誰かを幸せにするものづくりをするために。
作り手と使い手を繋ぐ循環を生み出す。

大手メーカーで作り手と使い手をつなぐ循環をつくるべく活動する横田さん。小さい頃からものづくりが大好きで研究者を目指した横田さんですが、研究所で感じたのは作り手の現場と使い手となるお客さんとの乖離だったと言います。それを解決すべく奮闘してきた横田さんの想い、目指す未来とは。お話を伺います。

横田 泰代

よこた やすよ|富士フイルムホールディングス株式会社ICT戦略部
大阪市立大学工学部を卒業後、2006年に富士フイルム株式会社入社。インクジェットの研究・開発に携わった後、新規事業創出プログラムの事務局を担う。その後デジタルマーケティングを担当したのち、現部署へ。社内有志団体「くものす」ではネットワーキングを担当。大企業の若手中堅社員の有志団体「ONE JAPAN」では、運営メンバーとしてデジタルコミュニケーションを担当。

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人を喜ばせるものづくり


香川県丸亀市で生まれました。父と母、兄と妹の5人家族。同じ敷地に祖父母も暮らしていて、よく遊んでもらいました。

黙々とものを作るのが好きで、没頭するとご飯の時間を忘れることも。お菓子づくりが好きな母と一緒にお菓子やパンを作ったり、刺繍や裁縫を教えてもらってうさぎのぬいぐるみと、その子に着せる洋服を作ったりしていました。

父は建設業を営んでおり、小さいころから川や橋、ダムや道路など建設現場に連れて行ってくれました。「あれはお父さんたちがつくったんだよ」と聞かされ、そのことを誇りに思いました。コンクリートを均す作業を体験させてもらったり、重機の展示会に連れて行ってもらいショベルカーを操縦させてもらったり。家の犬小屋をリフォームしたときには、一緒にコンクリートを均し、足跡を付けました。ものづくりの面白さや責任感、妥協しないことの大切さなど、たくさんのことを教えてもらいました。

興味は幅広く、絵を描いたり、大きな船の模型を作ったり、工作の授業では廃材のアルミ缶でかぼちゃの馬車を作ったり。中学の技術の時間にはんだごてを使って電子回路を組み立てるのも楽しかったです。

作るだけではなく、観察して、想像するのも好きでしたね。ある日お菓子パッケージがいつもと違うことに気づいたんです。開け方が変わっていました。以前よりもパッケージが開けやすくなっているんです。売り物は中身のお菓子なのに、パッケージの箱にもあける人への思いやりが詰まっていて、そこまでこだわるものづくりに感動しました。この箱を少しでも開けやすくするためだけに、生産ラインの一部を変更したんだろうか。どれくらいの方が関わって、どれくらいの時間を費やしたんだろうか。そんなことを想像しては、ワクワクする子どもでした。

地元の小中学校を卒業すると、高校は家から歩いて通えるということと、祖父の希望もあって、地元の進学校へ進みました。その頃、欲しいスカートがあったのですが、どこにも売っていなかったので自分でデザインして作りました。そのスカートを履いて出かけると、友達から「私のも作って」と言われ、予約の列が。

もともと世話好きな性格。「この子は何が好きかな」「どんなものが似合うかな」と、その子に似合うデザインを考えました。出来上がったスカートをその子が着て、喜んでくれる姿を想像しながらつくる時間がすごく楽しかったです。自分のためにものを作るのも良いですが、誰かの気持ちを考え、欲しいものを用意する過程が楽しいなと思いました。実際に作ったスカートを友達は喜んでくれました。

研究者を目指して


高校では、物理や化学に関心を持ちました。幼い頃に父が、なぜ虹は見えるのか?なぜ夕日は赤いのか?など、いろいろな自然現象について教えてくれました。父から教わった内容を、より深化させて学べるのがすごく面白かったのです。

虹や夕焼けなどの現象のメカニズムや、光や音が自分の目や耳に届く原理。ああ綺麗だな、で終わるのではなく、日常の中にある物理現象の原理原則を理解できることが楽しかったです。

