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母の死、一生拭えない後悔

大学生の時に、民族雑貨屋さんで「ディジュリドゥ」という長い棒のような民族楽器を買ってからは、おかしな音楽を演奏するようになりました。その店の店員と一緒に駅前でライブを始めると、ダンサーや写真家など様々なクリエイターに声を掛けられました。終いには、ストリートパフォーマンス集団「ウブドべ共和国」と名乗って一緒に活動するようになりました。

高校時代はライブハウスやクラブで、プレイヤーになれないことに悔しさを感じていたので、自分で演奏できるのは本当に気持ちよかったですね。

そんな風に、最高に充実していた大学2年のある日、母ちゃんが倒れて入院しました。がんでした。看病のため、家族で病院の近くに引っ越しました。

病気と分かってからも路上ライブは続けていました。将来は、音楽業界に進んで、レーベルを作るという目標を掲げていました。

入院して数ヶ月して、母ちゃんの容態が段々悪くなってきて。なんとなく、やばいのかなと思うようになって。抗がん剤で髪の毛がどんどん抜けていって、弱っていて。「もしかして死ぬのかな」と初めて感じました。でも、そういう話を家族とするのが怖かったんですよね。見て見ぬ振りをしていました。髪の毛も治療が終わればまた伸びてくると、信じてました。

母ちゃんは、これまで僕が何をしても許してくれていました。髪をモヒカンにしてピンクに染めて帰っても、笑って「パンクだねえ」と言ってくれて。そんな人が目の前で弱っていく。何もできることがなくて、申し訳なかったですね。唯一、僕がアホでいれば母ちゃんの笑顔に繋がるから、ひたすらアホな話をしたり、騒いだりしてましたね。母ちゃんはそれを聞いて笑ってくれて。

ある時、母が見舞いに来た友人に、僕のことを差して、「この子は本当に勉強をしないのよ。でも、この人がいれば世界は平和なの。一日一善を、理解して実践しているから、この子はこのままでいいの」と話しました。自分では気づいていなかったです。そういう風に見てくれていることを伝えてくれたんです。いきなり何言ってるんだろうと思ったけど、印象に残りました。

容態が悪くなってしばらくして、ベッドサイドで母ちゃんが頭を僕の肩にのせて、「疲れちゃった」とこぼした後、「勇樹に甘えちゃダメね」と言いました。でも、恥ずかしくて、なんて言って良いか分からなくて。「何言ってんだよ」と終わらせてしまって。

それからすぐ、母ちゃんは亡くなりました。結局、最後まで何もできませんでした。

お通夜や式などバタバタと日々が過ぎていく中で、母ちゃんには、「がんばってくれたね。ありがとう」と感じていました。でも、そこから家に帰って一人になって落ち着くと、後悔や哀しみがものすごく襲ってきて。朝飯が出てこないとか、「ただいま」と言っても「おかえり」がないとか。

遺品を整理する中で子ども一人一人に宛てた日記がありました。生まれた時からずっと成長の記録がつけてあって。1回だけ、最初から最後まで読んだんです。僕の生活が荒れてることが多くて、それに対する愚痴みたいなことが書いてありました。自分の病気が分かった後も、「今入院したら子どもが心配するから」と入院を拒否していたことも知りました。それを読んで、もうこれ俺のせいなんじゃないかと思いました。自分がしっかりしていたら、もっと早く病院で治療ができて、治っていたかもしれない。

自分の生活が、言葉が、行動が、一つ一つが人の命に関わっている。一生拭えない後悔が残りました。

人の命の役に立ちたい、音楽療法の道へ

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