大企業勤務の安泰の一方で覚えた違和感。
地方移住で見つけた、自分のフィールドと故郷。
長野県佐久市で、地域と首都圏を融合するまちづくりに取り組む柳澤さん。生まれ育った東京、大企業での会社員生活と決別し移住を決断するまでには、どんな葛藤や想いがあったのでしょうか。お話を伺いました。
柳澤 拓道
やなぎさわ たくじ|まちづくりコーディネーター
東京大学卒業後、独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)へ。都心のまちづくりや組織運営などを担当。13年目に自主休職し、長野県佐久市へ移住。コワーキングスペース「ワークテラス佐久」のまちづくりコーディネーターとして、地域のまちづくりに参画し、「ローカルシフト」をキーワードにプロジェクトを推進中。
答えのないものから目を逸らさない
東京都の江戸川区で生まれ、すぐに千葉県の船橋市に移りました。団地で育ち、コンクリートの上で近所の友達と遊んでいましたね。
親が転勤族だったので、幼稚園の年中になると、静岡へ引っ越すことに。船橋の友達と別れるのが嫌で、最初は行きたくありませんでした。でも、実際に行ってみたら、少し車で移動すれば、海も富士山も身近にある。自然に触れるのが楽しくて、川で泳いだり、田んぼでカエルを捕まえたりと毎日遊びまくっていました。
その後、小学3年生でまた引っ越しをして、今度は埼玉県大宮市へ。引っ越しが嫌な気持ちもありましたが、一度離れた都会に近づく期待感があって、なんだかうれしい気分でしたね。
勉強は好きで、苦ではありませんでした。中学校から受験して、中高一貫の進学校へ。多くの時間を費やしたのは部活動です。軽音楽部に入部し、バンドのボーカルを担当しました。しかし、やっているうちに、歌よりも楽器に興味が出てきたんです。周囲は自分より早く楽器を始めているので、今からやっても周りよりうまくなれないと思いました。
どうしようか考え、中学3年生になった時、方向転換してチェロを始めました。他の人があまりやっていない楽器だったので、これなら周りの友人と違うことができると思ったんです。
個人レッスンも受け、極めるつもりで夢中になって練習しましたね。言葉では表現できないことが音ではできる。奏でる音楽によって人を感動させられる。自分の力だけでは到底そんなことはできません。「これがアートの力なんだ」とすっかりチェロの魅力に憑りつかれました。
歴史や哲学も好きだったため、大学は文学部に進みました。経済合理性を優先する周囲の考え方に対して、どこか嫌悪感もありましたね。音楽などのアートは、経済に対しては直接役に立たないけれど、言葉では表せない素晴らしいものを感じさせてくれる。素晴らしいものは、経済と関係ないところにあるんじゃないかと思っていたんです。
キャンパスライフは哲学半分、音楽半分でとても充実していました。哲学は、答えがないものに対して知を以て答えを探す学問です。人は多くの場合、安易に答えを求めがちですが、そもそもなぜ自分が生きているのかにだって答えはありません。そのことに向き合わずにただ今を生きることもできるけれど、答えのないものから目を逸らしたくないと思ったんです。
この感覚は音楽にも共通していました。大学では勉強でも音楽でもひたすら、答えのないものに対して答えを探し求めている感じでしたね。
就職活動が始まると、音楽や哲学に関係する仕事も頭をよぎりました。しかし、現実的に暮らしていけないと感じました。一方で、効率や資本主義を追い求めるような仕事はしたくない。そんな葛藤の中でぼんやりとイメージしていたのは、人の生活に不可欠な部分に関わる仕事です。インフラやまちづくり関係の業界にいければいいなと考えていました。
誰にでもできる仕事への違和感
卒業後は、まちづくりを軸に仕事を探し、独立行政法人に就職しました。1年目から、実際にまちづくりに携わることができましたね。頭の中でぼんやりと考えていたことが、具体的な事業になっていく。最初から事業に関われたことで、まちづくりへの興味は一層強くなりました。
ところが、1年で異動になり、2年目からは総務や広報など組織内部の仕事を担当することに。組織の内側を知ることができたのはよかったですが、どこかで物足りなさはありました。幸い、異動で組織の内部の仕事とまちづくりの仕事を行き来するサイクルだったので、救われましたね。交互に経験することで、会社員として必要なスキルやノウハウが着々と蓄積されていきました。国土交通省へ1年間出向し、霞ヶ関の仕事も経験しました。
ただ、人事異動で必要なパソコンの手配などをしている時期などは、「なんで自分がこの仕事をしているんだろう」と感じることもありました。自分ではなく、他の人でもできる仕事だなと。7、8年働いた頃には、「一度きりの人生、このままでいいんだろうか」という不安が湧き起こってきました。
