あがり症に苦しみ、どん底を見たからこそ。
生きる意味を探すカウンセリングに込める想い。

高校時代に極度のあがり症になり、半引きこもりの日々を送ったという佐藤さん。苦しみではち切れそうになりながら麻雀店で働いていたという佐藤さんが、カウンセラーの道を選んだ理由とは?お話を伺いました。

佐藤 健陽

さとう たけはる|カウンセラー
佐藤たけはるカウンセリングオフィス代表。秋田県出身。福島大学卒業後、麻雀店で勤務。対人援助の仕事に就きたいと考え37歳で上京、福祉の専門学校に入学。卒業後は精神障害者や知的障害者の就労支援に携わる。2017年、カウンセラーとして起業。精神保健福祉士、シニア・アドラー・カウンセラー。アドラー心理学ライフスタイル診断をライフワークに活動。

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授業中、突然襲った緊張


秋田県湯沢市で二人兄弟の次男として生まれました。近所の子たちと缶蹴りをしたり虫取りをしたり、とにかく遊びまわっていましたね。

父は代々続く呉服店を営む傍ら、そろばん教室を開いていて、小さい頃から九九を教えられて育ちました。そのせいか成績が良く、運動もできたので、学校生活は順風満帆。中学校ではバスケットボールや駅伝をやって、友達にも恵まれて、楽しく過ごしました。

高校は地元で一番の進学校へ。そこでも成績がよかったので、さらに注目されるようになりました。

そんなある日、国語の授業中、教科書の音読をするよう指名されました。いつものように読み始めると、突然、緊張して息が吸えなくなったんです。うまく読めなくてつっかえ始めて、周りのみんながざわざわして私を見ているのがわかりました。

それまでの私は、「運動ができて、勉強もできて、明るくてモテていい感じの健陽くん」だったんです。そんな自分が、ダメな姿は見せられない。そう思って必死で頑張るのですが、声がブルブル震えてどうしようもなくて。やっとのことで読み終えても、俯いた顔を上げられませんでした。

誰にも言えないあがり症


それから、教室で当てられるたびに、同じ症状が現れるようになりました。先生が近づいてくると、どんどん緊張が高まって酸素が足りなくなるんです。声を出そうとするとぶるっと震えそうになる。なんとか震えないように、必死で読み上げていました。

症状が出るのは人前での音読の時だけだったので、日常生活は問題なく送れます。あがってしまって音読ができない自分を知られてしまったら終わりだと、症状のことは誰にも言えませんでした。完璧な自分でいたいのにこんなのは絶対にだめ、なんとか直そうと深呼吸をしたり、大丈夫だと自己暗示をかけたりと、いろいろな方法を試しました。でも、一人でやればやるほど、授業が怖くなるんです。

ある日、高校を抜け出してこっそり、学校の裏山にある精神科病棟へ行きました。インターネットもない時代、専門の病院に行けば解決策があるのではないかと思ったのです。行ってみると、精神科医の先生とは普通に話せたので、何をしに来たんだ?という顔で薬だけ処方されて帰らされました。

試しに、もらった薬を飲んで授業を受けてみたんです。すると、緊張しなかったんですよ。これがあれば大丈夫だと希望が持てました。でも、喜んだのもつかの間、待てよと思ったんです。俺はこの薬がないと生きていけなくなるんじゃないか、と怖くなって。麻薬みたいに依存したくないと思い、薬を飲むのはやめました。するとまたあがり症が始まって。周りにバレないようごまかしながら、なんとか福島県にある大学に進学しました。

苦しみではち切れそう


大学では、大きな教室で聴講する授業は受けられるものの、ゼミなど少人数の授業で当てられるとあがり症が出ます。それが怖くて授業に行けなくなり、麻雀やパチンコなどに明け暮れるようになりました。賭け事は刺激があって好きだったんです。

麻雀がうまかったので、大学には行けなくても仲間はできて。私の家は麻雀を打つ人の溜まり場になりました。なんとか暮らしていましたが、授業に行けないでいるうち、どんどん人と話すのにも恐怖を感じるようになり、バイトもできなくなってしまって。歯医者に行くことも、床屋に行くことも怖くなって、社会生活が営めなくなったんです。ボロボロでした。

でも、バレたら人生は終わりだと感じていて、自分があがり症で苦しんでいることは誰にも言えませんでした。緊張や不安、恐怖が自分の中でパンパンになって、苦しさで今にもはち切れそうでした。

