エンターテイメントの力をあなたに届けたい。自分の言葉で伝えられる人を目指して。
エンターテイメントの力で人に幸せを届けるため、テレビ局で働く日髙さん。幼い頃からマスコミや報道の仕事に興味を持っていたものの、「苦しむ人を目の前にしたら、私は耐えられないかもしれない」と断念。そこから、エンターテイメントの道に進むにはどんな想いがあったのか。お話を伺いました。
日髙 夏子
ひだか なつこ|エンターテイメントを届ける
株式会社WOWOWにて、番組宣伝・顧客マーケティング・雑誌編集などを担当した後、人事部の採用担当を務める。
人生に欠かせないものとして映画があった
私は鹿児島県で生まれ、幼稚園にあがる前からずっと東京で育ちました。祖父も父も自分の好きなことを仕事にしている人だったので、毎日楽しそうにしていたし、仕事の愚痴は一切聞いたことがありませんでした。そのため、私も将来は好きなことを仕事にするんだと、漠然と思っていましたね。
ただ、家庭の教育方針は厳しく、ゲームや漫画、テレビもドラマやアニメなどは制限されていました。許されていた娯楽といえば、「映画」と「本」だけ。また、両親も祖父も祖母も映画好きだったので、家族みんなで映画館に行ったり、家には常にレンタルビデオがあったりしました。そのため、私の生活にとって、映画は欠かせないものになっていったんです。
私は小学校から大学まで附属の女子校に通っていて、中学生くらいになると自然と友達と仲違いも起きてしまったり、些細なことから仲間外れにされることもありました。親にも友達にも相談できない時、私に手を差し伸べてくれたのは、やはり映画でした。
その中でも、思春期の女の子の悩みや葛藤を描いた『ショー・ミー・ラブ』という作品に助けられました。社交的だけど何でも周りに合わせてしまう女の子と、自分らしく素直に生きているためひとりぼっちでいる女の子のストーリーでした。
私も登場人物のふたりと同じ14歳。周りのみんなが興味を持っているアイドルやテレビドラマのことはさっぱり。それでも話を合わせなきゃ、みんなと同じでいなくちゃいけないと思う気持ちと、やっぱり自分らしく自分の気持ちに素直にいたいという想いが重なって苦しんでいた時期で、とても心に響いたんです。
また、その映画のキャッチコピーは
「25年先より、今幸せになりたい」
それまで、先のことなんてイメージできずに、今の苦しい状況が一生続いてしまうのではないかとすごく不安に思っていました。しかし、この言葉を見て救われたような気持ちがしたんです。こんな想いを抱いて苦しんでいるのは自分だけではないと。今の状態を乗り越えなければ幸せにはなれないし、将来は自分に素直に生きて幸せになっていたいと思い、前を向くことができました。
将来への憧れを持つものの自信を持てずにいた
また、私は小さな頃から、漠然とマスコミ・報道に憧れがありました。海外のニュース番組やドキュメンタリーなどを父と一緒に見ていて、冷静にカッコよく事実を伝え、物怖じせず自分の意見を述べる「アンカー」の仕事に興味があったんです。
その影響か、ずっとイギリスのダイアナ元王妃に憧れていました。誰もが目を奪われるような美しさはもちろん、「王妃」という大きな責任を背負いながらも自分の芯を持って生きている。国際交流やボランティア活動などを率先して行い、自分の意志を明確に言葉や行動に結びつける、そんな姿がとても素敵でした。
そのため、彼女が突然の交通事故で亡くなった時は、ショックが大きかったですね。パパラッチに追い込まれてしまったことが事故の原因。言葉を選ばずに言えば、彼女はメディアに追われた故に、殺されてしまったようなもの。メディアは人を豊かにするはずのものなのに、誰かの命に関わるような悲しいことを引き起こしてしまう危険性もあると、その影響力の怖さを感じました。
そんな出来事もあり、さらに私は自分に自信がなかったので、憧れの世界に進めるとは思っていませんでしたし、周りに夢を話すこともほとんどありませんでしたね。
