目指すは30年間で30ブランドの立ち上げ。日本のいい“作り手”が報われる世界をつくる。

日本の技術を使った日用品やレア・ドライフルーツなどの商品を開発し、世界に展開する有井さん。今後30年間で30個のブランドを作りたいと言います。その背景にある思いとは?お話を伺いました。

有井 誠

ありい まこと|株式会社Unsungs&Web代表
株式会社Unsungs&Web代表。日本から世界に向けた「Crafted in Japan」のブランドを創ることをミッションに活動中。伝統工芸や職人の技術をよりどころとするブランドではなく、日本のものづくりの技術を活かしつつ、新たなライフスタイルを提案するブランドづくりを目指している。自社ブランドとして、ハウスケアブランド「Komons」とレア・ドライフルーツのブランド「FRUITEST」を設立した。

ものづくりは向いてない


山梨県の南アルプス市で生まれました。近所に果物農家が多く、同居する祖父もブドウ農家。家にはいつも、お裾分けでもらった完熟のおいしい果物がありました。

家族のなかでは、3人姉弟の末っ子です。姉や兄がやんちゃだったので、なんとなく「自分は真面目に生きなければ」と思って育ちました。

小学生のとき、日本のメーカーが開発した世界初の二足歩行ロボットのニュースを見て、「ロボットの開発者」に憧れるようになりました。将来は機械メーカーでロボットをつくりたいと思ったんです。

しかしそのうちに、ものづくりは向いてないなと感じるようになりました。いわゆる「お勉強」は得意ですが、頭の柔らかさやクリエイティビティは自分にはないなと感じたんです。そんな自分とは対象的に、兄は知恵の輪やパズルなど「頭の柔らかさ」が求められるものが得意で、いつもすごいなと思っていました。

3歳から水泳をはじめましたが、小学5年生のとき、友達がいたからという理由で水泳をやめバスケットボールチームに所属しました。県大会で優勝するチームで、練習は厳しかったですが、上手なチームメイトを見て「自分も上手くなりたい」と頑張って練習しました。上達するうちに、どんどんバスケが好きになっていきましたね。

中学卒業後は、県内にある高校の特進クラスに推薦で入学しました。高校でもバスケ部に入部しましたが、「部活より勉強をしなさい」と言われるクラスで、朝や休み時間に集中して勉強し、宿題や予習を終わらせて放課後はバスケをしていました。

その甲斐あって、高校2年生のときには成績が伸びはじめ、卒業間際には学年でトップクラスの成績になっていました。理系、文系どちらの科目も好きだったので、進路を決めるときはどの大学の何学部に行くか悩みましたね。どちらか一方の科目だけに決めたくなかったので、入学後に進路を決められる大学を受験し、現役で合格しました。どちらかを選ぶのではなく、両方やりたかったんですよね。

海外でビジネスできない日本メーカー


大学では複数のサークルに入り、バイトや勉強もバランスよくこなそうと考えていました。しかし、入学してすぐにアメリカンフットボール部の先輩にご飯をおごってもらい、気がつけばそのまま入部することになっていました。

その後は、アメリカンフットボール一色の大学生活を送りました。朝から晩まで練習漬けの毎日でした。途中で進路選択があり、なんとなく興味のあった理系の工学系の学部に進みましたが、勉強よりも部活優先の生活でしたね。

大学卒業後は大学院に進み、スイスに1年間留学しました。これまでスポーツしかしてこなかったので、もう少し勉強がしたいと思ったのと、もっと広い世界を知りたいと思ったからです。スイスを選んだのは、ヨーロッパの地理的中心ということで、多種多様な人種がいて色んな価値観が内包されてるなと思ったからです。

留学してみると、スイスにはアジア系の人が少ないこともあり、街中でジロジロと見られたり、電車のなかでからかうように日本のゲームの歌を歌われたりするなど、差別的な扱いを受ける経験もしました。

留学先の学校では、新エネルギーにまつわる「技術」と「経済」を学びました。技術に関する授業では、日本発の技術が頻繁に登場し、誇らしく感じましたね。留学して初めて「日本人としての自分」を意識するようになっていたからこそ、余計に誇らしかったんだと思います。

