日本の工場を世界のファッションブランドに!誇りを持って繋ぐ、100年のたすき。
Made in JAPANのファクトリーブランドを運営する山田さん。熊本に「服屋の息子」として生まれ育った山田さんが、日本の工場から世界で広く知られるファッションブランド作りを目指す背景には、どんな思いがあるのでしょうか?
山田 敏夫
やまだ としお|Made in JAPANのファクトリーブランド運営
日本の工場を救う全く新しいファクトリーブランド専門ECサイト「Factelier(ファクトリエ) 」を運営する、
ライフスタイルアクセント株式会社の代表取締役を務める。
Factelier(ファクトリエ)
将来は自分が家業を継ぐんだろうな
僕は熊本県に生まれ、代々受け継ぐ老舗婦人服店を営む家庭で育ちました。お店の上に家があったこともあり、ファッションは常に身近にあり、高校生になると、将来は自分が家業を継ぐんだろうな、と考えるようになりました。
兄弟は兄がいたのですが、学校の先生になりたいという話をしていましたし、性格も安定志向で、自分の方がなんとなく向いているんじゃないかな、という感覚がありました。
そんな背景もあり、将来は経営することを見据え、高校卒業後は、東京の私大の商学部に進学しました。
大学に入ると、1年の時は経営に役立つからと簿記を学び、2年ではファッションへの関心からフランス語に没頭し、実際に1年間交換留学に行くことも決まりました。
しかし、迎えたフランス留学初日、早速スリに遭ってあっさり一文無しになってしまったんです。あまりのショックに、そのまま地下鉄の逆向きに乗って、日本に帰ろうかなと思いましたね。(笑)
それでも帰るわけにもいかず、大学職員の伝手で知り合ったおばあちゃんの家でしばらくお世話になることにしました。
そこで、とにかくお金がない僕は、何かしら働かなければと、現地の高級ブティックに履歴書と共に手紙を書き、手あたり次第に送ることにしたんです。
きっと高級ブティックなら日本人が買いに来るので、日本語が分かり、実家が服屋の自分は、何か貢献できると思ったんですよね。そんな背景で手紙を書いてみると、返事がきたのは、30社中1社グッチのみ。
その後、数回の面接を受け、なんとか働けることになりました。
「日本でグッチのような誇れるブランドを作る」
ところが、実際に働き始めると、面接時とは話が違い、地下の倉庫に籠って在庫整理をする日々が1か月も続きました。仕事が終わって地上に出るととても眩しく、まるで幽閉されているようでしたね。(笑)それでも、真面目に働いて、なんとか店内のレジ横の免税手続き担当に昇格し、最終的には販売員の経験もさせてもらえました。
そんな風に働く中で一番驚いたのは、グッチの社員がブランドに強烈なプライドを持っていることでした。
最初は、短パンで来る外国人観光客に、ある種傲慢な態度をとる店員を見て、「なぜこんな接客をするの?」と衝撃を受けたんですが、その背景には、モノづくりに対するプライドがあることを知って、妙に納得したんです。
同時に、日本にはそのようなプライドがないな…と。だから日本では接客文化が育ったのかもしれないし、良い面と悪い面があるのも事実。
しかし、世界では下請け工場が一流のブランドになっているという現実や背景を目の当たりにして、ブランドにならないまま消え去りそうな日本の工場のことを考え、すごくもったいないと感じたんです。
そんな風に考えていたこともあり、ある日、グッチの仲間と会話をする中で、「日本でグッチのような誇れるブランドを作る」と自然に口にしてしまったんです。
売り言葉に買い言葉、そんな感覚で出た言葉でしたが、ものづくりにプライドを持った、Made in JAPAN のブランドを作りたい、という思いがありました。
IT業界で営業を学ぶためソフトバンクへ
その後、フランスから帰国し、3年生になってからは就職活動を始めました。就職先はアパレル系を考えていたので、東京で洋服の買付をする母に同行させてもらい、服屋の店主に、業界について聞いて回りました。しかし、お会いするほとんどの方から「アパレルは大不況だから止めとけ!」と止められてしまったんです。
業界は、ちょうどZOZOTOWNができて間もないタイミングで、ITとファッションの掛け合わせの可能性に興味を持ちつつも、そんなお話を伺ったこともあり、不況に直面している業界を渡り行くには、経営力を磨かなければと感じるようになりました。
また、就職活動イベントを通じて出会った大手企業のエース級人事の方々から、「経営には営業が大事だ」と言われたんです。そこで、営業に興味を持つようになり、営業とインターネットが両方学べるという観点から、転職サイトやwebメディアの運営を行っていた、ソフトバンク・ヒューマンキャピタル株式会社に入社することを決意しました。
実際に入社し、いざ営業をするも、初受注が同期で一番遅かったり、より何倍も周ってるのに会話がおかしかったり、だいぶ苦労しました。それでも、フランスの経験等から、努力をしていれば道が開けるという確信はありましたね。
そんな気持ちで仕事に没頭し、最終的には最年少でマネージャーに昇格、そして営業部長になることができました。元々、務めている期間の間でどこまで経験ができるかが大事だと思い注力していたので、ふと気づいたら成果が出ていた、という感覚でした。
やっぱりファッションに関わりたい、倉庫バイトで再スタート
しかし、4年間IT系の営業に携わってみて、やはりファッションに携わりたいという思いは変わらずあり続けました。特に、ITに可能性を感じたからこそ、それをファッションに活かしたいと感じたんです。
