「規格外」のフルーツと野菜をあなたの元へ。モデル、ピアノの先生だった私が起業した理由。
味は良くても、形が不揃いで「規格外」になってしまった作物のための販路を拡大する事業を興すため、起業の選択をした新谷さん。ピアノの先生として生活するものの、そこまでやりたいことではないと感じながら過ごす中で、何がきっかけで起業を決意したのか?お話を伺いました。
新谷 百合香
しんや ゆりか|「規格外」作物の販路を作る
「規格外」の作物の販路を作る、株式会社e-NEXTOAの代表取締役社長を務める。
勉強が嫌いだから、ピアノの道に進む
私は山梨県で生まれ育ちました。小さな頃から好奇心旺盛で、習い事をたくさんしていました。水泳、ピアノ、絵画、新体操、その他にも数えられないくらいの教室に通っていて、毎日習い事をはしごするような生活でしたね。
ただ、それぞれ忙しくなり、並行が難しくなってきたので、先生が一番優しかったピアノに集中することにしたんです。また、仲良くしてもらっていた1歳年上の近所のお姉さんが「音大を目指す」と言っていたので、私も音大を目指すことにしました。正直、ピアノがやりたいというよりも、勉強が嫌いだったので、そっちに飛びついたんですよね。
父は地元で先祖代々のスーパーを経営していて、親戚もみんな地元の同じ進学校出身。私も本来はその高校に行くことを期待されていましたが、音大に行く目標があったので、ピアノの練習に時間を充てられるようにと、家から一番近い高校に通うことも許してもらえました。ただ、ピアノも真面目に取り組んではいなくて、友達と遊んでばかりいるような生活を送っていました。
そんな高校2年生の夏、音大を目指す人のための夏期講習に行った時、周りの必死さに圧倒されてしまいました。あたりまえですが、みんなガチなんですよね。それまで、私は勉強から逃げるため、「将来はピアノの先生になりたいかな」とぼんやり考えている程度でしたが、今まで遊ばせてもらったし、さすがにちゃんとやらなきゃと思い始めて、3年生になってからは必死に受験対策に取り組むようになりました。
そして、指から血が出るほどピアノの練習をしましたし、勉強も友達と競い合うように始めました。
音楽をやめるために、モデルの道に進む
ところが、受験直前に母の病気が発覚しました。また、父も糖尿病が悪化していて、食生活などの改善が必要でした。そのため、大学はすぐに諦めて、実家に戻って両親をサポートすることにしたんです。そして、父に健康的な食事をしてもらうため、私は独学で栄養学や料理を学ぶようになりました。
1年ほどすると、母の身体は持ち直し、父の健康状態も改善していきました。そして、私のサポートが必要ではなくなった時、「じゃ私は何をするんだ?」という話になりました。
正直、音楽の道にはもう戻りたくないと思っていました。私の実力では難しいだろうと思っていたんです。
そこで、ピアノの先生に「どうするのか?」と言われている時、たまたま机に置いてあった『CanCam』が目に入り、とっさに「モデルになる」と言いました。何か他の道がなければ、音楽をやめさせてはもらえませんから。すると、私がどれだけ本気で言っているのか見るために、その場でモデルの専門学校に入学の手続きをすることになったんです。(笑)
そのため、モデルになるイメージは全然なかったのですが、また上京してモデルの専門学校に通うことに。そして、1年の学校を終えると、運良くモデル事務所に入ることができました。
雑誌や情報誌など細かな仕事から、企業広告やファッションショーなど大きな仕事もさせてもらい、ありがたいことに順調な生活を送っていました。写真が屋外広告に出たり、化粧モデルで雑誌にすっぴんが載ったりするのは恥ずかしかったのですが、祖母が喜んでくれるのが嬉しかったですね。
指をけがして気づいた、自分の存在価値のちっぽけさ
ただ、モデルは体型を保つため、制限がたくさんありました。事務所に入ってから友達が増えて、遊びたい欲で溢れていた私には、飲み会に行っても食べられないものがあるのはストレスでしたね。元々、学校の校則ですら嫌いだったのに、仕事とはいえ縛られるのは嫌でした。
また、自分よりスタイルも顔も良い人がたくさんいて、モデルとしての限界も感じていました。そのため、3年ほど働き、広告の契約が切れるタイミングで休業することにしたんです。
その後は、ペットショップで働いていたのですが、オーナーが飛んでしまってからは、ピアノの先生を始めました。しかし、そこまでやりたいことでもないし、ちょうど初めて付き合った彼がいたので、結婚して主婦になりたいと思っていましたね。ただ、色々あって、結局別れてしまい、その思惑は叶いませんでしたが。(笑)
