稼ぐための会社でなく、人を幸せにする事業を。順風満帆の中、リセットを決めた29歳の決断。
自身の起業経験・海外でのコンサルティング経験を元に、国や企業・NPO等、組織体を問わず事業構築の支援を行う山中さん。これまでの経験をもとに、「一緒に仕事をしたい人」と「仕事をしたくない人」を明確にしてから事業支援を進めていると話します。20歳で飲食店の開業・25歳でハワイにてコンサル企業の立ち上げという異色のキャリアを経て、「事業を通じて誰もが幸せになるような仕組みを創る」という目標を掲げる背景とは?お話を伺いました。
山中 哲男
やまなか てつお|事業構築支援
事業構築の支援等を行う株式会社インプレスの代表取締役、NPO法人エイジコンサーンジャパン事業推進部長、世界最大シニアコミュニティU3Aが行うU3A国際会議実行委員、広島最大級ダンススクール株式会社K.D.S顧問、「公益資本主義」アントレプレナー・イニシアチブ準備室事務局長を務める。
著者:「あったらいいな」を実現するビジネスのつくり方
他人の成長が一番のやりがい
私は兵庫県加古川市に生まれ育ちました。小学生の頃から走ることが得意で、学校でも足の速さは一番でした。そのため、顧問の先生や先輩からの熱烈な勧誘を受けて陸上部に入部し、高校でも、陸上の強豪校に進学しました。
また、中学高校と100mの選手を務め、部活ではキャプテンを務めていました。同学年の中でもタイムが良いことに加え、下級生の頃から、思ったことは口に出す性格で、周りが言えないようなことも代弁するため、推薦を受けて役職を務めていました。
例えば、全体メニューを皆で進める中で、「もっと一人一人に合った練習の方が成果につながるんじゃないか」という考えから、練習の細分化を先生に提案していたんです。納得できないことについては例えぶつかってでも意見を伝えており、最終的には「じゃあお前がやれ」ということで練習を一緒に考えるようにもなりました。
自らの成果のためにストイックに努力することはもちろんなのですが、他のメンバーやチーム全体が向上することに関心があったんです。そのため、人に物事を教えることもとても好きでしたね。成績的には自分が学年でトップだったため、周りのメンバーも一緒に上位の大会に行きたいという思いもありましたし、何より、人の成長を見ることが一番のやりがいでした。
そんな部活中心の生活を経て、卒業が近づくと、将来の進路を考えながらも、いわゆる「将来の夢」は昔から描けないタイプでした。小学校の頃から、夢を書けと言われても何も出てこず、頭が真っ白になってしまっていたんです。陸上では県でもトップレベルの成績を残すことができましたが、特にアスリートとしてやっていきたいという気持ちは無く、逆に人に教えられる分野だからやりがいを感じていたのかもしれない、という感覚でした。
そのため、短期的な目標として、中高でお世話になっていた先輩が所属する大学の陸上部に入り、大好きな人とこれまで通り陸上をしながら楽しい日々を過ごしたいと考え、先輩のいる大学を受験することにしました。
ところが、迎えた大学受験では、前期・後期共に不合格となってしまったんです。正直、びっくりしましたね。不安よりも「いけるでしょ」という感覚が強かったからこそ、「うそうそうそ?」と結果を疑いました。人生で初めての挫折でした。
ただ、結果は変わらないため、受け入れるしかないと考え直すと、選択肢は浪人か就職の2つでした。他の大学には興味がないし、その大学についても、浪人してまで行きたいかというとそうではなかったんですよね。そこで、すぱっと諦め、欠員補助が出ていた地元の工場で働くことを決めました。
加古川は大手企業の工場が多いこともあり、周りでも就職先の7・8割は工場で、特に迷いは無かったですね。中学生くらいまでは、社会には工場しか仕事が無いと思っていたくらいでした。(笑)
コンサル業界に入るために飲食店を開業
就職後は新規事業の現場に配属となり、いきなり覚えることばかりで、仕事というよりも、新しい物事にチャレンジをしている感覚でしたね。物覚えは良かったため、すぐに指導する側に回り、違う工場に指導に行く機会もあり、仕事にやりがいを感じていました。
しかし、1年ほど仕事を続けていく中で、将来に対しての不安を感じるようにもなっていきました。休憩所でタバコを吸って勤務中にTVを見たり、愚痴をこぼしていたり、勤務し続けた先の10年後・20年後のイメージに対して、「仕事ってこんなものなのかな」と感じてしまったんです。そんな風に考え始めてからは、このままではまずいと思い始め、転職を考えるようになりました。
ところが、「じゃあ何をしようか?」と考えても、特にやりたいことが見つからず、悶々とする日々を過ごしました。そのため、休みの日に日雇いのバイトをして、どんなことがしたいのか、自分の関心の対象を探すようになったんです。
