ネパールと日本をつなぐ架け橋になりたい。
母として、女性として自信を持って生きる。

ネパールを拠点に、来日するネパール人学生の生活や就労をサポートする佐藤さん。「女は前に出るな」と言われて育ち、自分に自信を持てなかったと話します。そんな佐藤さんが、自ら行動を起こして、想いを実現した経緯とは。お話を伺いました。

佐藤 かずみ

さとう かずみ|NPO法人J.I.L.S.A代表理事
派遣社員、福岡県県議会の議員事務所での勤務を経て、2015年に発生したネパール地震をきっかけに、翌年NPO法人J.I.L.S.Aを起ち上げる。2020年から拠点をネパールに移し、学生達に日本のルールを伝えるなど活動中。女性向けの「mind cleaning」(書く瞑想講座)も実施している。2児の母。

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人が嫌がる仕事をするのが役目


福岡県北九州市に生まれました。兄が1人、妹が2人いて、賑やかな6人家族でしたね。

父は工務店を経営していて、職人気質で亭主関白なタイプ。「人が嫌がる仕事はお前がしろ」と言われて育ちました。だから、トイレ掃除は私の仕事でしたね。「女は三歩下がって、男より前に出るな」とも言われていました。父の言いつけを真面目に守っていた私は、自分は目立ってはいけないと思っていました

母は父の工務店を手伝っていて忙しく、私は小学校2年生の時からご飯づくりやお風呂掃除をやっていました。5歳下と7歳下の妹たちの面倒を見るのも私の仕事でした。妹を時間通り迎えに行くために、小学生なのにいつも時計を持ち歩いていたんです。友達と遊んでいても、夕方5時になると自分だけ先に帰らなければいけなくて、それがすごく嫌でしたね。

学校では、明るく、ムードメーカー的存在で、学級委員もやりました。中学校に入ると、部活や塾で忙しくなり、家での仕事をそれほど頼まれなくなりましたね。家事を逃れて自分の時間を持てるようになって、「なんて素晴らしい環境なんだ!」と思っていました。世界が変わったようでしたね。長期休みは家のことをやらなければいけないので、夏休みが来るのが憂鬱でした。

実力を認められたい


地元の高校を卒業後、具体的なプランはありませんでしたが、なんとなく働こうと考えました。ただ、特別な資格があったわけではないので、ひとまず職業訓練校へ行くことにしたんです。

職業訓練校では、パソコンの使い方や経理、簿記を学びました。その後、母の知人が勤めていた地元の物流会社へ、事務として就職しました。父の工務店で仕事を手伝うよりは、外の世界に出て働きたいという憧れがありましたね。

物流会社で3年勤めましたが、キャリアアップしたくて、退職して派遣社員になりました。仕事の実績もできたし、派遣で働くことで、周囲に実力を認められたい想いがありました。幼少期から「目立つな」と言われ、自分に自信がなかったので、周りに認められたい欲求が強かったですね。

派遣社員として、物流事務の仕事をするのは楽しかったです。大手物流会社に派遣され、規模の大きい仕事にも関われました。物流事務は、ドライバーさんの動きや配車手配の状況など、あらゆることを把握してサポートする仕事。日々時間との戦いでしたが、大きい仕事であればあるほど、その1日をうまく捌いていくのが快感でした。

ドライバーさんとの交流も、仕事の楽しみでした。言葉がきつい人が多いので、他の事務スタッフはドライバーさんに仕事を頼むのを嫌がっていましたが、私は進んでそんな仕事を引き受けていました。お互いに気持ちよく働きたいという想いが、仕事のモチベーションを上げてくれましたね。

子育ての現実に直面


3年ほど派遣社員として働き、23才のときに子どもを授かりました。もともと子どもは大好きで、生まれたら絶対楽しいだろうなと思っていたんです。

ところが、妊娠してからはずっと体調不良に悩まされ、出産は52時間もかかるほどの難産。赤ちゃんが生まれてきた瞬間も、かわいい!というよりは、やっと出てきた!という感動でした。原因もなく突然泣き出す赤ちゃんは、私にとってまるで宇宙人のようでした。