一つのことに没頭する職人のような仕事に憧れがありました。ただ、自立して生きていくためには安定した収入も必要だと考え、研究者を目指そうと思ったのです。たとえば携帯電話のように、人々の生活を便利にし、なくてはならないものになり使いつがれる、世の中に残る技術を作りたいと思いました。

特に材料系の研究者になりたいと思い、得意だった物理・化学の配点が高い、材料の研究ができる大学に入学。しかし入ってみると、材料の中でも金属や半導体、カーボンファイバーなど、機械系の材料を扱う学科だったんです。私の思い描いていた材料とは少し違ったんです。

でもせっかく入ったのだからと、様々な授業をとって勉強しました。講義が終わった後も図書館に行って、参考になりそうな本を2~3冊借りて納得いくまで復習していました。

大学の外では、機会があって富士フイルムのデジタルカメラを販売するアルバイトをすることになりました。販売に出る前に、デジタルカメラの仕組みと製品の特長を教わる説明会がありました。参加すると、色再現性にすごくこだわりを持っている会社だということがわかりました。いろいろなメーカーがあるけれど、何か一つのことにこだわっている会社は素敵だなと思いました。

あっという間に就職活動の時期。周りは大学院へ進学する人ばかりで、どうやって就職活動するかよくわからず、出遅れてしまいました。そんな中で、学校推薦の枠で富士フイルムを見つけました。一つのことにこだわっている魂のこもった会社がいいなと思った気持ちを思い出し、応募。入社できることになりました。

使われるものを作りたい


最初に配属されたのは、インクジェットの印刷機の研究・開発をする部署です。これからはデジタルの時代だと感じていましたし、大学で習ったプログラミングが楽しかったので、本当はソフトウェア開発に行きたい気持ちがあったんです。それが叶わなくて残念に感じました。しかも、インクジェットプリンターは何十年も前に開発され、すでに家庭用に普及しています。何故今更研究をするのかと思いました。

しかし、やってみてこの研究の意義がわかったんです。部署で作ろうとしていたのは、商業用の印刷機。生産性が求められるので、用紙の上を何度も往復させて印刷する家庭用とは違い、1回通しただけで印刷しなければなりません。失敗が許されないインクジェットプリンター。それを実現させるための技術には、かなり痺れるものがありました。

周りは優秀な研究員の方々ばかり。数百名が導入された大規模なプロジェクトで、なんとか実現させたいと、みんな遅くまで仕事に取り組んでいました。

しかし、技術的難易度を無視した納期設定と度重なる仕様追加で、なかなか製品化できなくて。走っても走ってもゴールを引き延ばされている。そんな気持ちになりました。そしてある日、事業部の方から「こんなに待っているのに、いつまでたっても作ってくれない」と言われてしまいました。

悔しかったです。研究者はみんな遅くまで頑張っているんです。家よりも研究室にいることの方が多く、帰ったら子どもに「パパ、また来てね」と言われたと話す人もいました。

技術の難しさと納期の設定が合っていないと感じていましたし、最初からこんな高品質を求められる製品にチャレンジしなければならないのか、疑問に感じていました。こんなに時間やお金をかけて、一体いくらで売れるのか?デジタルの時代にこんな高価な印刷機を誰か買うのか?

ここで働く人は、誰かを幸せにするためだったら寝る間も惜しんでものづくりができる人たちです。それなのにもし、売れなくて、誰にも使われないものになってしまったら、報われないと感じました。私たち研究者の熱意や努力、人生を無駄にしないでほしいと思いました。

マーケティングから関われないことが悔しい。だから、技術がわかる自分がお客さんの声を聞いて、研究者が効率よく働けるための役割を担いたい。そう思い、異動の希望を出しました。

提案制度で知った社内の面白さ


異動の結果、出向して他社との協業拠点としてできた、オープンイノベーションハブの担当になりました。他社のお客様に社内の技術などを説明し、協業のきっかけづくりをする仕事です。その中で聞いたお客さんの声を、ハブに足を運んでくれた研究者の方にお伝えするようにしました。生のお客さんからの声を、研究者の方はすごく喜んでくれました。「自分のような経験を他の研究者にもしてもらいたい」と会社へ伝えていたところ、研究者を国内外のイノベーションハブに派遣する活動が生まれました。

