雑誌編集者から、インターネット最前線へ。
一生涯、社会に価値あるクリエイティブを。
ヤフー株式会社で様々なサービスを統括し、天気アプリのユーザーを2年で7倍にするなど数々の成果をあげてきた宮内さん。雑誌編集者からキャリアをスタートし、これまでやってきた仕事は全て「クリエイティブ」だと話します。宮内さんが考えるクリエイティブとは? お話を伺いました。
宮内 俊樹
みやうち としき|ディップ株式会社執行役員
1967年生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社で15年間、雑誌編集者として勤務。2006年、ヤフー株式会社に入社。Yahoo!きっずやYahoo!ボランティアの企画担当を勤めたのち、2012年より社会貢献サービスの全体統括、大阪開発室本部長を歴任。Yahoo!天気や防災など、様々なサービスを統括。オリジナルメディア「Future Questions」の編集長を務めたのち、2020年からディップ株式会社へ。パラレルキャリアとして株式会社フィラメントCCO、京都芸術大学客員教授の他、20代から音楽ライター・名小路浩志郎としても活動。
音楽からの、リベラルな憧れ
長野県の病院で生まれ、5歳までは静岡県で、その後は東京で育ちました。父が鉄道会社の職員だったので、同じ会社の職員が大勢住んでいる、大きな団地が住まいです。近所の子どもたちとワイワイ遊んで過ごしました。
勉強もスポーツもできたので、小学校ではクラスの人気者でした。学級委員などにも立候補する、積極的な性格でしたね。しかし中学校に行くと、徐々に「いつも自分が一番っていうわけじゃないんだ」と気づき始めました。テニス部に入ってみんなと賑やかに過ごす一方で、自分なりの表現をしたいという気持ちが芽生え、小説や詩を書いたり、ロックミュージックを聞いて音楽をやったりするようになりました。
高校生になるとバンドにハマりましたね。好きなアーティストの影響で、アメリカの文化に関心を持ちました。既存の社会や価値観に背を向け、世界を放浪するヒッピーイズムなんかに憧れて。
世の中がフラットになって、誰もが自分の考えを発言できる。一つの考え方に固執せず、常識を覆して別のオルタナティブを作る。アメリカの西海岸から、そんなリベラルな空気を感じて、自分もそうなりたいと思っていました。とにかくアウトローでかっこいい生き方がしたいと、漠然とミュージシャンや作家を目指しました。
高校を卒業する頃になると、曲を作り続けるのに限界を感じ、ミュージシャンはいったん断念。大学受験では、偏差値が良いからと法学部を勧められて進学しましたが、ただの会社員にはなりたくないという気持ちは強く、作家を夢見て小説を書いていましたね。著名なSF小説家が開いていた「ショート・ショート・コンテスト」に2回入選して、ショートSF2編が文庫化されました。
「良いもの」をつくる
学校に行く傍ら、興味のあった出版社でアルバイトを始めました。仕事をしていると、先輩から「誰でも好きな人を取材していいよ」と言われて。憧れの女優さんを取材したいとアポイントメントをとると、なんと取れてしまったんです。
取材をしたことはありませんでしたが、現場に行けばできるものだと思っていました。ところが始まってみると、全然できないんですよ。当たり前ですよね。話が噛み合わないし、何も引き出せなくて。心配して一緒に来てくれていた先輩が代わりに取材してくれて、なんとか記事はできました。取材って、技術がないとできないんだと気がつきましたね。面白いなと感じて、興味を持ちました。
大学の卒業が近づくと、その出版社から「このまま入りなよ」と声をかけられました。その頃は、新卒で出版社に入ると、2年間は営業をやらされるのが普通でした。でも、アルバイトをしていたことで、編集部にそのまま配属できるそうで。それを聞いて、いいんじゃないかとそのまま就職を決めましたね。
周りは商社や銀行を目指して就職活動をしていましたが、僕は自分のやりたいことをやりたい気持ちが強くて。インタビューも面白かったし、自分が好きなクリエイティブな仕事ができると感じました。
23歳、編集者として仕事を始めると同時に、尊敬する編集者の先輩の影響で、音楽ライターも始めました。他のライターの原稿をチェックする一方で、自分でも原稿を書く。原稿漬けの日々でしたね。
最初のうちは、媒体ごとにテイストが違うので、それぞれの「良い」とされる基準を探していました。しかし、ある程度経験を積むと、どんな媒体でも「良い原稿はやっぱり良い」と気がつき始めたんです。