授業に行けないので留年するうちに、家を溜まり場にしていた仲間も徐々に卒業していき、最後には誰もいなくなってしまいました。生計を立てていたパチンコでも勝てなくなり、暮らしが立ち行かなくなって。働かざるをえない状況になっていたとき、近所の麻雀店の求人を見つけたんです。そこで雇ってもらうことになりました。

もう逃げるのはやめる


なんとか入った麻雀店は、劣悪な環境でした。寮がついているのですが、大人が数人、六畳ほどの部屋に押し込まれ、そこで寝泊まりしながら働くんです。1日16時間労働は当たり前、月2日の休みは9時間労働で、実質的な休みはありませんでした。

店では麻雀を打つのが仕事でしたが、入った初日から麻雀を打つ時も緊張するようになり、毎日苦しみの中にいましたね。一緒に働く人は次々に脱走していきました。でも、オーナーは上場会社の取締役を経験したことがあり、「男は生き様だ」などとカッコイイことをいう人で。この人を信じてついていこうと思っていたので、やめるという選択肢も浮かびませんでした。

仕事柄、司会をしなければならないこともありました。そういう時は何日も前から内容を丸暗記して、毎日練習してなんとかあがり症がバレないようにしていました。何度か心療内科にも通いましたが、効果は得られなかったです。

そんな働き方をして30歳になった時、ある心療内科を訪れました。そこで先生から、「あがり症は治らないよ」と言われたんです。ショックでした。しかし、先生は「治らないけど、忘れることはできる」と続けました。

「人前で話すのは、本来伝えるためですよね。あなたは人にどう思われるかとか、あがらないようにとか、伝えるとは違うところに意識を向けることで、ますますあがっているんじゃないですか。相手に伝えることに集中した時に、あがり症を忘れていくんじゃないですかね」と。

あがることに意識を向ければ向けるほど、ますますあがってしまう。あがることで、さらにそこに意識が向いてしまう。そんな仕組みを聞いて、本当にそうだなと納得しました。

あがり症のことがわかりかけてきた頃、本屋で「森田療法」という治療法の本を見つけたんです。読むと、自分のことがそのまま書いてあって衝撃を受けました。私はずっと、人と話すことから逃げ続けてきたんですよね。就活もできない、学校にも、バイトにも行けない。逃げ続けて、引きこもり一歩手前。そんな自分のことが書かれた本を読んで、逃げてもうまくいかないんだと痛感しました。世界中でどこに行っても逃げ場はないんだ、と。

その時、人と話すことから逃げてきた自分と、向き合わなきゃいけないと思ったんです。もう逃げ場はないというところまで追い込まれたことで、逆に開き直りました。現状をなんとかしよう、と考えるようになったんです。

苦しいのは自分だけじゃなかった


オーナーを信頼して働き続けてきましたが、だんだんと職場にも不満が出てきて、35歳のとき、ついにやめようと決意しました。でも、今のままではあがり症がひどすぎて、まともな仕事ができないのはわかっています。どうしようか考えて、自分の人生を振り返ってみることにしました。

これまでの人生で、自分が好きだったこと、苦手だったこと、わくわくしたこと、感動したこと、夢中になったこと…。心が動いた瞬間を、メモに書きまくって。もうこれ以上書けないというところまで書き切って、全部机に並べてじーっと見つめました。すると、「弱い立場にある人のために生きている時に、自分である実感を得られるんじゃないか」という考えがポンと浮かんできたんです。

子どもの頃に聞いた、自分の身を投げて事故を止めようとした人の話や、人に浮き輪を渡して、自分は沈んでいった人の話をなぜか覚えていて、メモに書いていたんですよね。思い返すと、いつもどこかで、自分を犠牲にして誰かを救うイメージを描いていました。火事が起きている現場で、火の中に飛び込んで人を助けに行く、日常的にそんな想像をしていたことに気が付いたんです。自分を犠牲にしてヒーローになれば、これまでのロクでもない人生を一発逆転できると、どこかで考えていたのかもしれません。

とにかく目標が決まったことで、動けるようになりました。弱い立場にいる人を助けられる方法を探すなかで、「ソーシャルワーカー」という仕事を知りました。一念発起して会社をやめ、資格が取れる夜間の専門学校に通うため上京したのです。

とはいえ、あがり症は続いていたので、学校に通い始めると自己紹介もできませんでした。若い学生たちが一斉に自分を見ると、オリエンテーションでテンパってしまって。「佐藤です」と言ったきり固まってしまいました

自尊心がズタズタになり、なんとかしたいと使ったこともないパソコンで検索。そこで、話し方教室があると知りました。すぐに申し込みましたね。

話し方教室では、最初に申し込んだ理由を開示しなければなりません。これまでずっと恥だと思い、あがり症のことを隠して生きてきたのに、そこでは言うしかありませんでした。自己開示すると、驚くことに、あがり症だという人がたくさんいたんです。

