循環していく林業と地域をつくる。 働く目的を見つめ直し、掴み始めた意味。

広島県北広島町にて林業をしながら、地域の小学校の児童数を100人にするプロジェクトに取り組む大内さん。このままでは地域がなくなるという危機感から、地域活動に取り組み始めました。その中で、本業である林業の意味を考えるようになったといいます。大内さんが今考える林業のあり方、目指す地域の形とは?お話を伺います。

大内 良三

おおうち りょうそう|大内林業取締役・100プロ代表
1973年、広島県大朝町(現・北広島町)生まれ。広島新庄高校卒業。大阪の大学を経て地元に戻り、家業の林業を継ぎ有限会社大内林業の取締役に就任。2018年、地域の小学校の児童を100人にする活動「100プロ」を始める。

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地域の児童数を100人に!プロジェクト
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※この記事は、広島県の提供でお送りしました。

山には神さんがいる


広島県大朝町(現・北広島町)に生まれました。姉、兄の4人兄弟の末っ子です。小さい頃から色々な人に可愛がってもらっていました。笑顔がいいから飴ちゃんあげようとか!小学生の頃は、2つ上の兄とその友達について歩いていましたね。みんなで蜂の巣を落とそうとしてみたり、洞穴の中を探検したり。水中眼鏡と網を持って近くの川まで行き、暗くなるまで夢中で魚を捕まえるなど、毎日、自然の中で遊んでいましたね。

父は8人兄弟で、正月やお盆になるとうちには親戚一同が集まってきました。みんなでわいわいする、家族との時間が大好きでした。

父は林業をしていました。丸太を建築材や紙の材料として市場へ出荷するんです。植林から伐採まで行い、小さい頃から一緒に山に連れて行ってもらっていました。少しずつ、植樹を手伝ったり、伐った木をワイヤーでくくって引っ張る作業を手伝ったりするようになりましたね。

父は、「山には神さんがいる」とよく言っていました。「神さん木」という木があり、昔からその木は切らずに大切に祀られていたそうです。家でも年に1回、山の神様と木に対して感謝する木の御霊祭りもしていました。私も祭りに参加したり、父の話を聞いたりする中で、漠然と山には神様がいるのだと感じるようになりました。

林業は儲かるけえ


性格は大人しく、人見知りをする方で内弁慶でした。しかし中学生になったころ、好きだった女の子に告白され、それで自信がつきました。目立ちたくてリーダーをやるようになり、生徒会役員や応援団長など、率先して立候補していました。地元の高校に進むと、陸上部と軽音部に所属。全然うまくはなかったですが、人前に出るのが好きでしたね。

進路を決める際、林業をすることは決めていました。父から「林業は儲かる」と聞き、俺も儲けたいと思ったんです(笑)。家の手伝いは続けていて、高校に入ってから見よう見まねでチェーンソーも使い始めていました。案の定、足を切ってしまい、10針縫ったことも。でもそれで怖いとか、林業が嫌だとは思いませんでしたね。他の選択肢も知らなかったですし、努力すればするほど稼げるというのが良いと思いました。

ただ、すぐに会社に入るのではなく、大阪の大学に進学。理由は、こんなことを言ったら怒られそうですが、嫁さんを探したかったからです。勉強は全然でしたが、幸いなことに結婚相手は見つかりました(笑)。

大学2年生になった時、2つ上の兄から電話があり「自分も林業しようと思うんじゃけど、やるか?」と聞かれました。迷わず「ああ、やるよ」と答えると、待っていると。一緒に林業をやることを見据え、卒業と同時に広島に帰りました。そして3年後、大学で出会った彼女と結婚しました。

山の神様に助けられている


林業の仕事はイメージ通りでした。兄が有限会社を立ち上げ代表になり、私も取締役に就任。ただ実際は作業員という感じでしたね。

「この木を伐ったらなんぼになる」とわくわくしながら木を伐り、市場で高く売れるのがやりがいでした。儲かるのが楽しかったです。

自分でも山を買い、植樹を始めました。儲けたい気持ちがある一方で、自分が育てた山を孫の代のために銘木を作って残したいと思っていました。自分が伐らせてもらっている木は、ずっと前の世代の誰かが残してくれた木。次の世代のことを考えるのは当たり前の感覚でした。休みの日には自分の山に行って手入れをしていましたね。