一方、経済に関する授業になると、日本の名前はほとんど出てこなくなりました。それをものすごく悔しく感じました。日本のメーカーは、技術はあってもお金を稼ぐ仕組みをうまく作れていんだなと痛感すると同時に、そんな現状を自分の手で変えていきたいと思うようになりました。

帰国後は日本の技術力のある会社の力になりたいと、日本企業へのコンサルティングを行う企業を選んで就職活動しました。その結果、ご縁あった大手コンサルティング会社へ入社しました。入社後は日本メーカーの海外新規事業戦略を立案するプロジェクトなどを中心に担当しました。

最初は新しい環境や仕事についていくのに必死でしたが、入社から1年半ほどしてプロジェクトの進め方に慣れてくるようになると、今度は「なにか新しいことをやりたい」という気持ちが大きくなりました。

そんなとき、アパレル企業の運営するショッピングサイトのウェブマーケティング戦略の見直しを任されました。既存の仕組みでうまくいってない原因を特定し、一つずつ改善していく仕事です。最終的にはウェブ広告経由での売り上げがこれまでの6倍にまで上がりました。

通常、企業の戦略コンサルティングの場合は、戦略を立てて5〜10年後に成果が出ます。一方、ウェブマーケティングの世界であれば、短期間でも大きなインパクトを出せる可能性があるのだと実感しました。すぐに結果が出るわかりやすさにやりがいを感じ、ウェブマーケティングの世界に夢中になりました。

ものづくりの世界に飛び込む


成果が認められ、社内に新しくウェブマーケティングの専門チームのようなものをつくりました。興味ある分野に集中できて楽しかったですね。しかし、だんだんとウェブマーケティングの世界の中でも「広告による集客」に関してしかタッチできないことに物足りなさを感じるようになりました。そこで、より幅広い業務に挑戦できる環境を求めて、別の会社に転職しました。

ただ、そこは規模が大きな会社ということもあり前職と比べて仕事の役割分担が細部までなされていて、前職のように自由にいろんな人と協力しながら仕事を進めることができませんでした。お客さんのために制限なく働きたいのに、なかなかできない現状に歯がゆさを感じ、仕事に対するやりがいを見出せなくなっていきました。

そんなとき、地元山梨で起業していた兄から、「個人でも使えるレーザー加工機を開発したから、売るのを手伝ってくれ」と連絡が来ました。ちょうど仕事にやりがいを感じられなくなってきていたのもあり、「身内の役に立てるなら」と会社を半年間休職して、事業の手伝いを始めました。

手伝い始めた当初は「マニアックなレーザー加工機なんてものを買う人がいるんだろうか?」と疑問でしたが、世界中の3Dプリンターなどデジタルを活用した機器を使ってものづくりを楽しむ人たちから続々と注文が入るのを目の当たりにしました。少量しか作っていなかったので、すぐに生産が追いつかない状態になりました。レーザー加工機というマニアックなものだからこそ、ウェブを通じて世界中の人がうちの商品を買い求めてくれる。そんな状況を面白いなと思いましたね。

開発は兄が中心に進め、僕は部品の調達や、商品を売り出すマーケティング戦略の組み立てなどを担うようになりました。その経験を通じて少しずつものづくりに対する抵抗感は薄れていきました。

日本のものづくりの良さを伝えたい


生産体制の拡大に伴い、国内外のメーカーにレーザー加工機の部品をつくってもらうようになると、日本のものづくりの素晴らしさを改めて痛感しました。たとえば、ネジひとつとっても、取引先だった中国メーカーのものは寸法の精度があまかったり錆びていたりしたこともありました。一方、日本メーカーのネジは仕様以上の精度で作られているものが多かったです。

大量生産による低コスト化という点では日本はもはや海外メーカーに太刀打ちできません。それでも、「細部へのこだわり」という点ではまだまだ世界に誇れるものがあると思いました。

「こだわり」を持った作り手が日本にはたくさんいる。そんな作り手のお手伝いが、これまで培ってきたマーケティングの経験などを活かせばできるんじゃないかと思い、29歳の時、独立してコンサルタントとして全国にある地方の中小製造企業のサポートを始めました。

半歩先のライフスタイルを訴求する


コンサルタントとして何社かお手伝いをするうちに、自分のアドバイスがなかなか相手に響いてないなと感じるようになりました。自分でリスクをとってものづくりをしたことがない若造が偉そうに何か言っても、説得力がないんだろうなと思いました。