しかし、転職しようにも、誰にでもできる仕事しかしていない、この会社しか知らない自分は、この組織の中でしか生きていけないのではないか、とも思って。手足をもがれていくような恐怖を感じました。
そんな、漠然とした不安が募りはじめたタイミングで、子どもが産まれました。共働きの妻は産婦人科医。宿直もあるので、0歳児の時から保育園の送り迎えをはじめ、僕一人で子どもの面倒を見ることも多くありました。子ども中心にシフトしたので、生活リズムは大きく変わりましたね。
子どもと過ごす時間が長くなり、子どもの将来や自分の働き方についても考えるようになりました。もっとのびのび育てられないか、もっと柔軟に働けないか…。考えるほどに、モヤモヤは募っていきます。だからといって、保育園と仕事場とを往復する日々の中では、転職なんて考えられません。いまを我慢すればいずれモヤモヤも晴れるだろう。そんな思いで日々を過ごしていました。
地方移住という選択
そんな中、閉塞感を破るきっかけをくれたのは妻の言葉でした。地方出身の妻は、「東京は嫌だ、満員電車に乗りたくない」と、ことあるごとに口にしていました。主に関東圏で育った僕にはなにも響かず、最初は反発していました。ところが、子どもベースで考えるようになると、次第に「確かにそうかもしれない」と思うようになったのです。
休日に子どもを連れて車でちょっと遊びに出かけても、帰りは渋滞でひと苦労。コンテンツは豊富ですが、アクセスに難ありの東京の不便さを実感し、これなら田舎に住んでいる方がいいんじゃないかと思うようになりました。
それに、僕自身も子ども時代に静岡にいた時、すごく楽しかったのを思い出したんです。自然の中で、田んぼでカエルを捕まえたりして遊んでいた、あんな体験を、子どもにもさせてあげたいなと。さらに、妻と結婚した時に、地方に実家があるっていいな、と感じたんですよね。地方に故郷を持てるといいんじゃないかなと思いました。
子どものために、東京を離れて地方で暮らす。そんなビジョンを描くようになり、妻と一緒にまずは場所探しから始めました。東京から70分圏内で、教育環境も充実している。条件面で希望に沿っていた軽井沢が有力候補になりました。
ただ、実際に話を聞いてみると、夏は観光客で渋滞が起きたり、霧が発生しやすかったりと住む上では大変そうな状況もあって。徐々に軽井沢近辺の自治体へ目線が移っていきました。そこで、年間を通して天気が良く、軽井沢にも通うことのできる佐久市がいいのではないかと考えるようになったんです。佐久市は亡き祖父の故郷でもあり、不思議な縁を感じました。
子どものためにベストといえる選択。現地の幼稚園受験も決め、準備は整いました。ところが、まさかの結末が。幼稚園に受からなかったのです。
自分がフィールドを求めていた
子どものための移住計画は白紙になるはずでした。でも、違ったんです。受験に落ちたことで危機に陥ったのは、子どもじゃなくて僕だったんですよ。「子どものためだから長野に行く」と思うことで、子育てを会社を辞めるための理由にしようとしていたんです。
改めて考えてみると、移住をするのは実は自分のためだったんじゃないか、これまでのモヤモヤを全部リセットしたかったんじゃないか、と思えました。
これまでのまちづくりの仕事の中では、地方都市と関わることもありました。でも、僕の仕事は誰かの土地で、誰かのまちづくりをお手伝いする仕事。誰かの支援をすることがメインで、自分で何かをつくったというリアルな実感はありませんでした。何かを作れる、自分のフィールドがなかったんです。そのことに悔しさがありました。
もちろん子どものためでもあるけれど、自分自身が移住したかったんです。妻と話し合って、受験に落ちようが関係ない、自分たちが一度きりの人生を幸せに生きるために移住するんだ、と原点に立ち戻りました。納得した上で、移住する決断をしたんです。
ネット上で面談いただいた方にご紹介をいただき、佐久市のコワーキングスペースの運営など仕事のお話もいただく中で、仲間に恵まれてトントン拍子で準備が進んでいきました。
意を決して、会社の先輩に長野移住の意思を伝えました。移住先でもまちづくりに携わりたいという想いはありましたが、東京から離れるので、今までのような働き方はできません。辞意を伝えたところ、会社の先輩や上司から「地方でまちづくりをやるのであれば、休職でも良いんじゃないか」と言っていただけたんです。前例はありませんでしたが、上層部の方にも、地方に飛び出して実践することは組織にとっても大切だ、とご理解いただけて、休職という形で送り出してもらえました。会社にはとても感謝しているし、これからも自分のできる限りの形で貢献をしていきたいと思っています。
