想いある個人の集合体こそがコミュニティ。
自然体の自分を表現できる社会へ。

コミュニティの力を通じて人々の活動を加速化させる「コミュニティ・アクセラレーター」の河原さん。日米で様々なイベントやコラボレーションを手がけ、人と人とを繋げてきました。そんな河原さんが思う、コミュニティの本質とは。目指す社会とは?お話を伺いました。

河原 あず

かわはら あず|コミュニティ・アクセラレーター
富士通を経て、2008年からニフティが運営する「東京カルチャーカルチャー」のイベントコーディネーター就任。2013~2016年、サンフランシスコに駐在。帰国後、伊藤園、コクヨ、サントリー、東急などと数多くのコミュニティイベントをプロデュース。2020年春に独立し、ギルド制のチーム「Potage」を立ち上げ、イベント企画、企業のコミュニケーションデザイン、人材育成などを手掛ける。

表現を通して自分を理解して欲しい


埼玉県上尾市で生まれました。おとなしい性格で、幼馴染の女の子と遊んだり、一人で絵を描いたりするのが好きでしたね。サッカーが流行っていましたが、僕はあまり得意じゃなくて。男子と外で集団で遊ぶのは、どちらかというと苦手でした。

中学校では水泳部に入りましたが、体も細いし、市の大会に出ても後ろから数えた方が早い順位。全然速く泳げなくて、のめり込めませんでした。それよりも、授業中に四コマ漫画を描いたり、音楽を聴いたりするのが楽しかったです。

音楽が好きだったので、中学校の行事の中でも合唱コンクールは張り切っていましたね。まだ声変わりをしていなかったので、高い声で最前列で一生懸命歌いました。そしたら、他のクラスの人にすごく笑われたんです。頑張ってやったことをバカにされ、自分を否定されたようでとても嫌な気持ちになりました。

しかし、合唱祭があった学期、通信簿の連絡欄に、担任の先生が肯定的なコメントを書いてくれたんです。「合唱コンクールでの歌い姿がすごく印象に残っている。すごくよかった」と。その先生は絵を描くのもうまくて、連絡ノートにめちゃくちゃうまい戦車を書いて見せてくれたりしました。僕の描いた4コマ漫画を見せたら、「この発想力や才能はすごい、将来が楽しみだ」と言ってくれて。どれも何の気なしに言ってくれた言葉かもしれませんが、とても嬉しくて、音楽や絵を続けたいと思いました。

高校では合唱部に入部。自分たちで試行錯誤しながら歌を作り上げていく過程が楽しかったです。自分の考えていることや想いを直接伝えるよりも、絵や音楽のような表現を通して伝えたいと思うようになりました。

合唱をやっていたこともあり、将来は音楽関係の仕事に就きたいと考えるようになりました。音大に入れる力量はありませんでしたが、音楽について文章を書いたり、音楽を生み出す環境を作ったりしたいと思ったんです。そこで、大学は、理系分野と音楽などの芸術分野を融合して学べる学科を探し、進学しました。

アウトプットで人と繋がれる


大学に入ると、初めてインターネットを自由に使えるようになりました。存在は知っていたものの、自宅には回線が整備されていなくて使えなかったんですよね。それで好きなバンド名をいろいろな検索エンジンで探したら、たくさんのファンサイトが出てきたんです。

高校時代、同じバンドが好きな人は学年に1人しかいませんでした。でも、検索した途端にわんさか出てきて。同じミュージシャンを好きな人と繋がれることに、ものすごい興奮しました。

恐る恐るオフ会に参加してみたら、一瞬で友達になれたんです。みんなバックグラウンドが共有できているので、何を話しても楽しい。今まで自分の胸の内にあって伝えたいのに伝えられなかった細かい「あるあるネタ」など、マニアックな話もわかってもらえるし、どんどん話が膨らむんですよ。こんな居心地のいい夢の世界が、この世にあったのか。自分の好きなものを発信して、受け止められる快感を知りました。

自分でもそういう場を作りたいと思い、ホームページを制作してファンと繋がるようになりました。毎日日記をつけて公開したり、自分で書いた小説を載せたり。好きなことのアウトプットを通して人と関わることが、すごく楽しかったです。

音楽好きが高じて、卒業論文は日本のポピュラーミュージックのパクリについて研究して書きました。それをホームページにも掲載したら、すごく反響があって。読者だったライターさんやポピュラーミュージックを研究する大学教授から「本にしないの?めちゃめちゃ面白い」と声をかけてもらえました。アウトプットを人に晒した瞬間、こんなに人と繋がれる。出会いによって、全く別の世界にいけると感じました。