これまで、私にとっては、私が世界中で一番不幸な人でした。麻雀店でみんなが楽しそうに麻雀を打っている中で、私も笑ってみるけれど、内面は死にそうになりながら、なんとか笑顔を貼り付けている。でも、そんな思いをしているのは自分一人じゃなかったんです。

自分だけじゃなかった。それがわかったことで救われました。パンパンの風船みたいだった気持ちが少し楽になり、教室に通ううち、少しずつあがり症がおさまっていったんです。

生きる意味を、事業にする


専門学校を卒業した後は、ソーシャルワーカーとして働くようになりました。最初はあがってしまって大変でしたが、困っている人に価値を提供できるので、大きなやりがいを感じました。資格を取得したり心理学を勉強したりと、積極的に学びましたね。

ただ、ソーシャルワーカーの仕事は9時から17時。少しでも残っていると帰りなさいといってもらえる環境に、これまで四六時中働いていたので、どこか物足りなさを感じました。何か夢中になれるものが欲しいと思ったんです。

もやもやと考えている時、ふと、「そうだ起業しよう」と思いついたんです。自分で事業をやればいいんじゃないかと。そこから、何を事業にしようか考え、カウンセリングだと決めました。学校に通っていたし、弱い立場にある人を助ける、という自分のやりたいこととリンクしたんです。

カウンセリングを習っていた先生に相談に行くと、「カウンセリングで食べていける人は一握り。セミナーをやらないとね」と言われてしまいました。絶句しましたね。カウンセリングをするためには、人生で一番やりたくない「人前で話す」ことをやらないといけないのか、と。

でも、転職した時のように、決めたらやるんです。何についてなら話せるだろうと考えた結果、自分のこの体験を話せばいいんじゃないかと思いつきました。私自身、あがり症で悩んできたからこそ、徐々に克服してきたこの体験をシェアすれば価値になるんじゃないかと。

加えて、生きる意味を悩み抜いた経験から、生きる意味を見つけられるようなサービスを提供したいと思いました。そこで、アドラー心理学を元にした、ライフスタイル診断というサービスも始めることにしたんです。人生を掘り下げることで、自分なりのテーマや価値観を探っていき、1つの物語にまとめるサービスです。

あがり症についてのカウンセリングと、ライフスタイル診断を実際に行うと、予想以上に反響があって、手応えを感じることができました。そして2017年、独立することにしたんです。

120%の感動体験を届ける


今は、佐藤たけはるカウンセリングオフィスの代表として、あがり症専門のカウンセリングの他、ライフスタイル診断を行っています。

世の中には、あがってしまうことで悩んでいる人が多くいます。カウンセリングでは、あがり症を治そうとするのではなく、「あがってもいいんだ」と思えるように物事を捉え直すようにしています。

ライフスタイル診断では、50代でキャリアを再考してる人や、子育てで悩む人、性的虐待を受けたことで悩んでいる人など、様々な人の話をお聞きしています。テーマや価値観を掘り下げていくことで、自分でも知らなかった自分に出会い、否定していた自分を受け入れられるようになる。自分の生きる意味を見つけられる。そんな体験をしていただけるように、一人ひとりと向き合っています。実際に、自分の物語を知ることで、感動したり、勇気付けられたりする方々を見てきたので、これからも提供し続けたいですね。

今後は特に、高齢者の方向けに展開していきたいと考えています。もちろん自分の人生の見直しになりますし、加えて高齢の方に診断するときは、必ずといっていいほどお子さんが同席されるんですよね。お子さんが親御さんの物語を一緒に聞くことで、お子さんが救われることもあるんです。自分が生まれた時どんな気持ちだったのか、どんな思いで育ててきてくれたのか。それを聞くことで、辛い時も頑張ろうと思えるんじゃないかと思うのです。

今の事業が、自分の生きる意味。だからこそ相手の求める以上の、120%の感動体験を届けたいと思っています。

2020.12.07

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛

佐藤 健陽

さとう たけはる|カウンセラー
佐藤たけはるカウンセリングオフィス代表。秋田県出身。福島大学卒業後、麻雀店で勤務。対人援助の仕事に就きたいと考え37歳で上京、福祉の専門学校に入学。卒業後は精神障害者や知的障害者の就労支援に携わる。2017年、カウンセラーとして起業。精神保健福祉士、シニア・アドラー・カウンセラー。アドラー心理学ライフスタイル診断をライフワークに活動。

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