ただ、そこでの仕事はある程度業務が固定されていました。自分の成長を描けずに悩んでいたところ、上司の計らいでイノベーションアイデア提案制度の事務局を担当することになりました。

最初は正直、提案制度に良いイメージを持っていませんでした。元々研究・開発部門にいたので、このような本社部門の活動をどこか冷ややかな目で見ていました。会社や仕事への不満のはけ口として作られた制度でイノベーションにつながる面白いアイデアなど集まらないと。しかし、一緒に制度作りに取り組む同期は、前向きな言葉で制度の目的や位置づけを説明してくれました。

それを聞いて、「やる人次第で変えられるのかも?」と感じました。一晩おいて考えるうちに、「この制度をどういう風に大きくしていきたいか」というロードマップを描くことができました。「社内でやりたいことがある人が社内ベンチャーを立ち上げるような制度にできたらいいな」とイメージが浮かんできたのです。

これまで、やれと言われたからやらなければならない仕事が多くありました。でも今回は最初に目的を共有してもらったことで、「自分なりのゴール」を描くことができました。情報が得られることはすごく大事なんだとわかりました。

それから、事務局の運営や制度の設計に主体的に取り組み、他社へ先行事例をヒアリングに行き、社内では技術者と非技術者の間に入ってコミュニケーションをとっていきました。技術者との共通言語を持っていることは、仕事を進める上で大きな助けになりました。社内の大多数を占める技術者の方々にメッセージを伝え、大きな協力を得ることができました。

国内外問わず、社内の方からたくさんのアイデアが集まりました。提案を一つひとつ見てみると、面白いものがたくさんありました。「こんな面白いことを考えてる人たちがたくさんいるんだ」という喜びとともに、それを自分しか知らないのが勿体無い、と思いました。このアイデアをもっと多くの人に伝えたい。加えて、こんな風にやりたいことのある人同士が繋がったら、もっと良い提案ができるんじゃないか、と。そこから、社内をつなげられないかと考え始めました。

つながり、可視化することで生まれる


そんなある日、ヒアリングに協力してくれていた方が、有志団体を作りたいと動いていると知りました。私も声をかけてもらい、数名と一緒に活動することになりました。

キックオフの飲み会の席で、何か名前をつけたいねとアイデアを出し合い。会社の隅っこにいて、縦横斜めに繋がっている。意外に強くて、取り払われても増殖する。消滅してしまっても、やりたい人が集まってまた作れる。そんなイメージから「くものす」という名前に決定しました。

メンバーには、「課長クラスにならないと隣の部署と話ができないと感じる」「人脈がなくて2、30代だと大きな提案ができないのはつまらない」「社内にはいろんな魅力的な技術があるのに、お互いを知らずにそれぞれに研究しているのはもったいない」など、それぞれ抱えている課題感がありました。それらを変えていくために社内で繋がる活動を始めました。

私は社内SNSでの発信や共有フォルダの整備などの情報共有の部分を担当しながら、同時期にできた大企業の若手中堅有志団体の実践コミュニティ「ONE JAPAN」にも関わるようになりました。ONE JAPANには様々な有志団体が所属しています。研究者の方々に他業界を知ってもらうきっかけにしたいと、ONEJAPANのメンバーと研究者の方とのディスカッションの機会をつくったり、本社で開いたSDGsの合同勉強会にONE JAPANメンバーを招待したりして活動しました。

ONE JAPANはどんどん組織が大きくなり、情報共有が難しくなっていくのを感じました。幹事が考えていることが、各団体の代表者に伝わりにくくなっていたんです。メンバーにも同じように感じている方がいました。その中で、ある方が代表者会議で、情報共有について問題提起してくれたんです。

それを受けて、コミュニケーション分科会が立ち上がることになりました。私もメンバーに入ることにしました。まずは幹事に集中してしまう情報を整理し、置く場所やフローを整備して、情報を受け取る代表者たちの負担を減らすことからスタート。情報共有の基盤を構築していきました。

