定年退職後に見えた新たな仕事と夢。
人への投資がセカンドキャリアを形づくる。

「サラリーマンが退職後、幸せな生活を送れるよう支援する」という信念のもと活動する、経済コラムニストの大江さん。長年勤めてきた証券会社を定年退職後、コラムニストへ転身されたそう。自分らしいセカンドキャリアを見つけたきっかけとは?お話を伺いました。

大江 英樹

おおえ ひでき|経済コラムニスト
1952年、大阪府生まれ。甲南大学経済学部卒業後、野村證券に入社。25年に渡り個人の資産運用業務などに携わる。定年退職後に独立し、オフィス・リベルタスを設立。CFP、日本証券アナリスト協会検定会員。近著に『あなたが投資で儲からない理由』(日経プレミアム)。そのほか、『定年前、しなくていい5つのこと』(光文社新書) など著書多数。

ツケは払わされる。貯金はおろせる


大阪市で生まれました。脱サラをして事業を始めた父、商人気質の母との3人暮らしです。腹違いの兄弟がいましたが、一緒に住んでおらず一人っ子のように育ちました。不自由ない暮らしをしていたのですが、3歳のとき父の事業が失敗。住む場所を転々とし、みかん箱の上でご飯を食べるような生活が始まりました。

小学生の時、大阪に戻ったのですが、近所の子どもの3分の1は学校に行かず、鉄屑を拾って売っているような環境の所でした。幸い私は、住む場所から離れた小学校に電車で通わせてもらい、勉強できていました。でも友達とはあまり群れず、一人で読書する方が好きでしたね。人と同じことをするのが好きではありませんでした。

小学校高学年の時に、自然豊かな兵庫に引っ越しました。野山を駆け回ったりカブトムシを獲りに行ったりして、友達と遊ぶことが増え、社交的になりましたね。

中学に入る頃には父の事業の業績が上向き、大学までエスカレーター式で進める学校に入学。ビートルズにハマり、3年生になったとき武道館へライブを見に行くことができました。歯磨き製品についていた応募券で申し込んだら、奇跡的にチケットが当たったんです。一生に一度のお願いだからと父に泣いて頼み込んで見に行かせてもらいました。

ビートルズに憧れて、高校時代は友人とバンドを組み、毎週末には神戸のアメリカンスクールのダンスパーティーで演奏。青春を謳歌していました。

大学はそのまま、エスカレーターで進学しました。その頃、それまで喧嘩が多かった母と、なぜか仲良くなり、お茶を飲みながらいろいろな話をするようになりました。ある日、母から「ツケはいつかは払わされる。貯金はいつかおろせる」という言葉を聞かされました。「ツケ」は人に何かやってもらったこと、「貯金」は人のために何かしてあげたことです。

「ごめんね、悪いね」と人にいろんなことをお願いしてやってもらったツケはいつか必ず払わされる。反対に、人に何かしてあげる貯金を積み重ねていけば、どこかで必ず返ってくるという話をしてくれました。色々な人生の教訓を話してくれた中で、この言葉は強烈に残りましたね。

そんな元気だった母は、ある日突然倒れ、亡くなりました。大学2年生の時でした。結婚前は自分で商売を切り盛りしていた母は、「商売やるってのは大変だから、大企業に入ってサラリーマンになんなさい」とよく言っていたんです。その言葉に加えて、事業に失敗する父の背中も見てきたので、自然と大企業のサラリーマンを目指すように。そして大学卒業後、大手証券会社に入社しました。

営業マンとして奮闘した若手時代


大学時代とうって変わり、社会人生活は厳しかったですね。毎朝5時に起床、6時半に会社行って、夜中の11時まで営業電話をする日々。夏の暑い日には、徒歩もしくは自転車で一日中外回り営業。帰宅後、背広を見ると塩を吹いていましたよ。そういうのが当たり前の時代でした。

