苦しくても悔しくても、ねだるな、勝ち取れ。
障がい者の未来を作るコーディネーターに

高齢者の方々の「ありがとう」に支えられ、介護士としての仕事に魂を注いできた計良さん。社会福祉士の国家資格を取得した矢先、脳梗塞を患い、左半身麻痺と視野障害に。人生最大の苦難を経験しながらも、「障がいを持った自分だからこそできること」を追い続ける計良さんの想いを伺いました。

計良 知宗

けら とものり|障がいある人の未来をつくる
1983年、新潟県佐渡市生まれ。中学生の時のボランティアをきっかけに介護士の仕事に惹かれ、福祉の世界へ。社会人生活4年目となる年に、脳梗塞を発症。左半身麻痺と視野障害を背負いながらも、障がい者の未来を作るコーディネーターになるという野望を持ち奮闘中。

人に喜んでもらえる仕事


新潟県佐渡市で生まれました。祖父母、両親が米と柿の兼業農家だったので、よく柿の収穫などを手伝っていましたね。ただ、手伝うよりも遊びたい気持ちが強くて。農作業ができない雨の日がうれしかったです(笑)。

中学校に進学してからは、父の影響でテニスを始めました。父に連れられて社会人テニスの活動にも顔を出すように。親以外の大人の人と触れあれる時間が好きでしたね。その中に、声は大きくないけれど、言うべきことはきちんと言うかっこいいお兄さんがいて、特に憧れていました。その人の影響もあり、どんどんテニスにのめり込んでいきました。

そんな冬、慰問活動として、福祉施設にボランティアにいくことになったんです。テニス部員として体が鈍るのが嫌だったので、参加しようかな、くらいの軽い気持ちでした。でも、トレーニングのつもりでひたすら窓拭きをしていると、高齢者のみなさんがそれを喜んでくれるんですよね。自分のやったことを喜んでもらえるのが嬉しくて、福祉施設っていいものなんだなと思いました。こんなふうに自分のしたことで喜んでもらえるなら、施設で働くのはやりがいがあるだろうな、と。

ただ、そのボランティアのとき、「あんちゃん、起こしてくれ」と医療用のチューブをつけた高齢者の方に言われて。言われるがままに体を動かそうとしていたら、介護士の方が慌てて来て、「ちょっと、やめてください!」と注意を受けてしまったんです。

ボランティアを始める前に、利用者さんに触らないようにと注意をされていたと思うのですが、それがすっかり抜けていて。驚いたとともに、不用意に触ってはいけないということに納得しました。利用者の方に言われたことを鵜呑みにして行動するのではなくて、相手の様子を見て判断することが大事なんだなと。「相手のため」を思うなら、真剣に向き合わないといけないと学びました。

介護職を目指して努力した学生時代


高校は、実家近くの学校に進学。バドミントン部と囲碁将棋部、演劇部に入りました。特に囲碁は、級者のブロックで優勝しました。お年寄りは囲碁や将棋が好きな人が多かったので、ぼんやりと「介護職として働いても役に立ちそうだな」という気持ちもありました。

高校2年生になると、だんだん進路のことを考えるようになって。何をやろうかと考えた時に、臨床心理士に興味を持ちました。でも、臨床心理士になるために、当時は大学院まで出ないといけない。親からは、「大学院までは出せないよ」とあらかじめ言われていたんです。

そこで他の仕事を考えた時、印象に残っていたのが介護の仕事でした。中学生の時に、高齢者の方が介護士の方に対して「ありがとう」と言っているところを見ていて、その時の高揚感が忘れられなかったんです。その時の自分の感性を信じて、目指してみようかな、と思うようになりました。

医療系のお仕事なども「感謝される仕事」ではありますが、自分の中では、介護が身近だったんです。自分が何かすることで喜んでくれる人がいる、そんな仕事をしたいと思うようになりました。