しかも、ずっと妹2人を世話してきたこともあって、自分が生むのはきっと女の子だと思い込んでいたんです。ところが、実際に生まれてきたのは男の子。そんなギャップもあり、現実を受け入れるのに時間がかかりました。

そこからは、子育てに奮闘する毎日です。子どもを預けながら、近所でパートの仕事もしました。大変でしたが、やはり子どもは可愛く、とくに自分の子どもは最高でしたね。27才のときには、2人目となる男の子も生まれました。

やればできるという自信


子育てがひと段落した頃、知人の紹介で福岡県議会議員の事務所で働き始めました。県議のサポートをするのが仕事です。

働きながら「これからは英語がいるな」と感じて、英語を勉強しようと思いました。調べてみると、フィジーに、日本人が英語を学べる学校があるのを知って、数カ月留学しようと決意。しかし、県議に相談すると、2週間以上休みを取るのは難しいと言われてしまいました。

ちょうどそんな時、県議から薦められて読んでいたのが『思考は現実化する』という500人以上の成功者をインタビューした本でした。影響を受け、自分も想いを現実にしようと、とにかく行動を起こすことにしたんです。

幸運にも、SNSを通じてフィジー人のJICAスタッフと知り合いました。そこでその人の弟を、半ば強制的に日本の自宅に呼ぶことにしたんです。日本語は全く喋れない人でしたが、突然のホームステイが始まりました。私も英語を始めたばかりで、コミュニケーションはほとんど取れません。それでも何とか共に生活し、県議に許可をもらって、職場にも彼を連れて行きました。話せないながらも、2カ月間とにかく一緒に過ごしたことで、次第に英語を習得できました。

この思い切った行動をやり遂げたことで、無理なことなんてない、行動すればできるんだという自信がつきました。

地震で傷ついたネパール人学生のために


事務所で一緒に働いていた秘書の一人が、海外から日本へ来る学生募集の仕事をしているのを知って、私も手伝うようになりました。やっていたのは、日本での生活支援や進路相談などのケアサポートです。中でもネパールからの留学生が増えていました。彼らは英語が話せるので、私も学んだ英語を活かしてサポートができました。

そんな中、2015年にネパールで大地震が発生。「家と電話がつながらない!」「家族が無事か分からない」と、ネパール人留学生たちからの悲痛な電話が、夜中に次々と鳴り響きました。近所に住む留学生達は夜な夜な集まって、不安な日々を過ごしていました。

このままではみんな精神的にやられてしまう。勇気づけるために、何かできることはないかと考えました。そこで、地域で毎年開催されている「キャンドルナイト」の主催者に相談を持ちかけたんです。

主催者の方が「ネパールのために何かしましょう」と言ってくれて、キャンドルのデザインはほぼ決まっていたにもかかわらず、その中に「PRAY FOR NEPAL」のメッセージを入れてくれることになりました。学生みんなで協力し合い、学校が休みの時間を使ってキャンドルを並べましたね。一緒に作業することで、彼らの気持ちもすごく落ち着きました。

また、日本語学校の学生達が集まって寄付金を募り、3日間で50万円を集めることもできました。これをきっかけに、NPOがあればこういう活動を独自で行えるし、ネパールから来る学生たちをもっと助けられると感じ、学生のケアサポートを中心としたNPO法人を起ち上げました。

母目線でネパールの学生に寄り添う


地震発生から半年後、初めてネパールを訪れました。初対面の人も私を歓迎してくれて、年配の人は、まるで子どもに接するようにかわいがってくれます。人の温かさをすごく感じて、一瞬でネパールが好きになりましたね。

ネパールに来てもう一つ驚いたのは、母と子の絆の強さです。大きい子でも積極的に母とスキンシップを取っているし、子どもが母をすごくリスペクトしているんです。子どもたちは母に愛されている自信があって、代わりに母を大事にしようと思っている。その信頼関係の強さに衝撃を受けました。

