携帯電話研究家として、好きなことを追求する。
通信と人の行き着く未来を見届けて。
携帯電話の研究家として、世界を飛びまわって研究・収集している山根さん。化学メーカーでの海外駐在をきっかけに携帯電話にのめりこみ、研究家として独立した背景とは。お話を伺いました。
山根 康宏
やまね やすひろ|携帯電話研究家
香港在住の携帯電話研究家。世界中の携帯電話事情を追い求め、1年の3分の2を海外取材に費やす。日本で知られざる海外メーカーやサービスについて精通している。海外渡航時は現地のスマートフォンを必ず買い求めるコレクターでもあり、収集した海外携帯電話の数は約1500台に達する。
SFにハマって化学の道へ
北海道釧路市で生まれました。幼稚園から仙台に、小学校1年生からは東京に引越しました。
父親は銀行員で、お金に余裕がありました。小さい頃から本を無尽蔵に買い与えてくれたんです。その中でも特にSFの本が好きでした。夢があって未来にワクワクしましたね。
中学校では写真部に入りました。思春期ということもあり、自分の背が高いのが嫌いだったり、ニキビが嫌だったり、見た目に対するコンプレックスの塊でしたね。小さい頃に比べて人見知りになっていきました。
高校からは綺麗な新設校に進んだこともあり、環境が大きく変わりました。自然科学部に入って、野原に行って虫を取ったり、星を見たり。課内でフランス語クラブにも入りました。言葉に関心があったんです。知らない言葉で言い合っているのにぞくぞくする。SFに通じる、知らないものに対しての興味ですね。
2年生からは、親が仕事で横浜に引っ越すことになったので学生寮に入りました。多感な時期に一人暮らしをして、先輩がたくさんできて、文庫本を一日一冊は読んで、いろんなものに触れました。自由な生活でしたね。
SF好きの延長から、将来は化学者になろうと考えていました。小学生の頃から実験装置を買ってもらって家で食塩水を煮詰めたりしていたんです。何かを作るのに関心があって、化学しかないなって。
ところが、受験の1ヶ月前、あるハードSF作家に出会ってしまって。何冊読んだかわからないくらいハマりました。最悪ですよ、おかげで浪人が決まりました(笑)。
浪人と同時に横浜に帰ることになりました。横浜には友達がいないから、それがすごく孤独で辛かったですね。大学は都内しか行きたくなかったのに、全然受からなくて。得意なものに絞りこんだかなりマイペースな勉強法だったので、最終的に、2浪しても、家の近くの滑り止めにしか受かりませんでした。
大学に入ってからは比較的真面目に過ごしましたね。長期休みにはアルバイトをして、普段はキリスト教の英語サークルに参加。語学が楽しくて、サークルのリーダーもやりました。外国人、異文化に対する敷居がなくなりました。
あとは、ちょうど大学生の頃にパソコンが出てきたんです。「新しいこと、人と違うことができるな」と思って興味を持ちました。まだパソコン通信のない時代でしたが、持ち出して何かすることが好きだったんですよね。
大学で専攻していた化学もおもしろかったです。SFの影響で白衣を着た怪しい研究者に憧れていたので、初めての実験の時、大学構内を白衣をたなびかせて歩いた時に「かっこいいなオレ」って思いましたね。でも、卒業研究は上手くいかなかった。ものって単純に作れるものじゃない、教科書どおりにはいかないなって実験をやって思いました。
やってきたことを誰かが見てくれた
大学での成績が良かったため、教授の推薦をもらい、卒業後はチッソ株式会社に入社しました。とにかく化学系の会社で研究をしたかったので、漠然と言われたままに入社した感覚ですね。
入社3ヶ月の研修後、研究部門ではなく現場の工場配属が決まりました。その瞬間に社内での将来が見えてしまった感覚がありました。現場の経験が終わったら、生産の管理、その後は事務。「新しいものを開発する颯爽とした俺はどこにいった?」と思いましたね。
働き始めてからも、とにかく現状が嫌で、何かやらなきゃと思い続けていました。そんな時、交代制で16時から勤務の日があり、朝早くに起きて会社の提携施設のプールに泳ぎに行ってみました。そしたら、すごくすっきりしたんです。しかも、よくよく福利厚生を見たら、他にもいろんなことができるんですよ。自分のミスですよね。ちゃんと調べればいろんなことができるのに。それから、英会話学校に行くなど、徹底的に活用させてもらいました。腐ってたけど、常に前向きでしたね。