そこで、商品開発から販売までやってみようと考えました。自分自身がリスクを背負って取り組む姿を見せれば、どれだけ日本のものづくりに貢献したいと思っているのか、本気度が伝わると思ったのです。

いざ開発を始めるとなると、何を作ろうか悩みましたね。日本のものづくりと言うとどうしても伝統工芸の話になりがちですが、私はそうではなく軽工業の領域にこそ取り組むべき価値があると考えました。

これまでの伝統といった過去にばかりとらわれるのではなく、日本の技術力や素材を背景にしつつ半歩先のライフスタイルを訴求するブランドをつくっていきたい。そんな思いを形にすべく、30歳のとき株式会社Unsungs&Webを設立しました。

最初に開発に取り組んだのは、食器用洗剤やトイレクリーナーなどのホームケアプロダクトでした。市場は大手の画一的な商品で寡占状態。当時の我が家も含め消費者は、その使い心地やデザインなどが好きではなくても、それしか選択肢がないので使わざるをえません。
ただでさえ面倒な家事の時の気分を輪にかけて押し下げていたそれらの日用品の使い心地やデザイン、そして香りに徹底的にこだわったものが出来たらそんな「20世紀的」な状況に対するアンチテーゼを作りたいと思ったのがきっかけでした。

商品づくりに際しては、使い心地やデザインだけでなく、「香り」に徹底的にこだわりました。全国を回り香りの素材を集め、約1年半にわたって香りの調合を繰り返しました。香りの調合が出来た後はその試作品を工場に持ち込んで、作って欲しいとお願いして回りました。40以上の工場に断られましたが、なんとか開発することができました。

その後、かねてから手掛けたいと思っていた日本の完熟果物をつかった商品の開発も始めました。東京や海外で食べる果物が、子どものときに地元で食べていた旬の完熟果物とは全然味や香りが違い、美味しくないなと思ったことが開発のきっかけです。というのも、スーパーに並ぶ果物は、流通の関係で7〜8割の熟し度合いで出荷されます。それでは、日本が誇る完熟果物の「本当のおいしさ」が味わえないのです。

開発を進める中で出会った、完熟果物の香りを最大限に閉じ込める「レア・ドライ製法」の技術を持つパートナー企業と一緒に、全国の農家から厳選した素材を仕入れ「レア・ドライフルーツ」のブランドを立ち上げました。どちらも開発開始から実際の商品ができるまで1年以上かかりましたが、ようやく自社のブランドを生み出すことができました。

良いものを作る人が認められる世界を


現在は、ホームケア商品のブランド「Komons」とレア・ドライ製法を使ったドライフルーツのブランド「FRUITEST」を作り、それぞれウェブを使いながら商品を販売しています。さらに、新しいブランドも開発中です。ライフスタイルの半歩先に訴求できるようなブランドを、日本発で作っていきたいですね。

目標は30年間で、30個のブランドを作ることです。1つ1つのブランドの規模も大切かもしれませんが、衣食住にまたがって数を多くのブランドを作ることにこだわってやっていきたいと思っています。自分から出るアイディアは限りがあるので、「何かをつくりたい」と思う人が集まり、それぞれのこだわりが詰まった新しいブランドを作っていく会社にしていきたいですね。

ブランドを作るのは、ある種アート作品をつくる感覚に近いと思っています。アート作品は「お客様が欲しいもの」ではなく「作り手が表現したいもの」。なかなか売れず世の中に認知されないかもしれない。売上を第一に考えるなら、自分たちのエゴは極力抑えて、市場にあった商品の開発に取り組むべきです。

大企業に対するコンサルティングの仕事を経験したからかもしれませんが、利益だけを考えたビジネスには、興味はありません。大学に進学するとき、理系と文系をどちらも選んだように、2つあれば両方選びたくなります。自分自身の作品としてもビジネスとしても成り立つブランドを作っていきたいと思っています。そうやって生み出し続けたブランドを通して、良いものを作る日本の作り手が再び評価される世界を実現していきたいです。

周りからは「そんなきれいごとではやっていけないよ」と言われますが、今後も作品性だけ、ビジネスだけとどっちかに振るのではなく「きれいごとで飯を食っていく」ことに挑戦したいです。

2019.09.23

インタビュー・ライティング | 種石光
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