入社して2、3年目くらいまでは嫌で嫌でたまらなくて、正直仕事を辞めたいなと思っていました。でもだんだん順応するようになり、転職したいという考えはなくなりましたね。自分が頑張らない限りは、どこの会社に行っても結局一緒。幸福の青い鳥なんてどこにもいない、と。

昇格・昇進したいという気持ちは常に持っていました。そして入社7年目のとき、ポスト課長的な役割を与えられたんです。

メインの仕事は国債の販売。売り上げ目標を達成するにはどうすればいいか考え、ただリストの上から順番に電話をかけるのではなく、分析をしました。店に来るお客さん、取引のあるお客さんの住所から分布状況を調べ、取引率と来店率を地域ごとにわりだしたのです。来店率が低い地域は電話、大きい地域はチームメンバーでチラシを配ることにしました。

結果、分析が当たり、営業成績も大きく上がりましたね。自分一人だけではなく、チームでやった仕事で成果を上げた時の楽しさ、面白さを実感しました。とても楽しかったですね。

昇格ルートから外れ、負けを認める


全国転勤はあったものの、入社以来ずっと営業畑で、ノルマを追い続けていました。昇格していくには、証券会社の花形とされる営業部門でとにかくノルマをこなしながら、階段を登っていかないといけなかったのです。

でも45歳のとき、その階段から逸れてしまいました。俗に言う「窓際」に行ったのです。
メインルートから外され、最初はもやもやしていました。でも年齢的に昇格はもう厳しいと悟りました。役員や部長になれるかどうかを決めるのは自分ではないからどうしようもない。出世レースでの負けを認めました。

考えてみると会社の中で、自分で物事を決められるのは最終的には社長だけです。だから副社長や役員ではなく、社長にならないと全く意味がないと思ったんですよね。大企業の社長になれるのなら、友も家族も捨て、全てを賭けて勝負する価値はあるかもしれない。しかしそれでも、なれる確率はほんのわずか。実力だけでなく運が必要な世界ですからそんな確率の低い賭けに出るのは割が合わないんですよね。そう思ってからは仕事に対する発想を全く変えました。

それまで仕事は昇格するための手段でしたが、これからは仕事自体を目的にしようと考えたのです。仕事をどうやって面白くできるか考え、特定の分野でエキスパートになってみせる。そう考えを改めました。

長年、個人相手に投資信託を販売していた僕は、50歳手前で年金部門に配属されました。企業相手に、企業年金の事務を受託する仕事です。同じ営業といっても、必要な知識やノウハウが全然違いました。この部門で一流のエキスパートになるために色々と工夫しましたね。

特に鍛えたのはプレゼンテーション能力です。営業先の社長以下、担当課長が、複数の会社のプレゼンを聞いて委託先を決定するので、プレゼンテーション能力は必要不可欠なのです。伝えたいことがどうやったら伝わるか、構成力や表現力を磨きました。

ビジネススキルだけでなく、年金部門になったことで人脈も変わりました。定年退職後の人間関係を、会社関係者だけで完結したくないという思いがあったので、新しい人脈も大切にしながら日々働いていました。

手助けをして舞い込んだチャンス


定年退職後は、自分で事業に挑戦しようと考えていました。働いていた時のノウハウを生かして、確定拠出年金のセミナーを事業の軸にしようと考えたんです。しかし、いざ自分で事業を立ち上げると、依頼は全く来ませんでした。2年ほど鳴かず飛ばずの状態が続きます。とにかく人との繋がりを作ろうと、いろんな会合に顔を出すようになりました。趣味の集まり、投資家の人たちの集まり、あるいはFacebookのオフ会などですね。

顔を出しているうちに「大江さんは証券会社勤めだったんですね」と声をかけられるようになり、色々な相談にのるようになったのです。自分が解決できることであれば手助けしたり、分からない場合は知り合いの税理士さんに繋いだり。困っている人を真面目に手助けしていました。母から聞いたツケと貯金の話も覚えていましたし、自分でできることならやった方がいいと思いましたね。そうすると、手助けした人からお返しがきたり、別のところから仕事が舞い込んでくるようになったのです。