調べるうち、幅広く福祉領域に携わる社会福祉士のほかに、精神に障がいのある人たちの手助けや訓練をする精神保健福祉士の仕事にも興味を持つように。両方の資格を取ることを目指しました。そこで、新潟市にある専門学校と、群馬県にある通信制の4年制大学に通いました。

進学してから考えていたのは、何か自分に武器・強みになるものがあったら、卒業してから有利に働けるんじゃないかということでした。極めようと思っていたのが、歌やレクリエーションです。歌も運動も得意かつ好きなので、楽しい歌と運動を高齢者の方々のリハビリにいかせたらいいなと思って力を入れましたね。

将棋や囲碁が共通項に


卒業後は、大阪に移り住み、精神科のクリニックに住み込みで働きながら、精神保健の勉強していました。介護の分野と異なる考え方の一つは、受容より時には突き放すことが求められることでした。ある日のこと。クリニックでは、退勤申告の後、数分の間には出なければならなかったのですが、退勤申告後に電話が鳴りました。患者様からでした。本来なら営業時間ではない旨伝えて明日へ回すところを、未熟な私はひたすら話しを聴きました。すると、警備システムが反応して警告灯が点き、「犯行をやめなさい!」と怒られたんです。それでも、患者様の話を聴きました。しばらくして話が終わり、警備会社へ何も無いことを説明しました。

毎日は寮と職場の往復ばかり。外に出るのはデイケアの送迎の時間と買い物に行く少しの時間だけで、ストレス発散にと、ずっと部屋に閉じこもってゲームをする日々が続いて…。うまく息抜きができず、精神的にきつくなってしまい、転職を考えるようになりました。

その後、大学の知り合いづてで、山形の地へ。介護福祉施設で、介護員として働きました。「介護士」として仕事をしたのはこの時が初めてでしたね。

デイサービス業務も行っている事業者だったので、利用者さんを自宅にお迎えにいくこともありました。迎えにきた僕の顔を見ると、利用者さんから「行きたくない」と拒否されることもあって。

そんな時に、利用者さんとの関係性作りに役立ったのが、囲碁将棋の経験でした。囲碁や将棋をすることが、お年寄りの方と、自分の間の大きな共通点になっていったんです。ひとつの趣味を通して、利用者さんと時間を共にできるのは良い経験でしたね。

人生ここからだ! 未来描いた矢先に…


その介護施設で働いて3年が経った頃。社会福祉士の国家資格を取得し、新しい施設への転職をして、これからだ! という時でした。ある朝目が覚めたら、視野が半分欠けていたんです。おかしいなと思いましたが、痛みもないし、麻痺があるわけでもない。疲れが出たのかなと思い、いつもどおり施設に出勤しようとして同僚に症状を伝えたら「すぐに病院に行け」と言われて、緊急外来に連れていかれたんです。

脳梗塞でした。入院中は時折起こる激しい頭痛と共に「まさか自分が…ありえない」と精神的に不安定になりました。忙しいはずの職員さんを捕まえて話を聞いてもらったり、友達に電話したり、思い切り泣いたりしていました。国家資格を取って、やっと人生ここから始まるぞ、という時だったので、本当に悔しくて。その後くも膜下出血を発症して、左半身麻痺を負ってしまい、治療にも大分時間がかかりました。

ただ、その時家族や友人、医療現場の方がたくさん力を貸してくれたんですよ。まずは、つかまり立ちできるようになり、寝返りも打てるようになって。そこからリハビリをしてベッドから降りて動けるようになりました。自分の世界がベッドの上だけではなくなった瞬間は、とっても嬉しかったです。

生きてる実感を少しずつ得られるようになって、自分のマネジメントは自分でしようと思うようになったんです。そこからがむしゃらに筋トレを頑張って、「どうせ片麻痺なら片麻痺で日本一になってやろう」と、そんな気概でいました。両手を組み、看護師さんを見たら腕上げを何回、看護助手さんは何回、ドクターは、師長はと決めてやっていました。少しずつ重たいものが持てるようになって、さらに体幹の筋肉でしっかり立てるようになっていきました。