そんな生活を何ヶ月か続けた結果、自分がやりがいを感じる「人に何かを教えること」を仕事にする手段として、コンサルタントとして働くことに関心を抱くようになりました。自分の中でようやく見つかった感覚があり、気持ちよかったですね。
しかし、実際に転職先を探してコンサル業界を受けて周ると、全て落ちてしまったんです。そもそも大卒が条件の企業もありましたし、専門分野が無いことや、何より実務経験が無いことを指摘されてしまったんですよね。ここでもまた壁に塞がれてしまいました。
そこで、この状態で面接を繰り返しても仕方ないと思い、5年程しっかり実務経験を積んで25歳でコンサルティング業界の会社に転職しようと決めました。そして、企業に入って色々な経験を積むのは時間がかかると感じたため、自分で起業してしまおうと考えたんですよね。
そんな流れから、実務経験を積むために起業しようとして行き着いたのは飲食店の事業でした。元々、地元のチェーン店でご飯を食べていて、狭くてガチャガチャした店が多く、フラストレーションを感じていました。そのため、ゆったりとくつろげる空間を創りたいという思いがあったんです。私自身は飲食店でアルバイトすらしたことが無い状況でしたが、周りの大学生の友人が皆飲食店でアルバイトをしていたこともあり、人をまとめることは得意だから、チームでなんとかしようという思いもありました。
そして、1年弱働いた会社を退職し、20歳のタイミングで、個人事業主として独立をしました。受験失敗・コンサルの不合格と、いつも失敗がターニングポイントでしたが、前を向いて、自分の感覚と向き合い選択肢を決めていくことで、次の挑戦に進んでいきました。
周りの助けを借り、店は大繁盛へ
退職後は、地元で17坪の小さな炭火焼き鳥の居酒屋の開店に向け、準備を進めていきました。しかし、飲食業界についての知識等全くなかったので、準備はグダグダで周りに怒られてばかりの日々でしたね。何でも自分でやらなければと背負い込むことで、ぐちゃぐちゃになってしまったんです。
ただ、「次第にできないことはできないと言ったほうがいいんだな」と気づいていき、例えば、飲食店でシフト作りをしたことのある友人が協力をしてくれる等、できないことを伝え、協力者ができることで物事が上手く進んでいきました。
そして、21歳のタイミングで店をオープンすると、なんと初月から大反響で、オープンからクローズまで満員という状態が続いたんです。元々、田舎の店のため最初は人が来ることを利用し、口コミを起こすこと、リピーターを獲得することに一点集中しようとしていました。そのため、メニューを最低限に抑え、お客さんに新しく欲しいメニューを聞いて周り、「票が多かったものを来週までに仕入れるからまた来てください!」と伝えると、たくさんの人がリピートしていただくことができたんです。居酒屋を開業しながらも、私がお酒が飲めないこともあり、お客さんにメニューを聞いてみようという発想もありましたね。(笑)
そんな風にお店は軌道にのり、予約の絶えない地域に愛される店になっていき、店舗数も増えていきました。しかし、飽くまで自分は25歳で辞めて転職しようと決めていたため、将来独立を考えている友人に店長を任せ、23歳頃からは、自分の転職についても少しずつ考え始めるようになりました。
目の前の課題解決のため、ハワイでコンサル起業
そして、24歳を迎えた頃から本格的に転職活動の準備を始め、候補となる会社のリストアップを始めました。事業は拡大していましたが、飲食を続けようという気持ちは全くありませんでしたね。
そんなある時、たまたま同業の社長の方々とハワイに旅行に行く機会がありました。すると、現地で飲食業を営む日本人の社長から、現地のコンサル企業に騙されたという話を聞いたんです。詳細を伺ってみると、海外展開ということもあり、日本企業にノウハウはないためコンサル企業に依頼するのですが、価格をぼったくられたり、適切なサービスを受けられないという課題があるとのことでした。
その話を聞いていると、「就職せずに、ハワイで自分でコンサルをやろうかな」と考えるようになりました。目の前の人が直面している課題を聞いたことで、それまでリストアップしていた転職先の情報等が全て飛んでいってしまったような気がしました。
そこで、ちょうど25歳のタイミングで飲食事業は仲間に引き継ぎ、ハワイで飲食店に対しコンサルティングを行う会社を起業しました。
しかし、英語ができないことに加え、コンサルティング自体が未経験ということもあり、最初は苦しみましたね。海外進出ということもあり予算は数千万〜数億に上ることもあり、コンサル未経験の若者に任せるには非常に大きな額だったんです。結局初めてから1年は新規の契約を取れずにいました。
しかし、ある京都の料亭の社長から、「君、面白いね」と言っていただき、なんとか初めてのコンサルティング契約に至ることができたんです。初めての支援ということもあり、トラブルが多く、私たちの利益はほとんどない状況でしたが、お店は繁盛することができ、私たちとしても一度支援を行ったことで、流れを掴んだ感覚がありました。