映画の世界にも憧れがありましたが、自分は監督やプロデューサーなど作品を産み出すクリエイターの才能は無いと思っていて、脚本や映像を作れる人を尊敬していました。中学校・高校ではミュージカル部に入り、歌やダンス・演技に明け暮れる毎日を過ごし、芸能の世界から声をかけてもらったこともあったのですが、私が通用するとも思えず断ってしまいました。
人生で「やりきった」と思える経験をしたかった
また、私は「競争」をしない環境で生きていました。附属校だったので受験勉強は一度もしなかったし、体育祭や文化祭も「他のクラスに絶対に勝つ」というよりも「クラスのみんなで頑張ろう」という雰囲気が強くて、「争い」にはならないんです。
そのため、人と争う経験がなかった私は、明確に自分が結果を残したことや人よりも優れていることが何なのか分からず、「私の人生、これをやりました」と宣言できるものがないことに、焦りを感じることもありました。その時々で、目の前のことを一生懸命頑張っているのですが、私だからこそ「やりきった」と思えるものがなかったんです。
そこで、大学生活ではアルバイトに全力投球しました。たまたま募集告知を発見して、厳しい親も唯一許してくれた、六本木ヒルズの映画館でアルバイトをすることに。しかし、履歴書を送っても返事はありませんでした。ただ、簡単には諦められず、映画館に足を運び面接を取り付けることにしたんです。そして、映画に対する熱い想いを語ると、すぐに採用となりました。
仕事内容は、インフォメーションカウンター(受付)で、映画を見に来たお客様に対応することでした。映画をお客様に届ける場所で働けることは楽しかったですね。
落ち込んだ顔で映画館に来た人が、見終わった後に笑顔で帰っていく姿なども見られて嬉しいんです。また、お客様と直接コミュニケーションをする機会も多くて、私のお薦めした映画を見て喜んでもらえたり、私に会いに来たと言ってくれる常連のお客様が増えたり。加えて、頻繁に舞台挨拶やプレミアム上映が行われる映画館だったので、作り手の人を少しだけでも支えられる実感を持つこともできて、やりがいのある仕事でした。
また、勉強の面でもやりきった経験をしようと、学内でも厳しいと評判のゼミに入ることにしました。法律関連のゼミで、法律と心理学を関連付ける内容も多く、興味のあった報道とも関わりがある分野だったのも決め手でした。
苦しむ人を少しでも笑顔にするために自分ができること
ゼミでは日本とアメリカの法律の比較をしていて、その中で私は少年法の勉強をすることにしました。そのため、ちょうど世間で注目を浴びていた光市母子殺害事件の報道に関心を寄せていました。すると、あるニュース番組に被害者の旦那さんが登場し、「法律が彼を裁かないのであれば、自分が彼を裁きに行く」と話しました。
この時、私はテレビの前でボロボロと涙を流してしまいました。もし私がこの場にいたら、旦那さんの想いを痛いほどに受け止めてしまい、耐えることができないだろうと。常に冷静に事実と向き合い、それを伝えることが報道。でも、目の前で苦しんでいる人のために何もしてあげられずに中立でいなくてはいないなんて、私にはできない。そう思い、報道の道へ進むことを断念しました。
ただ、この出来事をきっかけに犯罪の被害者の方や、今、苦しんでいたり迷っていたりする人をどうしたら笑顔にできるのか、そのために自分にできることは何なのだろうと真剣に考えるようになりました。そして、私の中で出た答えが、「エンターテイメント」だったのです。
私自身、小さい頃から何度も映画を始めとしたエンターテイメントに救われてきました。映画を見て感動したり、どんなに嫌なことがあっても歌やダンスに打ち込めば忘れられました。
私は頭も良くないし、勉強ができるわけではない。だけど、素晴らしいエンターテイメントを届けることはできる。それによって、私がそうであったように、一瞬でも人を笑顔にし、その人の人生を少しだけでも救い、豊かにできるのではないかと思ったんです。
