モデル・女優・脚本家を経て、唐辛子農家へ。100年以上続く唯一の味を、次の世代に。

2014年に起業して、100年以上受け継がれてきた祖母の唐辛子を生産、加工、販売に至るまでを一人で行っている宮崎さん。今までモデル、女優、脚本家の道を歩んできて、34歳で唐辛子を育てることに決めた背景にはどんなストーリーがあったのでしょうか、お話を伺いました。

宮崎 可奈子

みやざき かなこ|唐辛子の生産・加工・販売
佐賀県唐津市で栽培した唐辛子の生産・加工・販売を行っている。
唐辛子を加工して一味やサルサなどを作り、「唯一味」と名付けて販売している。

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17歳、モデルへの挑戦


神奈川県の鎌倉で生まれました。1歳から10歳まで千葉県船橋市で過ごし、父の転勤で、小学5年生の頃に兵庫県西宮市に引っ越しました。夏休みやお正月は、両親の実家である佐賀に毎年帰省していましたが、方言が強い祖母の言葉がわからなくて、幼い頃は外国人なのかと思っていました。(笑)

私は小さい頃から好奇心旺盛で、勉強も遊びも何でも1番になりたくて、1番になる為にやるべきことをして、必ず成し遂げるようなストイックな子どもでした。しかし、千葉県から兵庫県に引っ越しをして、関西弁という壁にぶつかり、初めはクラスメイトと上手くコミュニケーションを取ることができなかったんです。

学校を休みがちになった時期もあり、何でも1番になることが難しくなりました。生まれて初めての挫折でした。両親とぶつかったりする事が多くなり、自分には味方が居ないのではないかと思い込んでいた時期がありました。

そんな時、佐賀に住んでいる祖母が電話で、「私はかなちゃんのことを好きだよ」と言ってくれたんです。そのたった一言が、それまでこの世の終わりみたいに落ち込んでいた私の心を、嘘みたいに軽くしてくれました。それ以来、私は祖母が大好きになり、いつか必ず祖母には恩返しをしようと思うようになりました。

中学生になると、1番になることよりも、自分のやりたいことや自分らしさについて考えるようになりました。漠然とですが、突き抜けて自分らしくいることがかっこいいと思っていたので、どうしたら自分も突き抜けられるのかを考えたんです。そこで、ドラム、洋服作り、詩、小説、料理、カメラなど、関心を持ったものは中学・高校で色々と挑戦してみたのですが、その中でも特別に好きなものは見つからず、将来は大学に通いながらやりたいことを見つけていけたらいいなと思っていました。

そんなことを考えて過ごしていた17歳の時、いつも髪を切ってもらっていた美容室で、頼まれてカットモデルをすることになりました。そして、最初に撮影した写真がいきなり雑誌に載ったんです。「まさか!?」という感覚でした。

撮影用のメイクをして、髪をセットしてきれいな顔で写真を撮るのは生まれて初めてで、みんな私の写真を良いと言ってくれたのですが、自分ではどこが良いのかわかりませんでした。逆に、「こんな写真が雑誌に載ってしまったのか、汚名返上したい!」と思ったんです。

しばらくして、今度は、ウエディングの撮影に呼んでもらったり、日本画のモデルをさせてもらったり、ウォーキングのレッスンに誘われたり、たまたま次から次にモデルの仕事をもらうことが続いていきました。正直、写真を撮られるのは苦手でしたが、求められるということは向いているのかなと考えるようになりました。

そして、高校卒業後は、知人に紹介して頂いた、モデル事務所に所属することに決めました。

女優に転身し、東京へ


モデルの仕事を沢山させて頂くうちに、段々と表現力にこだわるようになっていきました。ちょうど、自分を売り込むための宣材写真を撮る機会があったのですが、そこでふと、カメラマンに、「泣き顔」でも撮ってみたいと提案してみました。すると、それは女優の仕事だとバッサリ。(笑)

そんな時に、事務所から初めてお芝居の仕事をもらったんです。実際に挑戦してみると、お芝居はモデルのようにかっこよさや綺麗さを求められるわけではなく、新鮮でした。監督、カメラさん、照明さん、音声さん達みんなで作っている感覚に充実感を感じ、単純にお芝居の現場がすごく好きになりました。

お芝居を初めてからは、段々表現することが楽しくなっていき、仕事の幅も広げていくようになりました。しかし、関西では仕事があまりなかったこともあり、21歳の時にモデル事務所を辞めて、兵庫県を離れ、東京に行くことに決めたんです。東京で事務所を探し、芸能プロダクションに所属することに決めました。

女優業に専念してみると、モデルの時は、毎日大忙しだったのに、オーディションも仕事もほとんどない、お芝居や殺陣などのレッスンの生活が始まりました。しかも、所属していた事務所が、ちょい役では出さないという方針だったので、最初の1年くらいは仕事が無くて、アルバイトをしながらの日々でした。

ある時、マネージャーさんから、台本を読む力を育てるために、脚本家がどういう気持ちで書いているのか、セリフをどういう意図で書いたのか理解するために、脚本を書くことを勧めてくれたんです。そこで、実際に自分でも執筆を始めたのですが、学生時代に小説を書いていたこともあり、脚本を書くのは楽しかったですね。

死を身近に感じ、人生を見つめ直す


ところが、27歳の時に、ずっと芝居のレッスンをして頂いていた恩師である映画監督が突然亡くなってしまったんです。その監督には、東京に来た頃からずっとお世話になっていて、芝居を通して「人」について教えてもらいました。

