。アフリカでは、黒い肌を白くするために漂白剤を肌に塗って、ガンになる人が大勢いるという話も聞きました。つくづく人間の業の深さを思い知らされる話ですよね。

こうした不可解な欲望のあり方を理解するためには、歴史的な経緯をきちんと見る必要があります。自由や不自由の感覚の前提となる様々な欲望自体も、必ずしも不変のものではない。そうして特定の歴史の刻印を押された様々な欲望から人はどれだけ自由になれるだろうか。そんなことをいろいろな本を読みながら考えていました。

フランツ・ファノンやエドワード・サイード、ガヤトリ・スピヴァクなど、植民地出身の活動家や思想家、そしてミシェル・フーコーの考古学や系譜学の考え方を学びました。そして、将来は研究者の道を進もうと考え大学院に進み、1970年代後半以降の後期のフーコーを主に研究していました。研究の関心は一貫して「自由をどう考えるか」でした。

研究だけでなく教育にも興味があって、もっと言うと大学のゼミのようなことがやりたかったんですよね。素晴らしい教師との出会いは、その人にとって「初期衝動」とでも呼ぶべきインパクトを与えることがある。その衝動に、音楽や本を通じて出会う人もいますが、人間関係を通じてそうした衝動を与える可能性について考えていました。