例えば、僕の実家は、月1日しか休みがないけれど、インターネットだったら、24時間お店を開けられるし、もっと休みも取れるかもしれない。お客様だって全国各地、世界中の人が買える、この間口の広さに気がついたんです。
そんな背景から、東京ガールズコレクションのオンラインストア等を運営していた、株式会社ファッションウォーカーに応募をしてみることにしました。しかし、異業種の未経験だった僕は、中途採用で不採用になってしまったんです。
それでも、「なんとかなりませんか?」と粘り続けたところ、江東区にある倉庫に勤務するアルバイトという形なら、とOKをいただいたんです。それからは、物を運んだり、運送業者の方と商品管理をしたり、地味な仕事ばかりでしたが、再びファッション業界での仕事が始まりました。
ただ、アルバイトということもあり、お金が無く、非常に大変でしたね。昼は弁当を持参、電車で前職の部下に会って、あまりにラフな格好なので気まずい思いをしたり、現場では年下の弁当を買いにいったり、なんてこともありました。(笑)
それでも、たまたま倉庫を訪れた役員に、本社に行きたいと直談判をし、なんとか本社に移動させてもらい、契約社員、正社員とステップを上っていきました。そして、本社では社長直下の事業開発室として、様々な挑戦の機会をいただくことができました。
沸点を超え、ブランド作りに着手
そんな風に1年ほど働くと、会社が大手アパレル系の企業に買収されることになったんです。正直、自分自身が怠け者だからこそ、そのまま大手企業の所属になり、良いオフィスに通って、という日々を過ごすと、そのまま居座ってしまうんじゃないかという危機感がありました。
また、たまたまFacebookを使い始めたことで、グッチで働いていた際の海外同僚とチャットをする機会があり、「帰国してから9年経つけど、お前のブランドはできたのか?」と聞かれたんです。
やらなければいけないことを分かりながら、何もしないことは悪だということを痛感しましたし、色々なタイミングが同時に重なったことで、自分の中で、独立をして挑戦することへの「沸点」を超えたような感覚がありました。
僕は会社を辞めて、日本発の工場ブランドを作るべく、独立を決めたんです。29歳のことでした。
退職後は、日本の工場をブランドにすることをコンセプトに、準備をしていきました。ものづくりへのプライドを持ち、海外でも通用するブランドにするためにも、工場では小ロットであれ、持っている技術を最大限に生かした洋服作りをしてほしいという思いがありました。
しかし、既存の流通システムでは、工場で作った洋服が店頭に並ぶまでに中間業者が多いため、中間マージンをたくさん取られてしまい、作り手へのリターンが少なく、売り場では高額の値がついてしまう構造だったんです。
だからこそ、僕らが間に入ることで、幾つもの中間業者を省き、工場で作った洋服を直接、消費者へ届ける仕組みを作ろうと考えました。
そこで、賛同してもらえる工場の方を探すために、タウンページの上から電話したり、夜行バスで全国を行脚し、繊維組合の寄合にでかけるなど、地道な営業を続けました。しかし、サイトもできていない状況で話を持ちかけていたので、反応は厳しく、かなり辛い日々が続きました。
それでも、まるでスーパーマリオのスターを取ったような感覚で、壁を壁と思わず、夢中に近い状態でした。それに、フランスでの経験からも、「ものづくりの本質はここにしかない」という感覚がありましたね。
そんな中、初めて提携したのは熊本の工場で、400枚のワイシャツ生産でした。クラウドファンディングに挑戦したり、スーツの着こなしセミナーと題して法人を回ったり、6帖の家に溢れかえったシャツを販売することに本当に苦労しましたが、地道ながらも、なんとか消費者の方に届けることができ、シャツの次はネクタイを、次はカーディガンをと、1つ1つ信頼を獲得していきました。
100年後にブランドになるために
現在は、「Factelier(ファクトリエ)by工場名」というブランドで、様々なアイテムを通販サイトや店舗にて直接消費者に販売しています。洋服が工場から店頭に並ぶまでに存在する中間業者を省くことで、工場が作る最高の製品を直接消費者に届け、その価値に見合う対価を工場にお返しする設計をしています。
まだまだ事業として成功しているとは言えませんが、そもそも、グッチを含めた所謂「ブランド」を作るには、最低100年はかかると思っているんですね。
その中で、僕らが携われるのはせいぜい30〜40年くらい。数十年後に会社をどういう状態にしておくか?ということを常に考えていて、今は後継者にたすきを繋ぐ準備の段階だと捉えています。だからこそ、そんな思いを一緒に継いでくれる仲間が会社に加わったことは、本当に嬉しいですね。
また、今後、100年も続く企業を目指すためには、社会にとって善となることを組み込んでいく必要があると思っています。だからこそ、地方の過疎化や繊維商品の廃棄量等の問題にも向き合っていきたいと考えています。
特に、日本の国土の6割が過疎化するような時代になっており、このままではMade in JAPANが残らなくなってしまうと思うんです。だからこそ、地域における工場自体がブランド化し、そこで働くことを誇りに思ってもらえるような雰囲気をつくっていきたいです。
僕自身、この事業に加え、熊本の実家を継いで並行でやっていきたいという気持ちがあります。世界を目指すのは地方からだと思いますし、地元に恩返しがしたいんですよね。
2015.01.20