本にするといっても具体的にどうしたらいいのかよく分からず出版の話は前に進みませんでしたが、本づくりに興味を持ち出版社を中心に就職活動することにしました。バイトしていた本屋の店長に、好きな人文書をつくっている小さな出版社の編集長を紹介してもらい、会いました。しかしそこでされたのは、「これからはインターネットが盛んになり、本はどんどん嗜好品になる。数少ない人にある程度の値段を求めつつ、提供するようになるだろう」という話で。僕は本も好きでしたが、インターネットにもハマっていたので、時代が変わっていく中で、自分がやりたいのは本づくりなのか?と疑問を持ちました。

加えて、別のバイト先の喫茶店の店長には、「君は細かい所に気がつく人だから、世の中の構造を理解するために、新卒のうちはできるだけ大きい組織に入った方がいい」と言われたことを思い出したんです。インターネットやテクノロジー、大企業がキーワードだと考え、最終的に大手ITベンダーに就職することにしました。

自分にしかできない仕事を探して


就職後は、数カ月の研修ののち、顧客のシステムを預かり運用する部署に配属になりました。任せられた案件は、扱う金額が数十億円の大規模プロジェクト。上司は研修などで不在にすることが多く、不安で仕方ありませんでした。パートナー企業やエンジニアに聞きながら進めるものの、本当にこれでいいのか自信がなくて。だんだんお腹が痛くなり、頭もモヤモヤしてきて、自律神経に異常をきたして会社を休まなければならなくなりました。

幸い、重症でなかったので2週間で復帰。自分の気持ちと仕事とのバランスが取れるまでは時間がかかりましたが、なんとか仕事できるようになりました。ただ、積極的に外に出て、チャレンジしたいという気持ちはありませんでしたね。なんとなくみんなと仲良くしていられるし、クビになることもない。サラリーマンてそんなもんだよね、と思いながら、淡々と仕事をこなす毎日でした。

そんなある日、自転車で転んでしまって右肩を骨折したんです。パソコンを打てないので仕事ができず、しばらく出社しないことに。チームの収益管理などをしていたので、自分がいなくて大丈夫だろうかと心配でした。

しかし、会社に戻って見ると、なんの支障も無く業務が進んでいたんです。自分にしかできないと思った仕事はなんだったんだ、とショックを受けました。

その時、この会社に入る時の面接を思い出したんですよね。面接官に「河原さんは10年後、どういう社会人になりたいですか?」と質問された時、僕は「河原さんと一緒に仕事をしたいって指名されて仕事ができる人になりたいです」って答えていたんです。今のままではそうなれない、と危機感を覚えました。このままでは、誰にでもできるような仕事しかできない。そうではなく、自分にしかできない仕事をして、ちゃんと指名される人にならなきゃ、と。

そこから必死になって、別の場所にいく機会を探すようになったんです。ちょうどSNSやブログなど、一般人が参加してつくられるメディアが流行っていたころ。もともとやりたかったインターネット事業に携わりたいと思いました。

すると折良く、インターネット関連事業をしているグループ企業で、新規事業担当の社内公募があったんです。ここでなら自分にしかできない仕事ができるかもしれないと、すぐに手をあげました。無事通って、転籍できることになったんです。

好きなことをする時、人は輝く


新しい会社では、音楽系の新規事業の立ち上げを担当しました。しかし、すぐに部署の人員を減らすことになり、上司から異動を言い渡されたんです。異動先は法人営業の部署。なんとか回避したいと、上司の上司に直訴しました。すると「お前は何をやりたいんだ」と問われて。

とにかく営業はやりたくないという一心でしたが、その時ふと、最近会社が立ち上げたイベントハウス型飲食店のことを思い出したんです。責任者と話した時に、面白い人だな、一緒に仕事したいなと思ったことが、頭の片隅に残っていたんですよね。「イベント事業に行かせてください」と言いました。思いつきでしたが、ラッキーが重なり、そのままイベントハウス型飲食店の担当に異動が決まりました。

イベントハウス型飲食店では、企画、運営、予算どりや司会進行、プロモーションまで、イベントに関することならなんでもやりました。やることも、アーティストのファンイベントや音楽ライブなどから、ダムや間取り図などニッチなテーマのものまで、本当に多様でしたね。結果的に、イベントの全体像を把握し、自分のやりたいテーマの企画をゼロから形にするノウハウを学ぶことができました。