たとえば、文章の美しさ、インタビューされた人の、人となりがよくわかること。感情が伝わること。媒体が違っても、良い作品には共通点がありました。それをしっかり再現した上で、書き手それぞれが、自分の持ち味を加えているんですね。原稿をたくさん見ることで、共通点が見えるようになりました。
自分で執筆するとき、僕は、キラリと光る一文を大切にするようになりました。自分の感情、生き様など全てを注ぎ込んだような一文です。普段使う文章とは違う、爪痕を残せるような一文を生み出せるよう、原稿に向き合っていました。
38歳、インターネットの世界へ
3年ほど企画を担当し、その後はずっとクレジットカード会員向けの雑誌の編集を担当していました。200人以上の著名人に取材し、キャリアを積んだあるとき、クライアントから僕らが編集している雑誌を、そのままウェブに展開したいと話があったんです。ウェブ制作の知識もあまりありませんでしたが、技術を持っている人を探して、提案をつくりました。
しかし、結果として提案は受け入れられず。ウェブ制作を専門にしている競合の大手企業に負けてしまったんです。悔しくて悔しくて、家に帰って号泣しました。
自分なりにやったけれど、やっぱりプロには敵わなかったという悔しさ。そして、自分自身が負けただけでなく、組織が負けたという悔しさもありました。自分が勉強すれば力量は伸びていくけれど、その上限は、所属する組織の力量を超えることはなかったりします。もっと自分が成長できる環境に行かなければいけないんじゃないか、と感じました。
いくつか、別の出版社への転職を検討するようになりました。しかし出版社は、新卒で入社して勤め上げる人が多いので、中途は採らないところが多くて。そんな会社を受けて落ちるたび、僕の世界はここではない気がしました。
そんなある日、突然「もしかしてインターネットかもしれない」と閃いたんですよね。2006年、インターネットが盛んになってきた時代。僕がやりたいのはクリエイティブなことだから、編集でもインターネットでもどっちでもいいんじゃないかと思ったんです。
そこで思い切って、直感に従って大手通信企業を受けました。すると、大量に採用していた時期だったこともあって、一発で合格したんです。
驚きましたし、ずっと小さい出版社にいた自分が、そんなに簡単に入れるのか、やっていけるのかと不安はありました。ただ、自分のプロフィールは、後から書き直すことはできません。できるのは、新しく書き加えることだけ。今までの分を取り戻そうと思ったら大変かもしれないけれど、僕は、今までの人生を書き換えるくらいの気持ちで転職することに決めました。38歳、インターネット業界へ足を踏み入れたんです。
入ってみると、案の定、知らない単語が飛び交っていました。言葉が全く違うし、ものの作り方も全く違う。言葉を理解するために毎日単語帳を作り、一からウェブやマーケティングの勉強をしました。自分なりにこれまでやってきたことはあったけれど、何かを失わなければ何かを得られない、そんな気持ちで進みました。
大事にしていたのが、僕が好きなある国民的なタレントの言葉です。「自分の中で『これくらいの力がついたらこれくらいの仕事をしよう』と思ってもその仕事は来ない。必ず実力より高めの仕事が来る。それはチャンスだから、絶対怯んじゃだめ」。だから、自分の直感を信じて、怯まないように自分に言い聞かせて仕事と向き合いました。
東日本大震災後のスピード感
入社から数年たち、僕はボランティアサービスのインターネット募金を担当していました。そんな中、東日本大震災が発生したんです。すぐに、被災地のための募金を受け付けられるよう準備しました。土日を挟んでの災害だったこともあり、募金できる先はうちのサービスしかなくて。通常の100倍の、ものすごい数のトラフィックがきました。このままではサーバーが落ちると、エンジニアとともに2日間、寝ずに対応を続けました。
何とか耐え抜いたあとは、ボランティアやNPOなどの支援活動の情報をまとめるよう指示が来たので、情報を検索できるよう対応。72時間の超緊急時を超えてからは、1カ月、2カ月、3カ月とこれから必要とされていくものをみんなで考えていきました。
節電状況をまとめるサービス、津波で流されてしまった写真をデジタル化して保存できるアーカイブ…。アプリのプッシュ通知で防災速報を伝えるサービスの立ち上げにも携わりました。