そんなネパールの親子を見て、私も自分の子どもたちに対し、いつでもどんなことがあっても私は味方、と言ってあげられるようになりました。思春期になった子どもは言うことを聞かず、全くかわいげがないです。それでも「困った時には絶対助けてやる」「何があっても見捨てんけ大丈夫」と、それだけは伝えるようになりました。

母目線でネパールの学生たちを見たとき、日本に子どもを送り出すネパールの両親はどんなに不安だろう、と感じたんです。異国の地で、誰も助けてくれる人がいなかったら、心配で仕方ないだろうな、と。だから、直接ご両親に「私が日本でしっかりサポートしていますよ」と伝えることで、安心してもらいたいと思いました。

しばらく、ネパールと日本を行き来しながら、学生とその両親のケアサポートをしました。そんな中で気付いたのは、学生たちが日本のルールや文化を知らず、来日してから困るケースが多いという事実でした。日本に来る前に、ネパールでしっかり事前教育をする必要があると感じ、ネパールに拠点を移すことを決めました。

ネパールでの活動と同時に「mind cleaning」という、花型のマンダラチャートを用いた、女性向けの講座も始めました。「書く瞑想」をコンセプトに、思考や感情を紙に書き出して整理できる手法です。もともとは自信がなかった自分のための手法でしたが、私と同じように、女性であることで一歩引いてしまったり、自信が持てない人を救えればと思いました。

大好きなネパールで、想いを形に


現在は、NPO法人J.I.L.S.Aの代表理事として、来日するネパール人学生の、生活支援や就業支援をするほか、ネパールにある日本語トレーニングセンターまで出向き、学生たちに日本語や日本のルールを教えています。

私たちが最も大切にしているのは、「入口から出口まで」の支援。「とりあえず日本に来たけど、どうしよう?」ではなくて、ネパールにいる入口の時点で「そもそもどうして日本に行きたいのか?」を考え出口を明確にし、そこから逆算してどういう道を進むべきかアドバイスするようにしています。

ネパールの学生たちのことは、自分の子どもだと思って接していますね。学生から「マミー」と呼ばれることもあります。立派に成長してほしいという想いがあるので、叱るときはめちゃくちゃ叱りますよ。でも、そのくらいしっかり面倒を見ないと、ネパールの父、母に対して申し訳ないと思ってるんです。自分自身が母という立場にあるからこそ、できることですね。

活動を通じて、ネパール人と日本人が、もっとお互いに理解し合えればと思っています。外国人が日本に来る機会が増える中、「外国人だから分からない」「外国人だからしょうがない」ではなくて、お互いの文化を理解する必要がありますね。理解し、ネパール人には日本を好きになってもらいたいし、日本人にもネパールを好きになってもらいたいです。

今後は、ネパールの女性支援のために進めている、布ナプキンのプロジェクトにも力を入れていきたいですね。布ナプキンの寄贈から始め、徐々に現地で事業化して、ネパールの女性たちが社会に出て、ちゃんとお金を稼げるような仕組みを作りたいです。

私の人生は、ネパールと出会い大きく変わりました。自分には何もできないと思っていたけれど、行動すれば仲間が増えて、アイデアが生まれ、想いが形になっていくのが分かったんです。その過程が、自分に自信を与えてくれました。

ネパールが本当に好きだし、その存在に救われたので、恩返しの意味も込めて、この活動を続けていきたいですね。そして、以前の私のように、自信を持てないでいる人を救いたい。私に出会って人生が変わったという人が、1人でも増えればうれしいです。

2020.07.16

インタビュー | 種石 光ライティング | 塩井 典子

佐藤 かずみ

さとう かずみ|NPO法人J.I.L.S.A代表理事
派遣社員、福岡県県議会の議員事務所での勤務を経て、2015年に発生したネパール地震をきっかけに、翌年NPO法人J.I.L.S.Aを起ち上げる。2020年から拠点をネパールに移し、学生達に日本のルールを伝えるなど活動中。女性向けの「mind cleaning」(書く瞑想講座)も実施している。2児の母。

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