現場を2年、生産管理を2年経験した後、現場を知っている人がほしいと研究所から声をかけてもらいました。研究所は文献を見るのに英語が必要で、「現場に大卒で山根という変なのがいる」ということで声がかかったんですね。研究所で、プラスチックの素材を開発する基礎研究をすることになりました。元の希望に近い仕事だったので、嬉しかったですね。ラッキーだなって。
研究所に入って4年経ったタイミングで、会社のグローバル展開のため海外駐在員候補を選ぶことになりました。そこで、20人の候補者にたまたま選ばれたんです。社内の英会話講座に参加したり、周りと違うことをしてきたのが、目についたんだと思います。
その研修を1年続けていた頃、香港の事務所で急遽人が必要になったんです。ちょうどその時1泊2日の英語プレゼン研修があって、2日目に発表という流れなのですが、そこでの成果が評価されて香港駐在が決まりました。
周りの候補者は営業の人が多く、引き継ぎや長期の仕事があって難しかったんです。でも僕は研究所の仕事が失敗して、次どうしようかというタイミングだった。人生のピンチの時に必ず何か良いことが起きるなと思いましたね。自分のやってきたことを、ちゃんと誰かが見てくれたのかもしれないですけど。
香港での仕事は営業・貿易業務です。これまで理科系の道を歩んでいたので、営業の仕事に就くことはすごく悩みましたね。でも、もう悩んだところでしょうがないし、研究所にいても40代過ぎたら管理職になっちゃうし、つまらないから行っちゃおうと。それで、香港に行きました。
研究から離れるのはさみしい反面、可能性が広がった感覚もありましたね。同時に、将来どうなるのかなという漠然とした不安もありました。
香港で支給された携帯に惹かれる
香港での仕事は、正直苦痛でしたね。やっぱり営業は苦手だったんです。そもそも、名刺の渡し方も知らなかったんです。香港に来て初めて社会人になりました。夜は自分の時間に使いたいから、お酒を飲むのも苦痛。上司も、そんなやつが来ると思わなかったんでしょう。ビジネス英語もできると思ったら、できやしない。そんな状況でした。
それでも、香港の生活は楽しかったです。それまで会社と工場の往復だったので。香港に行ったら、新しいものがたくさんあるんです。何を喋っているかわからないのも面白かったですね。香港人は外国人を受け入れてくれるわけです。そういう面では香港に来て良かったと思いました。
香港駐在になってから、初めて海外の携帯電話を持ちました。会社から支給されたエリクソンの電話です。同じスウェーデンのイケアの家具みたいに、真っ黄色なんです。こんな携帯見たことありませんでした。当時の日本の携帯は、シルバーで細長、傷もつきやすかったんです。北欧的なデザインの良さに惹かれて、もう持つだけで楽しかった。その時に、「あ、携帯可愛いな」と思ったんです。来る日も愛してやまない、みたいな。
しかし、ある時その携帯を落としてしまって。それで、ノキアに買い替えました。そうしたら、今度はカバーの着せ替えができるんですね。毎日のようにカバーが替えられる。日本の携帯電話はどんどん中身が楽しくなってきますが、海外は外見が楽しくなってくる。
ノキアがどんどん新製品を出して、あれも良いこれも良いって思っていると、また携帯を落としちゃって、買い替えて。そうしているうちに、どんどん携帯電話って楽しいなって。触れるものへの愛着ですよね。
香港は携帯電話の輸入に税金がかからないので、世界中の携帯電話が香港に来てからアジアとかに再輸出される、ある意味携帯の貿易港だったんです。なので、いわゆる闇ビルみたいなところに行くと、イギリスで発売された携帯が当日もう入っているわけですよ。香港の携帯屋さんは、世界の携帯のリアルな動きが見える。とにかく楽しくて。興味を持って毎日行くと、お店の人が面白がってくれて、いろいろ話をして仲良くなりました。
そんな環境にいたこともあって、海外の携帯電話のブログを始めました。もともと書くのは好きだったんですね。会社では改善提案書をめちゃくちゃ書いていたこともありました。圧倒的なインプットがあったからか、それを伝えたい、というのがあったんでしょうね。