ある日、とある新聞社から取材を申し込まれました。以前、手助けした方が私に繋いでくれたのです。その方が本を執筆するときに、確定拠出年金のことで分からないことがあると相談を受けて、見てあげたんですね。最初はその方に取材申し込みがあったようなのですが、「大江さんの方が詳しいから」と私を紹介してくれたのです。

取材を受けた記事が2014年1月の夕刊に出ると、反響がよかったようで、記者の方から連載コラムの執筆のお声がけをいただきました。喜んでやらせてくださいとお受けして、連載コラムがスタートしたんです。文章を書く最初の仕事でした。誰かのために何かしてあげることは、巡り巡って自分のところへ戻ってくるのだなと実感しましたね。

執筆の経験は全くなかったのですが、会社員時代にプレゼンテーション能力を鍛えたことで物事を論理的に考えられるようになり、文章を書くときに役に立ちました。退職後には考えてもいなかった文章を書くということが、自分の仕事になっていったんです。

今の仕事でプロを目指し、人に投資せよ


現在は、妻と二人で株式会社オフィス・リベルタスを経営しています。「サラリーマンがリタイアしたあとに幸せな暮らしができるように支援する」というミッションのもと、執筆、講演活動をしています。金融機関などの業者側ではなく、投資家や一般消費者の立場に立って情報発信することを心がけています。

ただ、リタイア後に本当に大事なのは、お金ではなく、自分の居場所だと思っています。なぜなら、リタイア後は会社の繋がりがなくなり、孤独を感じるようになるから。会社では、気に入らない上司や嫌な部下がいたとしても、常に人とのつながりがあります。会社の中でしか付き合いをしていないと、やめた途端に孤独になってしまうのです。

僕はサラリーマンの50代の人には、会社の中で早く成仏しなさいと言っているんです。いつまでも会社の中での出世や昇格にこだわらず、早く気持ちを切り替える。仕事以外の時間は、意識して会社の外に友達を作っておく。そうすることで、新たに自分の居場所ができます。仕事をするにせよしないにせよ、自分の居場所があり友達や家族がいて、生きがいのあることができる。そんな風に生活が充実して幸せな人を増やしたいですね。

退職後、独立してからより大事だと思うのは、自分ではなく人に投資することです。投資するといっても、別に誰かの事業にお金を出すという意味ではなくて、人のためになることをやってあげるということですね。「情けは人の為ならず」の通り、やったことはすぐには返って来なくても、いつか絶対自分のところに返ってきます。会社でも同僚の仕事を自ら声をかけて、手伝ってあげるということを積み重ねたら、信頼に繋がったりしますよね。自分の得にはならないけど、人のためになることをやってあげたらいいんです。

それから、今の仕事を頑張ることですね。みんな、自分のやってることがちょっと行き詰まると、すぐキャリア開発とか、外にでて青い鳥を探そうしますが、そんなことよりも今自分がやっている仕事をもっとモノにした方がいいと思います。今の仕事で成果を上げて、一流のプロを目指す。業界で有名になれば、自分から売り込みにいかなくても、相手に必要とされ、向こうから仕事はやって来ますから。

今後も、今の仕事を続けていきたいですね。ただ、世阿弥が『風姿花伝』の中で書いているように、やっぱり「珍しきが花」っていうのは大事なんです。だから書くにしても、どんどん新しいことをしていかないといけません。今の夢は、小説を書くことです。面白いだろうなと好奇心がありますね。常に人と違う、新しいことに挑戦し続けたいと思っています。

2021.08.05

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | なんしゅ

大江 英樹

おおえ ひでき|経済コラムニスト
1952年、大阪府生まれ。甲南大学経済学部卒業後、野村證券に入社。25年に渡り個人の資産運用業務などに携わる。定年退職後に独立し、オフィス・リベルタスを設立。CFP、日本証券アナリスト協会検定会員。近著に『あなたが投資で儲からない理由』(日経プレミアム)。そのほか、『定年前、しなくていい5つのこと』(光文社新書) など著書多数。

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