何不自由ない、順風満帆の中の退職
すると、創業2年目のタイミングでリーマンショックが起こり、日本企業の海外進出が盛んになっていったんです。私たちにもダイレクトに影響があり、月の問い合わせは10倍に増え、お客様の課題に合わせ、飲食店以外の支援を行うようになりました。
また、ハワイでは土地が狭いため、現地の企業ごと買収してしまうケースも多く、依頼ベースでM&A事業にも展開を進めていきました。そうして、飲食業界や美容業界など、様々な業界の海外進出の支援に携われるようになっていったんです。
私自身は日本とハワイを行き来していたのですが、これまでの経験もあり、段々と国内でも起業の相談をいただくようになっていきました。そこで年に数件だけ、事業立ち上げの支援を行うようになり、別会社として株式会社インプレスという会社を日本に立ち上げました。とはいえ、ハワイでの事業が9割・インプレスでの支援が1割という比率で、ご紹介ベースで支援をするような感じでしたね。
その後、本業は急速に成長を続け、まさに順風満帆という状況でした。会社はノリに乗って何不自由無い状況で、社内外から、ハワイ以外にも他国へ展開しようという声が上がっていました。
しかし、私自身、ハワイでトラブルに直面している人に出会ったからこそハワイで始めたため、正直、他の国での展開にはあまりモチベーションが無く、逆に周囲との温度差にモヤモヤを抱いていました。
すると、29歳のタイミングで、癌を患っていた母が脳腫瘍で倒れてしまい、24時間看病が必要な状況になってしまったんです。姉がいたものの、子どもが生まれたばかりということもあり、父一人に看病をまかせるわけにはいかないという思いもあり、会社を退き、一度全てをリセットすることに決めました。
正直、自分がゼロから創って来たこともあり、辞めることには葛藤もありましたが、このままではいけないという危機感からの決断でした。
事業を通じて誰もが幸せになる仕組みを
その後実家で父と12時間毎に看病を交代する日々を過ごし、30歳のタイミングで母が亡くなりました。正直、それからしばらくは、ぼーっとした感覚で、何かをしようという意欲が生まれませんでした。
しかし、ありがたいことに、知人から事業の相談等の電話をコンスタントにいただいたことで、次第にもう一度何かしようという感覚を取り戻してきたんです。人に求められて、活力が生まれていったんですよね。
そこで、改めて今後どうしようか考えると、先の連絡のように、起業や事業開発の相談が来ていたこともあり、その支援をしたいと考えるようになりました。ただ、それまでとは異なり、「自分が共感できるもの」だけ支援したいという気持ちがありました。
というのも、ありがたいことに日本でも支援を始めてから、様々な相談をいただき、コンサルティングを行って来た中で、「儲けたい」「年商●億にしたい」と自分だけに関心が向いた起業家と一緒に仕事を進めると、話をすればするほど違和感を感じるようになっていたんです。だからこそ、「自分がどんな人と仕事をしたいか」というのはとても意識しているテーマでした。
そして、私が心から支援したいと考えていたのは、事業を通じて誰が喜び、どんな人の悩みを解決できるかが明確な人や企業でした。それまで50弱の事業立ち上げに関わって来た経験からも、儲けるために会社があるわけではなく、喜んでもらった結果がお金になるという確信があったんですよね。
だからこそ、自己欲求のための案件は受けないようにしていますし、逆にNPOや一般社団法人等、組織体は問わずに支援を始めました。
そんな背景で株式会社インプレスを本格的に稼働させると、以前から海外進出支援等で関わった方のご紹介等もあり、国の仕事や海外の大学の案件等、普通に自分の年齢で働いていたら触れることのできないような仕事に携わる機会をいただけるようになりました。特に、共感を前提に仕事をしているので、素敵な人に囲まれて仕事ができ、仕事へのやりがいや納得感が非常に大きいですね。
今後は事業を通じて、誰もが幸せになるような仕組みを創ることをしていければと考えています。人が喜んでくれること、人や社会の悩みを解決することで本当に事業が成り立つのか、と疑問を持たれることもあるのですが、実際に事業として成り立って来ていますし、今後も成り立つことを証明し続けていきたいというモチベーションがありますね。そういった仕組みができることで、私でなくてもいいタイミングも来ると考えています。
昔は将来やりたいことなんて浮かびませんでしたが、人の成長を見ることなどのやりがいを見つけた今は、このやりがいを感じる点を自分の役割と信じ、人や社会の問題解決をしたいという同じ想いをもった企業や組織を支援することで社会に貢献していきたいですね。
2015.05.23