そこで、就職活動では映画配給会社やエンターテイメント企業、広告代理店などエンターテイメントに関われる企業や、何かを伝えられる企業をメインに受けていきました。そして、いくつかの内定をもらった中で、「上質なエンターテイメントをお届けする」と掲げていたテレビ局のWOWOWに就職することを決めました。
人と競争や比較をせずに成長してきた私にとって、多くの人がいる会社の中で戦いながら働くことに不安がありました。しかし、WOWOWは同期が10人ほど。また、内定をもらった時に、私のどんなところを評価してくれたのか、私にどんな役割を期待しているかを丁寧に説明してもらえたんです。この会社なら、きっと私らしく働くことができると確信し、入社を決めました。
想いを持つ人をサポートする仕事
入社してからは、音楽番組の宣伝担当になりました。アーティストのライブやツアーに同行したり、撮影したりした番組の宣伝をすることが仕事でした。
日本を代表するアーティストや、学生時代に憧れていたようなプロフェッショナルの方々と一緒に仕事をさせてもらうことができました。自分の仕事がたくさんの人の関心を集めていて、その一挙一動に世の中が動く。そんな貴重な経験をさせてもらいながら、そこに関わる方々に宿る熱い想いを知ることができたんです。
また、私は自信がない分、誰かをサポートすることで必要とされることに喜びを感じていたので、良いものを作ろうと熱い想いを持つ方々の下で働けることに、やりがいを感じていました。そのため、異動が決まった時に、ずっと一緒に働いていたプロデューサーから「日髙は、俺にとって全てを超えた親友です。」と言ってもらえて本当に嬉しかったですね。
音楽番組の宣伝で怒涛の約5年間を過ごした後は、加入者に毎月の番組の魅力を伝えるガイド誌の制作に携わりました。ここでも、熱い想いでコンテンツを作る人と、それを楽しみしている視聴者とを繋げるという仕事をしていきました。
自分の言葉で伝えられる人間に
そして、2015年7月より人事部に異動しました。採用をメインで担当し、たくさんの方の前に「会社」の顔として出ていくことになる予定です。昔から憧れていた、「何か大切なものを背負って、自分の力でその魅力を伝えていく」生き方をできるので嬉しい半面、自分の印象が会社の印象に繋がることもあるので、もっとしっかりしなきゃと責任感もあります。
また、今後はもっと「自分の意志」に自信を持ち、発した言葉や想いを周りから信じてもらえる人になりたいと考えています。私がダイアナ元王妃やアンカーに憧れていた理由も、そこにある気がします。結局、私が発信する言葉や意志を、「日髙が言うなら大丈夫だろう」と、周りから信頼してもらえることが幸せでしたし、そんな存在になりたいんです。
特に、自信を持って良さを伝えられるエンターテイメントを、自分の言葉で届けていけたらと思っています。評論家ではなくて、作り手の想いを理解して適切な人に届けたり、何かを求めている人のためになるものを考えて伝えたりする、コンシェルジュとかキュレーターのような役割です。私は作り手にはなれませんが、想いを伝えたい人と求めている人を繋げることならできます。これからも、理想の自分に近づくために、動いていきたいと思っています。
14歳の時にはイメージできていなかったけど、好きな仕事をして、好きなものやそれに関わる人に囲まれて、好きなことにお金を使えている今の姿は、あの頃描いていた理想に、実はかなり近いんですよね。
ただ、これまで仕事以外のことを考える余裕を持てず、自分の側にいてくれる人に迷惑ばかりかけてきました。そして何より、私が一番幸せにしたいと想えた人を笑顔にできないばかりか、その人のために何もできなかった後悔もあります。たくさんの人を笑顔にすることはもちろんですが、もっと成長して自分が幸せにしたい人ときちんと向き合って、大切にすることが今の課題ですね。そして、これからもエンターテイメントの力を届け、人を幸せにする生き方をしていきたいです。
2015.07.03