ある日、架線集材で機械の力を利用し、大きな松の木をワイヤーで引っ張って、倒そうとしていました。通常なら、木の根元をある程度伐ったら、立木が倒れるはずが、なかなか倒れなくて。ワイヤーを引っ張っても引っ張ってもダメなので、だんだんと木の根元を深く切っていきました。

すると、突然、根元がちぎれてしまい、枝先が僕の耳元をものすごいスピードで飛んで行ったんです。直径60センチほどもあった松の木が、弓なりになったワイヤーに引っ張られて根元から30メートルくらい向こうまで飛びました。本当に、もう少しで直撃し、命を落とすところでした。

その時、「ああ、俺、助けてもらったな」と感じたんです。父が言っていた「山の神さん」を思い出しました。山の神様が守ってくれた。生かさせてもらっていることを感じて、深く感謝しました。

それからは、新しい現場に入るときも出るときも、山の神さんにお礼と感謝を伝えるようになりました。現場は常に死の危険と隣り合わせ。危ないことも何度かありました。その度に、神さんに守られていることを実感したのです。

地域の子どもがいなくなる


儲かるはずだった林業ですが、輸入材の影響もあり、木の価格は年々低下していきました。

加えて、建築方法の変化も打撃になりました。昔ながらの工法、在来軸組工法で作る住宅ではなく、工場加工で家を量産する形式に変わったんです。銘木を使う家が消えていったんですよ。国産材よりも、海外からの輸入材の方が安価で加工しやすく建築材に適しているので、好まれるようになったのでしょう。

うちの会社でも兄の決断で高性能林業機械は入れたものの、国産材の価格低下には勝てず、給料は減らさないといけないし、木を育てる大変さを知っているからこそ、お客さんにも申し訳がなくて。儲かるために林業を始めたはずなのに、儲けることは難しい。続けていく目的がわからなくなりつつありました。

そんな中でも、家族との時間は何より大切にしていました。仕事が終わると家に帰り、休日も家族と過ごす。商工会などは兄が参加し活動していたため、僕自身は地区全体のことには参加しなかったですね。

ちょうどその頃、末の子どもが小学生になったんです。ふと周りを見回してみた時、この子が卒業すると、自分の住んでいる地域に子どもがいないことに気がつきました。この地域から、子どもがいなくなり、遊ぶ声や笑い声が聞こえなくなる。その先にはボロボロになった家だけが残っている。そんな未来を想像してしまい、ものすごく嫌だと思ったんです。

それではいけない。自分がこの地域で楽しく過ごしてきたからこそ、残したいと強く思いました。

そこで、なんとかしようと地域の人に呼びかけてみることに。旧町には2つの小学校があります。僕の住んでいる地域の小学校は、児童数が50人ほど。このままではいずれ、他地域の小学校に統廃合されてしまう。共通の危機感を持った保護者と出会い、数人の仲間ができました。そして、10年後、地元の新庄小学校の児童数を100人にすることを目標に「新庄小100人プロジェクト」という団体が立ち上がりました。

いろいろな場所で活動をアピールしましたが、僕はずっと家族を優先して、ほとんど地区全体の活動をしてこなかった身。今まで地区で活躍されてこられた方からすると、今更何を言っているんだという感じだったと思います。

実は地域では、地元で有名な「ほたる祭り」の実行委員会、地域の伝統的な神楽、消防団を「三種の神器」と言っていて、若手がやらなければならない役割とされていました。僕らの世代は特にほたる祭りを盛り上げて、集客に成功し、規模を大きくしたんですよね。でも、それを毎年続けていくことに疲れが出て、「もうええじゃろ」という空気が流れていました。