駆け出しだったので、自分の担当するイベントは数カ月に1回。裏方としてイベントを回す方が多かったです。裏側からみるイベントには、また違った面白さがありました。例えば、「缶詰」や「醤油」などニッチなテーマのイベントで、登壇者がステージで趣味について話すのを、みんなで共有して一緒に楽しむんです。どんな趣味であろうと、心から好きなものについて語るときは、みんな楽しそうで生き生きしていて。本当に素敵でした。自分がもともと関心がなかったテーマでも、めちゃくちゃ面白くて引き込まれるんですよね。自分の好きなものを語って共有するこれらのイベントは、世の中に必要なものなんだと感じました。

そんなある日、東日本大震災が発生しました。非常事態でイベントは停止し、世の中が動き出したのちにも自粛ムードが漂う中で、イベントはもう二度とできないんじゃないか、とまで感じました。しかし、こんな時だからこそとなんとか再開させたとき、集まった人が本当に嬉しそうだったんです。来てくれた常連さんは、「再開してよかった、またみんなに会えてよかった」と言ってくれて。グッときました。大変な時だからこそ、場所や人のつながりを実感することが大事なんだと強く思いました。

同じ年の末、サンフランシスコで、3ヶ月ほど短期研修がありました。僕は研修中に現地のミートアップを調査しました。ミートアップ関連企業のCEOやオーガナイザーにインタビューして、これからは日本にミートアップの考え方を取り入れようと考えたんです。帰国して出張報告イベントを開催し、意気揚々と前途を語りました。

しかしその矢先、営業の部署に異動になってしまったんです。自分だからできる仕事をようやく見つけられそうだったのに、と複雑な気持ちでした。しかし一方で、イベント事業の外からできることもあるのではないかと感じたんです。シリコンバレーで得たアイデアの中から、会社の中でできることがあるはずだ、と。そこで、営業の仕事はやりつつ、役員の中に味方を見つけて、新規事業コンテストを立ち上げました。

そんなことをしていると、活動を支えてくれたその役員から、サンフランシスコへの駐在を打診されました。「もう少し長い期間、サンフランシスコへ行ってみないか」と。二つ返事で、アメリカ行きを決めました。

自分の言葉で、理想を語る大切さ


サンフランシスコでは、シリコンバレーで様々なスタートアップを捕まえて、コラボレーションを生み出すことがミッションでした。しかし、シリコンバレーでは、会社の名刺を出しても誰も反応してくれないんです。相手に言われる言葉は、決まって「What do you do?」。お前は何者だ、と問われるんです。聞かれていることは、どの会社で働いているか、ということではありません。自分が何を実現したいか、まっすぐな言葉で伝えないといけない社会だったんです。

来たことを後悔しましたね。慣れない海外、ご飯は脂っこいし、周りはみんなマッチョだし。自分みたいなひょろっとした奴が通用する世界じゃない。誰にも相手にされず、どうしようと苦しみました。半年間くらい、打開策が見出せなくて。でも、何とかしなくちゃいけない。

試しにやってみようと、以前のノウハウを使ってイベントをはじめました。自社がスポンサーしていた共創スペースを使って、日本企業にそれぞれの取り組みをプレゼンしてもらい、現地の面白がってくれる人々と繋げる内容です。それまで、日本企業は個別には動いていたものの、一体となって現地の人にアピールする機会が少なかったんですよね。複数人に「みなさん日本企業の取り組みを、現地の人に発信したいんです!」と企画を話していくと、賛同して「スポンサーするからプレゼンさせてよ」と言ってくれる人が続々集まりました。

イベントは成功し、メディアにも取材され、現地の新聞に掲載されて。そこで集まった人たちのコミュニティの中で、自社や僕自身の認知が上がっていったんです。その流れで飲料メーカーからイベントの立ち上げを手伝って欲しいと頼まれ、一緒にアイデアソンを作ったところ、それもブレイクしました。

これまで、とにかく何者かになりたいと、自分のことしか考えていない自分がいました。加えて、アウトプットをみてわかってくれればいいと相手の理解に甘えて、自分の想いを言葉にするのが苦手だったんです。でも、それはアメリカでは通用しませんでした。覚悟を決めてやり方を変えて、自分の想いをまっすぐ伝えるようになったら、ちゃんと相手に伝わった。こういうことを実現したいんだ、と外に発信するようになったら、どんどん仲間が増えていったんです。

自分の想いやビジョンを話して、「こんな世の中であって欲しい」と伝えた時に、人は仲間になってくれる。そのことに気づき、言葉で伝えることが苦手な自分のコンプレックスをぶち壊しに行きました。結果として、だんだんと、「シリコンバレーでイベントといったら河原」と名指しで仕事を依頼されるようになったんです。目指していた「自分の名前で仕事ができる」状態に近づいていきました。