これまでは、マネージャーとして数人のチームをまとめていましたが、会社として災害対応に大きく舵を切ったことから、一気にチームが数十人に膨れ上がっていて。「俺が決めないと何も進まない」と思い、バンバン決断するようになりました。何千人もの社員がいる会社なので、普段は決断に慎重で、何事もすぐには進みません。でもその時は、今日作ったものを次の日にはリリースすることもあって。こういうスピード感でサービスを作れるんだ、と驚きがありました。そうやってものを作り、それが人の役に立つことに、大きなやりがいを感じました。
加えて、世の中に求められているスピード感、自分が置かれている状況に対応するために、どんどん自分自身が変わりましたね。普段は徐々にスキルを身につけていくものですが、一気に変わる瞬間があるんです。スピーディーに決断をするようになったこともそうですし、社内で悶々と考えてばかりいるタイプだったのが、突然外に出ていろいろな人とお会いするようになって。社内には課題はないので、外に繋がりを求めて、一緒に課題について語り合う自分に変わりました。
クリエイティブの本質
その後、本部長職を任せられるようになり、大阪開発室の本部長に任命されました。前例がなかったですし、転勤のない会社だと思っていたので、正直驚きました。でも、全然知らない場所で自分に何ができるか興味がありましたし、東京と違うカルチャーの組織が作れるかもしれないと感じて、大阪に行くことにしたんです。
ここで失敗しても失うものは何もないはず。メジャーで困っていることを解決するインディーズレーベルみたいな組織にしようと思い、東京の課題に対してバンバン提案をしていきました。
最初に手がけた大きなミッションは、天気アプリのリニューアル。パソコンに強い会社だったので、アプリ市場では出遅れている部分があり、アプリでもナンバーワンになろうという会社の方針がありました。
半年ほどかけてリニューアルを進めましたが、思った以上にスピードが出ず、品質も振るいません。計画ではリリース日が決まっていましたが、「これは世の中には出せない」と感じました。そこで、もう一度作り直す、と意思決定したんです。怒られるだろうと覚悟しながら本社に報告に行きました。
すると、社長や経営陣に、「品質の悪いものを世の中に出さなかった。お前の意思決定は勇気がある」と言われたんです。上層部も、アプリは品質が命だから、妥協せず良くないものは世に出すな、という考え方でした。
「この会社、すげえな」と思いました。同時に、絶対良いものを作ってやろう、と心に決めたんです。
大阪に戻ると、まずチームの人数を減らしました。やり直すなら増やすのが普通ですが、意思疎通がうまくいかずに失敗した部分があると感じたので、むしろ少数に絞ったんです。加えて、自分自身が品質を見極め判断するために、朝から晩まで様々なアプリを触るようになりました。
触り続けていると、なんかちょっと心地よいアプリは、動き方に工夫をしていることに気づくんです。スマートフォンは、大勢の人が肌身離さず持っているので、ほとんど手の延長の感覚。だから、思うように動かないとイラっとするんですよね。自分の手のように、思った通りに動くアプリにしようと思いました。
僕の役割は、チームにビジョンを示すこと。「俺が作りたい世界はこれだ」と言える自信をつけるために、泥臭くひたすらアプリを見ていましたね。自分で考えるだけでなく、ヒアリングもしました。どんな天気アプリを使っているか、いつ、どうやって使っているか…。たくさんの意見を聞いて、自分のスキルを上げていく感覚でした。
ただ、ユーザーの意見を聞くことは大事なのですが、聞きすぎてもダメです。結局、「どこかの誰かが作りました」というようなものは受け入れられない。「これは絶対ユーザーに受け入れられるはずだ」と自分が信念を持って作ったかどうかが大事なんです。
ユーザーの意見を聞くことと自分を信じること。この2つは一見矛盾しているようですが、その矛盾を乗り越えて自分と向き合った先に、世の中にとって価値がある、本当に良いものが生まれます。ある種、芸術作品を作っているような感覚でしたね。
このアプリは価値がある。3カ月ほどで自分が本気でそう思える状態を作り、梅雨が始まる夏前にはリリースすることができました。すると、さまざまなアプリのレビューをしている会社が、「このアプリはすごい」「めちゃくちゃ使いやすい」「見直した」とレビューを載せてくれたんです。どんどんユーザーが増えていきました。
加えて、ウェブで天気情報を見てくれていたユーザーをアプリに誘導していき、最終的には2年で7倍のユーザーを獲得することができたんです。特に移動しながら位置情報を取得できるようにしたことなどで、使った方に喜んでいただけて。世の中にとって価値があると、自分が本気で思えるものを生み出すこと。それが自分にとってのクリエイティブで、生涯好きなことなのだと気がつきました。