加えて、本来ならば若手が入ってきて役割を交代していくはずなのに、若い世代が地域にいない。だから40代を過ぎても、まだ我々の世代が続けていたんです。

「昔だったら40歳で卒業と言われとったのに、もう俺ら44で。いつまで地域のことをやらにゃいけんの?」

そんなことを、実は私自身がこぼしていたことを思い出しました。でも、一度未来を想像してしまうと、その大変さ、面倒くささよりも、ここに子どもがいなくなることの方が寂しくて嫌だったんですよね。だからなんとかしなければ、と行動を始めました。

活動を進めていく中で、地区出生数が10人を下回っていることに気づき、隣の小学校の地域に声をかけたところ、賛同者が見つかりました。隣の小学校も児童が50人強、同じ状況にありました。地区全体の児童数を100人にすることを目標に、「100プロ」と名団体名を変更し再出発しました。

地域を教え、伝える存在に


立ち上げ当初、まずはミーティングを開き、保護者の方々と30人ほどと皆で何ができそうか話し合いました。「この小学校区を盛り上げるためには何が必要かね」「どういう体制が面倒くさくなく続けられそうか」などと話した結果、やりたいことがある人が挙手制でプロジェクトを始めることになりました。義務になってしまうと、他の地域活動と同じで負担に感じてしまうと思ったんです。

私も何をしようか考え、子どもたちに向けた自然体験プロジェクトを実施することにしました。小さい頃遊んだ楽しかった思い出が、この地域に戻りたいと思ったり、この地域を好きでいてくれる理由の一つになると思ったからです。川遊びをしたり、自然の中で火を起こしてドラム缶風呂に入ったり、様々な体験を企画しました。

まずは馬鹿げたことをしようと思っていましたね。子どもたちがやりたいかどうかなんて関係なくて(笑)。冬には、その辺にある雪をドラム缶に入れて火を焚いたら面白いんじゃないかと思って実行しました。そんな馬鹿げたことをやるのが思い出になると思うんです。来てくれた子どもたちは、そもそも火を扱うことが少ないので新鮮で楽しそうでしたね。

やっているうちに、今の子どもたちは、火を起こしたこともなければ、川遊びをしたこともない子がほとんどだと気がつきました。私たちの時代は、それを教えてくれる先輩がいたんですね。でも今は地域に先輩がいなくなってしまった。だから私たち大人がその楽しさを教えられればと思いました。そのために、まず自分自身が楽しむ。楽しんで子どもたちの方をみると、笑顔があふれていて。この笑顔を作る活動をしていきたいと感じました。

他にも、続々とプロジェクトが発足しました。例えば、結婚や移住などで地域に入ってきた女性が、友達を作りやすくする女子会プロジェクト。「嫁いできたときにすごい寂しかったんよね」というメンバーの話から始まって、女子会を開催するようになりました。徐々に、女性たちが話している間にお父さんたちが料理を作るようになり、中にはシェフもいておしゃれな女子会になっています。

それから、地域の写真展を開き、出展作をカレンダーにする、カレンダープロジェクト。写真にすることで、地元の良さを改めて感じてもらおうという取り組みです。カレンダーにすると、離れた地域に送ることもできるんですよね。この地域出身のあるお年寄りにカレンダーを送ったところ、懐かしい山の風景を見て涙を流していたそうです。その話を聞いて、プロジェクトをやってよかったなと思いました。

なんのために働くのか


児童を100人にするために、何をしていくと良いか。この地域をどんな地域にしたいか。やっていくうちに、教育が重要だと考えました。特に、地域に事業を作るような起業家が生まれる街になるといいなと思ったのです。

地域の経営者とのディスカッションを通して、起業家精神を学ぶ。地域にある高校に、そんな企画を持ちかけました。

実現するために、地域の経営者たちを飲みに誘い、一人ひとり「高校生起業家が生まれるような地域にしたい、協力してもらえないか」と伝えました。7人ほど仲間が見つかり、スタートできることになったんです。

どんなことをしていきたいか、その7人で話すうち、「起業家を生むことが目的じゃないよね」という話になりました。これからは高校にいく必要もないかもしれないし、どんな人間が社会に通用するかも変わってくる。常識が常識で無くなる。だからこそ、なんのために生きるのか、なんのために働き、学ぶのかが大事。その根本的なところを教えよう、と。