障がいがあっても、自分にできることを


退院し療育訓練施設に入所中に東日本大震災が起きたため、入所先から実家に戻ることになったんです。戻ったものの、農業を手伝えるほど体力があるわけではなく、家でリハビリをしながら、作業所に通って仕事を始めました。年齢や障がいのためハンデを負う人たちが集まり、働く場所です。

その後、家を出て佐渡市内の障がい者向けのグループホームに移り、そこから作業所に通うことになりました。

ある朝、作業所までの道のりで、タバコの吸い殻がたくさん落ちていることに気付き、思い立ってゴミ拾いを始めました。ゴミの日にトングとゴミ袋を持って拾って歩くんです。街が綺麗になるのが嬉しくて、段々と遠回りしてゴミ拾いをする距離が伸びていきました。

そんなある日、事件が起きたんです。朝6時くらいからゴミ拾いをしていたら、後ろをパトカーが走っていて。角を曲がっても、また次の角を曲がっても、後ろにいて。つけられていたんですよ。

地域から見たら、変な奴が朝歩いているみたいに見えたのかもしれません。でも、自分が間違ったことをしているつもりはありませんでした。途中で止めたら、やましいことがあったからやめたと思われるかもしれない。それは嫌だから、とにかく続けたかったんです。不審者扱いされても、俺は間違ってない。堂々と、わかってもらえるまで続けたい。障がいがあっても社会の役に立てることを証明したかったんです。

そう思いながらゴミ拾いを続けていたところ、段々と挨拶をしてくれたり、お礼を言ってくれたりする人が現れました。そんな地域のふれあいができたことが嬉しかったです。

「ねだるな、勝ち取れ」


作業所での仕事は、パン作りに使うアルミカップを並べたり、豆を小槌でたたいたりと、単純な作業でした。病気の後遺症で片側が見えないので、「リハビリになるから頑張ろう」と、自分で自分を納得させて仕事をしていました。

でも、月数万の僅かな給料をもらいながら、このまま俺は何十年ここに通うつもりなんだろうと思った時に、ふと、切なくなったんです。それで、パソコンなら出来ると思い、ハローワークの職業訓練講座へ申し込みました。結果的にそこは障がいを理由に断られたのですが、市内の職業訓練校を経て、仕事に使うパソコンスキルを取り戻しました。そして、社会へ出たい焦りから、社会福祉協議会や公共施設へ行き、ボランティアで働かせてもらったんです。

ただ、ボランティアとしての役目をこなすことのほか、常識にも欠けていたため、作業所相当ということで、再び通所することに。今度はパン作りではなく、知的障がいを専門に担当している作業所へ通い、施設の特徴や接し方の難しさも学びました。例えば、優しくしすぎてはいけないことがその一つでした。介護職の経験から、作業所の障がい者をよく心配し、気遣って接していたのですが、相手が恋愛感情を持ってしまうと、その気持ちを抑えられなくなると聞きました。

その後、縁あって市内の自然栽培の農業を行っている作業所へ通うことになりました。周りを見回すと、自分のように力を持て余している人が何人もいることに気がつきました。本当は能力があるのに、障がいがあるから作業場で働くしかない、そんな人たちが。心身に不自由があっても、見方を変えれば、その人は地域の財産になるはずです。条件や環境が整えば、多くの人がもっと社会の役に立てるはずだと思いました。

そこで、今通っている作業所を変えてみよう! と考えました。「この人には、もっと力を生かせるこんな仕事があるんじゃないですか?」と職員の方に伝えたのですが、なかなか取り合ってもらえないんです。障がいがあるから、意見を聞いてさえもらえないと感じて、悔しくなりました。

そんな時、友人に誘われて、あるスクールに通い始めたんです。佐渡市が行っていた事業の一環で、市民の関心や意欲を見つけてやりたいことをサポートし、「一人ひとりが目標を実現しながら生きていく力を身につける」ことを目的としたスクールでした。