その後も、防災や乗換案内など、既存のアプリを改善して、成果を出していきました。
だんだんと、価値あるプロダクトを生み出すことの、本当の意味もわかってきました。世の中に価値あるものが生まれると、ユーザーが良いと判断して購入してくれて、その結果企業が儲かります。企業が儲かると、国にその分の税金を収め、その税金で国が潤い、国民の暮らしが豊かになるのです。価値のあるものを生み出すことが、社会貢献の起点なのだと気がつきました。その意味でも、価値のある良いプロダクトを生み出し続けたいと思ったのです。
会社はだんだんと大きな組織になり、自分も50代になりました。その中で、老害にならないよう新しい人に役職を任せたいという思いと、自分自身もさらなる挑戦をしたいという気持ちが高まってきました。別の会社でメディアを担当したり、大学の客員教授をやったりと、すでに複業をしていたため、そちらにシフトしていく選択肢もありました。でも、あえて一つの会社に入って、責任ある立場でもう一度クリエイティブをやってみたいと直感したんです。転職して、これまでの経験やノウハウを生かして働くことに決めました。
文化×テクノロジーのクリエイティブ
いまは、14年間勤めたヤフー株式会社を辞めて、人材サービスを展開するディップ株式会社にジョインしました。バイト情報検索サービスの「バイトル」などのサービス責任者、執行役員をしています。
ディップは「Labor force solution company」というビジョンで、人材サービスに加え、AI・RPAを提供する「労働力の総合商社」になっていこうというタイミング。おもしろい会社なんです。
もともと営業が強い会社なので、インターネットを掛け合わせることで労働力という社会課題を解決していきたいと考えています。使いやすさや探しやすさなど、ユーザー体験の磨き込みが僕の強みなので、お客さんに喜んでもらえるプロダクトを作っていきたいですね。
さらに長い目で自分の今後を考えた時、やっていきたいのは音楽やアートをはじめとした、文化とテクノロジーとの橋渡しです。自分自身、23歳から始めた音楽ライターを今も続けていますし、ヤフー時代にエンジニアと文化庁メディア芸術祭や、オーストリアで毎年開かれる世界的なメディアアートイベント「アルス・エレクトロニカ」とコラボした取り組みをするなど、アートにも関心を持っています。京都芸術大学の客員教授でもあります。
よく「テクノロジーが未来をつくる」と言われますが、僕はテクノロジーだけで未来を変えられるとは思っていません。歴史を紐解くと、テクノロジーを受け止める社会や政治、人々の気持ちが変わって初めて、未来がつくられています。僕は、社会や人の気持ちなど、目に見えないものを形にして見せる行為が、音楽やアート、文化だと考えています。だから、テクノロジーと文化を融合させた先にこそ、未来があると思うのです。
両方の橋渡しをする中で、それらを掛け合わせてものづくりを続けたいですね。世の中に求められる、価値あるプロダクトが社会をより良くしていきます。矛盾を引き受けて自分と向き合い、未来をつくるクリエイティブを生み出していきたいです。
2020.11.05
宮内 俊樹
みやうち としき|ディップ株式会社執行役員
1967年生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社で15年間、雑誌編集者として勤務。2006年、ヤフー株式会社に入社。Yahoo!きっずやYahoo!ボランティアの企画担当を勤めたのち、2012年より社会貢献サービスの全体統括、大阪開発室本部長を歴任。Yahoo!天気や防災など、様々なサービスを統括。オリジナルメディア「Future Questions」の編集長を務めたのち、2020年からディップ株式会社へ。パラレルキャリアとして株式会社フィラメントCCO、京都芸術大学客員教授の他、20代から音楽ライター・名小路浩志郎としても活動。
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編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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