この頃から、経営者と会う機会が増えていきました。最初は「接待要因」として呼ばれたのですが、次第にひとりの女の子として可愛がってもらえるようになったんです。上場企業経営者から、これまで苦労された話などを聞けることも多く、この歳でこういう世界を知れるのには何か意味があると思い始め、将来は自分も独立したいと思うようになっていきました。
そんなある時、みんなでBBQをしていると不慮の事故が起きて、全治2ヶ月の大けがをしてしまいました。指も骨折して使えず、もちろんピアノも弾けないので仕事もできません。
この時、「私は指を骨折したくらいで、仕事を失ってしまう程度の人間なのか」と思ってしまったんです。社会の中で自分の価値はそんなものなのかって。周りの人は何かしらあるのに、自分には何もない。
そう思った時、もっと価値のある人になりたいと思い、起業を決意したんです。
味は良いけど「規格外」のフルーツ・野菜を東京に
とはいえ、すぐに行動には移せず、指が使えなくても仕事ができると知り合いの不動産会社で働かせてもらいました。しかし、働かせてもらっている身で言うのもどうかとは思いますが、不動産会社は男性社会なんですよね。休みの取り方だったり、空調だったり、全てが男性基準。あまりの状況だったので、つい彼氏に愚痴をこぼしてしまったんです。
その時、「じゃあ、自分で居心地の良い環境を作れば?」と言われました。彼の言う通りでしたし、愚痴っている自分も嫌でした。そこで、起業への決心が固まり、女性が働きやすい会社を作ろうと決めたんです。
また、同じ頃に、山梨と東京でのフルーツや野菜への考え方の違いを知りました。地元では夏になると「桃の腐敗臭」が漂うし、桃を置いておくと庭にたくさんのカブトムシが集まると話した時、「あの高級な桃をそんな使い道するの?」と言われたんです。私としては「規格に通らないから、捨てるか周りにあげるのが普通じゃない?」と思っていたので、その言葉にはっとしました。
山梨ではたくさんのフルーツが作られますが、味はどんなに良くても、形が少しでも規格から外れると、商品としては売ることができず廃棄されてしまいます。それがいかにもったいないことなのかと。
私自身、実家にいた頃は、ご近所さんから出荷できない野菜やフルーツをおすそ分けしてもらい、毎日好きなだけ食べていました。しかし、上京してからは、特にフルーツは「高い!」と思ってしまい、自分では買うことができず、実家から送ってもらっていたんですよね。だから、規格外でも美味しい野菜やフルーツを東京に持ってきたら、欲しい人はたくさんいるんじゃないかと思ったんです。
また、実際に山梨で農家さんに話を聞きに行くと、色々なことが分かってきました。苦労して美味しいものを作っても、売れるものは限られていること。規格外の品は、道の駅に持って行くこともあるけど、売れる量には限界があること。梱包の手間をかけて売れないと、二重に無駄になってしまうこと。高い燃料費を使って東京に持って行って売るのは現実的でないこと。
その話を聞いていくうちに、「何とかしたい」と気持ちが強くなっていきました。そして、私が東京で販路を作り実際に東京に持ってきて売ればいいと考え、事業を立ち上げることにしたんです。
「ゆりちゃんのおかげで」と言ってもらえる瞬間を増やしたい
2015年2月に起業し、山梨の農家さんが作ったフルーツや野菜の中で規格外のものを、通販で売ったり、一般家庭に宅配したり、レストランや飲食店に卸したりする事業を始めました。
農家さんには、規格外の作物を私たちの物流拠点に送ってもらいます。そこで、私たちが商品を仕分けして、送り先ごとに分けていくんです。送ってもらう時、梱包は最低限の作物が傷つかないようにするだけに留めてもらうので、いつも商品を送る時よりもかなり手間が省けます。また、実は買った人も梱包を開けるのを手間と感じている人も多いので、一石二鳥なんですよね。
山梨では、いくら美味しいものを作っても、売る方法が分からなくて廃れてしまっている畑もたくさんあります。私は「売る専門家」として様々な販路を作っていくことで、美味しい作物を「作る専門家」である農家さんを増やしていければと思います。特に、ちょうど私と同じくらいの年の人たちが、後継者として畑を継ぎ始めているので、若い力で盛り上げていきたいですね。
そして、会社としては様々な女性が働きやすい環境にしていきたいですね。子どもを生むために一度仕事を辞めた人や、あまり学歴がなくて就職しづらい人、芸能など特殊な世界にいて他のスキルがない人などが働きやすい場所にしていきたいです。
独立してからは、スケジュールは埋まって忙しいことも多いですが、毎日仕事のことを考えていて楽しいですね。お客様から「この値段でこんなに美味しいものが、こんなにたくさんあって驚いたよ」など言ってもらえると嬉しいですね。
私は、おせっかい焼きで、自分がいたことで誰かに喜んでもらえるのが好きなんです。これからも「ゆりちゃんのおかげで」と言ってもらえる瞬間をたくさん作っていきたいです。
2015.06.19