スクールは、発見の連続でした。教わることがたくさんすぎて。特に講師の方に言われて印象に残ったのが、「ねだるな、勝ち取れ」という言葉でした。

作業所でのことは納得いかないことも多いけれど、「過去の知識や経験が今のやり方の妨げになっているときは、成果を得るまで続けること」とも、スクールの講師に教えて貰いました。何か知識を盗んでからやめた方が後々役に立ちますしね。今辞めたら、「この仕事が気に入らなかったんだ」「弱いから辞めたんだ」と思われてしまう。「やっぱり、障がい者にはできないじゃん」と言われるのがすごく悔しい。そんな想いがありました。やめたくても苦しくても、悔しさが勝れば続けられるんですよね。誰かのせいにしてなんとかしてほしいとねだるだけではなく、自分で勝ち取っていかなければならないんだと、勇気づけられた一言でした。

また、自分の見ている「○」は他から見たら「△」かもしれない、道理や賛同をえられなければ、自分のやり方を振り返ったほうがいいかもしれない、という考え方も教わりました。この学びの後に、意見の理由を説明して、職員の理解を得るようにしたら、うまくいくことがありました。

障がいがある人の、未来を作りたい


今は、作業所で働きながら、ゴミ拾いも続けています。1時間から90分ほど、国道沿いを歩いて拾います。ゴミが多いときは袋2つ分になることもありますよ。続けるうちに、最近は国道を越えて海岸沿いまで拾いに行けるようになりました。

今後は、「就職の見える作業所」を作りたいと思っています。私が通ってきた作業所とそこへ繋ぐマネージャーや家族、福祉支援者は、重度の障がいを理由に10年、20年その場所で働き続けることを目標としていました。本当は足りないスキルがあるはずなのに、それを教えてくれないんです。そうではなく、作業所で社会的なスキルを身につけ、自分の強みを見つけ、磨ける。そんな教育要素もある、卒業できる作業所を作りたいですね。

それができれば、本人もですし、障がいを持つ方の親御さんも自分の時間を持つことができます。例えば、都市化や核家族化が、児童虐待や家庭介護の衰退に繋がることもあったかと思うんです。だからこそ、障がい者も福祉施設に限らず人との関わりを増やすことで、彼らを見守る人や、障がい者に対する見方、意見にも広がりが出てくれば、と考えています。障がいがあっても自分の強みを生かして仕事ができるようになれば、日中は社会のために働くことができますし、親御さんにも自分の時間が生まれます。

自分の根っこが農家なもので、一次産業の手伝いができたらいいなとも思っていますね。私が子どもの頃に手伝っていたように、農業は作業を分担できるので、例えば草取りをやってもらうようにしたら、農家さんも助かっていいなと。そんなコーディネートをしていきたいです。スクールでは起業の相談にも乗っていただき、「できるか」「勝てるか」「儲かるか」を合わせて考えていくことや、試行、検証、再試行の早さが大切とも教わりました。よく考えた結果が失敗でも、落ち込んでいるより立ち上がること、その事例や方法まで教えていただきました。

ただ、一人ではできません。まず私は車に乗れませんし、車を運転してくれる人が必要です。ほかにも、様々な分野で力を貸してくれる人が必要なんです。まずは自分の意思を、考えを伝えることから始め、想いを実現していきたいです。

2021.06.21

インタビュー | 粟村 千愛ライティング | 石井 彩

計良 知宗

けら とものり|障がいある人の未来をつくる
1983年、新潟県佐渡市生まれ。中学生の時のボランティアをきっかけに介護士の仕事に惹かれ、福祉の世界へ。社会人生活4年目となる年に、脳梗塞を発症。左半身麻痺と視野障害を背負いながらも、障がい者の未来を作るコーディネーターになるという野望を持ち奮闘中。

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