それを聞いていて、僕自身がハッとしたんです。僕は稼ぐために林業をしようと思っていましたが、目的を見失っていました。いま、自分はなんのために林業をしているのか。それを改めて考えるようになりました。

ぐるぐる考える中で、感謝の気持ちを持っているからかもしれない、と気づきました。自然の中で仕事をしてきて、人間は生かさせてもらっている事に気づかされ、その事に感謝があるんです。それが今、林業を続けている原動力なのかもしれない。そして、その自然に対してありがとうと思える気持ちが、今の時代に大事なのかもしれない、とも思いました。

林業は、SDGsの17項目のうち、14項目に入っています。林業をやっている僕らからすれば当たり前のことが、今ようやく世界的に認められ始めているように感じていたんです。林業が当たり前にやっていること、自然の中で当たり前に感じている感謝の気持ちを、伝えることが大切なのではないか、と。

高校生に提供したいはずのプログラムで、僕自身が一番学んでいたんですよね。なんのために生きるのか、本当に大事なことを伝える教育がしたいと改めて感じました。

自然も地域も次の世代へ


今は、大内林業で働くかたわら、100プロの取り組みを進めています。

林業では、変わらず植樹から伐採まで行っていますが、実はずっと木を伐ることは自然破壊なんじゃないかという意識を持っています。木は人が伐らなければ成長を続けられますし、地球も人間がいなければこんなに汚染されないわけですよね。

だから林業者として「木を伐ることが本当に良いのか」という問題提起はしていきたいですし、それによって木を扱う人それぞれが、自分の行動を省みてくれたらと思います。これから薪の販売もしようとしているのですが、価格の一部を苗木を育てる資金に充て、カーボンオフセットに貢献できるような商品にしたいと思っています。キャンプなどで薪を使って楽しむ人も自然に貢献できるような取り組みを、会社としても進めていきたいですね。

100プロでは、引き続き地域の子どもを増やす取り組みを続けていきます。100プロはこの地域を救う「最後の砦」と言ってくださる方もいます。決して僕一人ではここまでは来れませんでした。自分ができないことは仲間がやってくれる。心が折れそうな時は仲間が助けてくれます。100プロの仲間たちが自分の心の支えです。

また、人生の先輩、地域の重鎮の方々にも支えられています。一生懸命、頑張っていると誰かが助けてくれる。大人になっても可愛がってもらってますね。本当に感謝です。

100プロメンバーは男女を問わず、いろいろな職業や年齢の方がおられ、いろいろな考え方やアイデアが生まれ、勉強になることばかりです。毎日、自分がバージョンアップしている気がします。

ここ数年で、移住してくれる人もいらっしゃいました。一方で、公立保育所がなくなり中学校も廃校の危機を迎えるなど、厳しい状況であることに変わりはありません。でもだからこそ、できることをしていきたいです。

特に取り組みたいのは、教育のまちづくり。小学校から高校まで、ここでしかできない教育をすることで、人が集まる。特に発想力があり豊かな人間性をもつ子どもを育てていきたいですね。小学校のうちは、自然に触れて、教科書に書いてあることを実際に外で学べるような教育、高校生になったら、生きる目的や学ぶ目的を考えられるような教育と、その時々に必要な教育が作れればと考えています。自ら事や物を創り出す「創造家が生まれる街」シリコンバレーならぬ「新庄バレー」をつくることが目標ですね。

自分の子どもを含め、ここで育った子どもたちを地域に縛りたいわけではありません。外を見てほしいとも思っています。ただ、この地で楽しかった思い出があれば、外に出て迷ったとき、帰ってみようかなと思えるきっかけの一つになる。僕らは残すことよりも、そのきっかけづくりをすべきだと思っています。

100年という長い時間をかけて木が人の手によって受け継がれていくように、地域でも、ここで学んだことを生かして次の世代に受け渡していけるような循環を作っていきたいです。

2021.11.08

インタビュー・ライティング | 粟村千愛
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