肩書きはコミュニティ・アクセラレーター


3年ほど滞在したあと、帰国。日本に戻ると、再びイベントハウス型飲食店でイベントを企画運営するようになりました。ただ、その場所でイベントをやるだけでは無く、ノウハウを生かして外部のお客さんの課題解決も行うようになりました。

その中で、自分を「コミュニティ・アクセラレーター」と名乗るようになりました。イベントハウス型飲食店の人たちは、自分のことを「イベントプロデューサー」と名乗っていましたが、それに違和感があって。僕にとって、イベントは手段の一つだったからです。

大事なのは、サンフランシスコで学んだように、会社ではなく個人が何をやりたいか。個人が想いを持って、やりたいことを実現することです。

ただ、やりたいことがあっても、一人では実現するのが難しい。人とのつながりを作り、他者とのコラボレーションを生み出す必要があるのです。想いを持った個人の集合体であるコミュニティの中で、お互いを支え合い、触発し合うことで、自分の想いを実現させることができると考えました。そのため、コミュニティを促進して個人のやりたいことの後押しをする存在として、「コミュニティ・アクセラレーター」という肩書きを使うことにしたのです。

様々な案件で、想いある個々人の後押しをする中で、もっと柔軟に、相手に合った様々な場所や方法で支援できるようになりたいと考えるようになりました。それで会社を離れて、独立することにしたんです。

個人の想いを軸にしたコミュニティを


今は、コミュニティ・アクセラレーターとして、個人・法人を問わず、活動を促進する仕事をしています。これまで培ってきた、つながりの構築やリアルな場づくりのノウハウなどを駆使して、課題に対してオーダーメイドで解決策を提供します。

例えば、飲料メーカーのファンづくりの施策にかかわっています。新型コロナウイルスの流行により、リアルでの開催が難しくなったイベントをオンライン向けにリニューアル展開するお手伝いです。担当者の方が想いを持って数年継続していた取り組みなので、その良さをいかしつつ、いかにオンラインイベントとして発展させられるかをテーマに、共に挑戦しています。

また、企業の人事担当者の方の「変化の時代に活躍できる人材を育てたい」という想いをもとにして、パーソナルビジョンをつくり、共有しあう企業内研修に取り組んでいます。変化の激しい時代にカギになるのは、自分自身や他者を理解して行動することだと考えています。「他者と共感しあいながら自律して動く人材の育成」をテーマに、自分の判断の軸になるビジョンを言語化してブラッシュアップする対面やオンラインでの研修を提供しています。

これらの施策で大事にしているのは、法人案件の場合でも「個人」です。根底には担当者個人の想いやビジョンがあって、物事が形になると考えるからです。想いに共感する個人がつながり、仕事をしていくべきだと考えています。

ただ、中にはサンフランシスコでの私のように、想いが見つからない、うまく言語化できないという人もいます。そんな人向けに、想いを引き出すファシリテーションやコーチングも行なっています。

僕は、自分の中に答えはあると考えています。たとえば、子どもの頃に大好きだったことは、今やってもワクワクすると思うんですよ。でも、大人になるうちにそれを忘れて、妙に自分を飾ったり、過度にキャラクターをつくって個性的であろうとしたりする。そうすると、本来の自分と表に出している自分との間にギャップが生まれる。それはすごく不幸な状態だし、結果的にパフォーマンスも低くなってしまうと思うんです。

大切なのはありのままの自分であること。まず、短所も弱みも受け入れて、自分だと認識すること。そして、それを受け入れてくれる仲間を見つけることです。その仲間と一緒にチームを組んで、プロジェクトを進めていければいい。その結果できる環境が、僕のいう「コミュニティ」です。

コロナ禍を経たこれからの時代は、どこで働くかよりも、誰と、なんのために働くかがより重要になるはずです。人は一人では物事を成し遂げられません。お互いを生かしあいながら、それぞれのビジョンに向かうコミュニティを作ることが大切です。誰もが自分のビジョンを語り、いろいろな人と助け合いながら、価値を生み出せる。そんなコミュニケーションが普通にある社会をつくっていきたいです。

2020.06.04

インタビュー・ライティング | 粟村 千愛

河原 あず

かわはら あず|コミュニティ・アクセラレーター
富士通を経て、2008年からニフティが運営する「東京カルチャーカルチャー」のイベントコーディネーター就任。2013~2016年、サンフランシスコに駐在。帰国後、伊藤園、コクヨ、サントリー、東急などと数多くのコミュニティイベントをプロデュース。2020年春に独立し、ギルド制のチーム「Potage」を立ち上げ、イベント企画、企業のコミュニケーションデザイン、人材育成などを手掛ける。

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