ローカルシフトで地域と首都圏を融合
今は、軽井沢の隣町、長野県佐久市のコワーキングスペース『ワークテラス佐久』でまちづくりコーディネーターとして働いています。市と一緒に地域活性化につながる事業を考えたり、コワーキングスペースを拠点として移住者と地域との関わりしろをつくるために奮闘しています。
加えて、お酒が好きでいろいろ勉強していたことから、長野県内の酒蔵ツーリズムの促進にも取り組んでいます。他にも、チェロの経験も生かして、自然の中で演奏をするアウトドア音楽会を開いたり、佐久エリアの歴史のアーカイブをつくったりと、様々な活動をしています。
佐久市は移住者が多いこともあり、先に移住やUターンしていた方々が地域の人を紹介してくれました。移住者同士でのコミュニティもあり、みんなのおかげでスムーズに地域に溶け込むことができたと感じています。
会社にいた時は、地域に行っても自分には何もできないのではないかと思っていました。でも外に出てみると、前の仕事で行政とやりとりしていたことが役に立ったんです。行政の言葉を話せる人は意外と少なく、僕が社内でしか通じないと思っていたスキルは、実はユニバーサルスキルでした。それも、社外に出たから気づけたことだと思います。
今一番注力しているのは、地域副業の創出ですね。地域の課題から副業案件を創出し、地域に関わりたい首都圏の方や移住者とマッチングすることで、地域の資源と首都圏の人やアイデアを融合し、新しいものを生み出したいと考えています。人口減少時代に正社員の人材を奪い合っても仕方がないので、副業の創出で首都圏と地域でスキルをシェアするんです。
そのために、まず地方側の副業に対する意識を変えていきたいですね。首都圏では大企業でも副業が推奨されつつありますが、地域の側では副業は本職で食べていけない人がするもの、という認識が残っています。首都圏の若者にとって、副業はキャリア形成の上でも最先端でかっこいいものだということ、地域側にとっても優秀な副業人材によって新しいアイデアが入ってくるということを伝えていきたいと思っています。
地域副業によって、東京案件で100%仕事をしている人が、1、2割でも地方案件で働けるようにしたいですね。キーワードは「ローカルシフト」です。例えば、今運営しているコワーキングスペースにも移住者がいますが、彼らの多くはリモートで東京の仕事をしています。ただ、ヒアリングをしてみると、決して佐久で仕事をすることに興味がないわけではない。むしろ地域に関わりたいという人の方が多いです。だったら、時間でもお金でも役割でも、持っている資源の1、2割を使って、地方で何かできないか。ローカルにシフトしてもらえないかと考えています。
それを実践する上で障壁となるものを取り除き、少しでも手軽に挑戦できる仕組みをつくっていきたいですね。首都圏から近いという利点を生かして、まず佐久エリアで形にし、他の地域にも展開していければと思います。
僕自身、移住によって生活が大きく変わりました。子どもの保育園の送り迎えは気兼ねなくできますし、保育園の帰りには日帰り温泉にも行けます。もちろん天然温泉です。食べ物も美味しいし、自分で野菜を収穫する体験もさせてもらい、「人や自然に生かされているな」とリアルに感じられる日々です。
これまでは、手触り感のある仕事ができない“フィールド難民”、地方に田舎を持たない“ふるさと難民”だったのかもしれません。でも今は、自分のフィールド、ふるさとになるだろうと思える場所と出会えました。今はコンサルティング的な動きが多いですが、将来的には自分がもっと地域側のプレイヤーとして、地域の熱量を上げていきたいですね。自分自身が移住者であることも活かして、首都圏と地方とが混ざり合い、新しいものを生み出せるよう活動していきたいです。
2021.02.18
柳澤 拓道
やなぎさわ たくじ|まちづくりコーディネーター
東京大学卒業後、独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)へ。都心のまちづくりや組織運営などを担当。13年目に自主休職し、長野県佐久市へ移住。コワーキングスペース「ワークテラス佐久」のまちづくりコーディネーターとして、地域のまちづくりに参画し、「ローカルシフト」をキーワードにプロジェクトを推進中。
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編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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