その中で重要だと感じたのは「可視化」です。大量のデータを分析して可視化するツール、議論や考えていることを絵や文字で表す技術やファシリテーションスキル、そこに行けば全部そろっているフォルダやサイトの整備…。そういったことを通して、メンバーみんなが情報を見えるようにしておくことに大きな意味を感じました。

思えば、研究所にいた時は、「どのような市場環境で」「誰が何を実現するために必要としているのか」など、自分が納得できるまで問える状況になかった。だから、自分がやっていることの価値がわからず辛かったのだと思います。目的や周りの情報がわかるように、可視化する。時にはその情報すらないこともあるかもしれない。でもそれ自体を共有することで、みんなが共通認識を持って、同じ方向に走りやすくなるのだとわかりました。

より良いものづくりのための循環を


今は、富士フイルムホールディングスのICT戦略部に所属。グローバル展開するグループ会社のITに関わる予算の可視化・管理をしています。社内有志団体のくものすでは、ネットワーキング担当になりました。

加えて、ONE JAPANでは運営事務局メンバーとしてデジタルコミュニケーションを担当し、主にインナーコミュニケーションをリードしています。情報共有の基盤は整ってきたので、今は団体の内外でのコミュニケーション設計をしています。

コロナ禍でオフラインの場が持ちにくくなり、交流はオンラインになりました。どこからでも参加できるというメリットの一方、つながりを作り、保ち続けることがより難しくなっていると感じます。そこで、内部のコミュニケーション活性化のために、少人数で双方向のコミュニケーションができる「ゆる場」を企画しました。勉強会などとは違った、ゆるい交流の機会で、初めてでも参加しやすく、共通のテーマでつながり、やりたい人がメインのスピーカーになれる場です。誰でも運用できるような仕組みに落として、継続して開催できるようにしています。

外部に対しては、2021年の大規模カンファレンスで初めて、アフターイベントを企画しました。カンファレンスには数千人が参加してくれますが、その後も関わっていける方が少ないことに課題感がありました。そこで、こちらも少人数で交流できる機会を作りました。

登壇者と参加者ではなく、フラットにお話ししていただける場にしました。壇の上にいた人も、苦しんで悩んで今があるんだと知ってもらうことで、身近に感じて欲しいと考えたのです。実際参加いただいた方の反響もよく、一つ良いつながりの形を作れたのではないかと思います。

私にとって、今は様々な業務を通して力をつけていく時期だと考えています。社内外での活動を通してマネジメント力やプロジェクト遂行力を身につけて、いずれはビジネス企画をやりたいですね。研究者のときに感じた、マーケティングから関わり、研究者の働き方を変えたいという想いは変わりません。それは、より良いものづくりをするためにも重要なことだと思います。

企画、開発、製造、サービスは循環しているべき。いろんな部署を経験したからこそ、そう思うようになりました。全ての部署が必要な情報を共有することで循環がぐるぐる回って、良いものをどんどん生み出すような会社にしたいと思っています。それができた時、研究者たちが使われないものをつくるようなことはなくなり、本当に価値のあるものを生み出せるようになると思うのです。

そのためには、ONE JAPANの中でやったように、情報を手に取りやすいところに置いて活用できるようにすることも大事。データを扱えるようになることも、循環を作る一歩だと思っています。これからも新しいことに挑戦しながら、作り手と使い手をつなぐ循環を作っていきたいです。

2021.12.13

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛

横田 泰代

よこた やすよ|富士フイルムホールディングス株式会社ICT戦略部
大阪市立大学工学部を卒業後、2006年に富士フイルム株式会社入社。インクジェットの研究・開発に携わった後、新規事業創出プログラムの事務局を担う。その後デジタルマーケティングを担当したのち、現部署へ。社内有志団体「くものす」ではネットワーキングを担当。大企業の若手中堅社員の有志団体「ONE JAPAN」では、運営メンバーとしてデジタルコミュニケーションを担当。

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