監督が求める魅力的な芝居ができる女優になりたい、この役を監督ならどうやって解釈するんだろうって、きっとあのレッスンに通っていた人はみんなそう思ってついて行ってたと思います。私自身、監督の存在があったからこそ、上手くいかない辛い時期も何とか乗り越えることができていたんです。

そのため、監督が亡くなってしまってからは、現状に悶々とするようになりました。その頃、少しずつでも仕事ができるようになっていたのですが、このまま芽が出なかったらどうしようと、どんどん怖くなったんですよね。

また、ちょうど同じ時期に母親が皮膚ガンになりました。私の兄弟はその頃みんな東京にいて、兵庫県には両親2人だけだったこともあり、申し訳なく感じましたし、さらに別の親戚が亡くなったことも重なり、改めて死を身近に感じたんです。

自分の現状や将来のことを見つめ直すべく、27歳の時に一旦実家の兵庫県に戻ることにしました。戻ってきてから暫くの間、塞ぎ込んで心の整理をする日々を過ごしました。

ある晩、夢に恩師である映画監督が出てきて、紙と鉛筆を手渡されたんです。きっとお芝居への未練などが色々あったんだと思います。それを期に、私は、真剣に脚本を書いてみようと、シナリオの学校に週1回通ってみたり、いろんな人に脚本の仕事を頂いたりしながら生活をしていきました。

100年以上続く祖母の唐辛子を、次の代に繋げたい


そんな風に過ごしていた時、私の祖母が80歳を過ぎ、今まで家庭用に色々野菜を作っていて毎年送ってくれていたのですが、そろそろ歳だから畑を辞めるということを聞きました。特に祖母の作る唐辛子は、その味以外食べたことがないくらい美味しかったんですよね。話を聞いてからは、「この唐辛子がなくなるの?」と、悲しい気持ちになりました。

また、祖母は唐辛子を一味にして毎年コーヒーの瓶2本ぐらいの量を送ってくれていて、いつも食べきれなかったので、仲の良いお友達や知り合いにおすそ分けもしていました。すると、そのおすそ分けをしていた知人が祖母の唐辛子の虜になり、だんだん「売ってくれないか?」と声を掛けてくれるようになりました。農地もあるので、祖母に種を分けてもらい、とりあえずちょっとだけ多く作ってみることにしたんです。そこで、佐賀県にいる祖母のもとに行き、唐辛子の作り方を教えてもらうことにしました。

祖母と過ごす佐賀での農業生活は、今まで都会で刺激的な生活を送ってきた私にとって、のどかで、時の流れが止まったような感覚でした。今までは頑張って走って走って生きてきて、それこそが充実感を得られるのだと信じていたのですが、ゆっくりと時が流れる農業生活の方に、不思議とそれ以上の生きている実感が、農業生活の方が強かったんですよね。土をいじるのは癒されますし、収穫した唐辛子の実から種を取り、来年に繋げる喜びを感じるようになり、段々と、この淡々と過ごす生活が、幸せだなと思うようになりました。

また、畑仕事を祖母としている時に、祖母はこの唐辛子の種を自分の父親から受け継いだことを話してくれました。私自身初めて知ったのですが、ずっと代々当たり前のように、祖母の家系で100年以上受け継がれてきたものだったんですよね。それは、何でも簡単に手に入ってしまう今の私たちの生活からだと考えられないもので、すごく貴重で、そろそろ祖母が歳だからという理由で絶やすのはもったいないと思いました。

そんな背景もあり、私はこの唐辛子を次の代に繋げるために、毎年育てていく役割を担っているという気持ちが強くなり、2014年に起業することに決めたんです。

「唯一の味」を引き継ぐことで、祖母への恩返しを


現在は、唐辛子の生産・加工・販売を殆ど一人で行っています。生産の時期は1ヶ月の半分を佐賀県で過ごし、残りは兵庫に帰ってきて加工、販売するという生活を送っており、生産では、畑を耕して種まきから収穫までを、農薬を使わずに昔ながらの作り方で作っています。

例えば、唐辛子の一株一株の周りの草を取り除いたり、天日干しの作業は特に大変です。ほとんどの企業は機械化ですが、地面にゴザを敷いて唐辛子を置いて、天気を気にしながら天日干しを行いますし、激しい温度変化はカビの原因になるので、朝一で唐辛子を外に出して、陰ってきたらすぐに片付けないといけないんです。それでも、大変な分だけ味も良いですし、昔の人が手間暇かけてやってきた仕事をしっかりやっていこうと思っています。

私にとって、唯一の味だからこそ、祖母の唐辛子を受け継いだので、一味と唯一の味の意味を込めて、商品を『唯一味』と名付けました。

今は商品をオンラインストアや取り扱い店舗で販売しています。これからは、この唐辛子を次の代に繋げて大切に守っていくために、やるべきことをきちんとしていこうと思っています。そして、これが祖母への恩返しになるかわかりませんが、この唐辛子をもっと多くの人に食べてもらって、喜びの声を頂くその度、祖母に伝えたいです。

祖母に、学生時代に救ってくれてありがとうという気持ちを伝えたいのですが、感謝の気持ちが強すぎて、ありがとうの一言に全部を込めれる気がしないので、いつか恩返しと共にそれも伝えられる方法が見つかればいいなと思っています。

また、今は脚本を書く余裕はありませんが、趣味でもいいのでこれからも書き続けていきたいと考えています。今はたまに畑仕事の合間に執筆するのが楽しいので、チャンスが巡ってくれば仕事としてできたらいいなと思っています。

2015.03.16

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