すると、最初は趣味で始めたブログが、ちょっと有名になってきました。海外の携帯電話に興味を持った人たちからいろんな連絡が来るようになりました。香港だけでなく、海外の携帯電話の展示会に参加する機会も増えていきました。
お金はあるのに、時間がない
香港で4年勤めて、一端に仕事ができるようになった時、帰国の話が出てきました。でも帰国しても、配属先は営業や貿易です。もうすぐ40歳で研究所に行く選択肢はないし、もともとは理科系なので、営業や貿易はやりたくないと思いました。
そんな時、ドイツのハノーバーで携帯電話の展示会があり、会社を休んでいこうと決めていました。ところが、会社との仕事の折り合いがつかず、休めなかったんです。その頃、私の好きなノキアは絶頂で、夕方頃にニュースを見ると「ノキアが新製品を発表」とか出てるんですよ。それがもう悔しくて。涙ですよ。お金はあるのに、時間がない。自分で好きなことをやるために必要なのはお金じゃない。時間はお金じゃ買えないなって思いましたね。
ちょうど、僕が雑誌に寄稿した記事がマニアの間でうけていたこともあって、会社をやめてライターの仕事を探そうかなと考えるようになりました。香港は転職も多いし、駐在員の4年でお金も貯まっていたんです。香港で結婚もして、共働きすれば大丈夫だろうと思って、4月に海外携帯電話の研究家として独立を決めました。
ところが、辞めたところで寄稿先のアテはないわけです。仕事は季刊誌1つ。年に4回、原稿料が1回4万円程度なので、1年目の年収は10数万円です。いろんな方を紹介してもらって会っていましたが、すぐに仕事に繋がらなかったですね。失業保険をもらいながら生活していました。
独立した翌年3月、ドイツ・ハノーバーでの展示会に行きました。1年前、駐在員の時に行けなくて悔しかった展示会です。ノキアのブースに行った時は、鼻血出るかと思いましたね(笑)。今売っているノキアの携帯電話が全部そこにあるわけですよ。
すると、以前日本で会った編集の方がたまたまその展示会に来ていて、「原稿書きませんか」って声をかけてもらえたんです。「海外の携帯電話のことを書いてほしい」と。まず4本ほど書かせてもらって、それから、連載をもらえるようになりました。
日本に海外の携帯が入ってきても、知識や接触タイミング的に、誰一人同じような記事を書けないわけですよ。僕は携帯が大好きで海外を飛び回っていて、たぶんすごい熱い文章が書けたんですね。そこでようやく、海外担当という感じで、書くメディアが少しずつ増えてきました。
そのうち「山根と言えば海外メーカーに強い」という評価を得るようになりました。海外メーカーが日本に入ってくるときにはコンタクト先を探して、海外で発表会があると「自費で飛ぶから入場の手配だけお願いします」と言ってあちこち行くんです。行って最新の情報掴んでレポートを書いて記事にして。海外のメーカーが日本に入ってくるのは他の国よりも遅いことが多いんです。世界で発売して3ヶ月後とか。それに対して、僕は日本での発売前にもう現地に行って取材をしている。この人は動く人だと、業界の中でわかってもらえたんだと思います。
会社を辞めて5年くらいかかりましたが、なんとか死なないくらいの生活ができるようになりました。
通信を通して、人はどうなっていくのか
現在は、世界中の携帯電話事情についてのライティングと、海外の携帯電話市場についてのコンサルティングをしています。仕事の中心はライターですが、書くために仕事をしているんじゃなくて、業界を研究してアウトプットしています。だから例えば展示会に行っても、記事を書かずに情報収集だけ、ということもあります。勉強して、それを書いたらお金になるから、夢みたいな職業です。
だから、ライターじゃないのかなって。たとえば海外の携帯電話のお店に行って見たり感じたりしたものを書きたい、伝えたい。日本では伝えられていないけど海外にこんな可愛い携帯が売っている、俺が携帯を伝えてやるっていう反骨心でブログを始めたので、もともとはブロガーですね。
新しい携帯が出る時は、何を変えてくれたんだろうとワクワクしますね。発表会でメッセージを聞いて、こんな機能をつけましたって聞いたら自分で試したくなる。本当に携帯のことしか考えてないですね。中途半端に好きなわけじゃない、人には負けないです。
一番は、好きなことをやりたいんです。生活費を削ってでも好きなことをやり続けていますね。なので「明日飛べない?」って言われたときに飛べるんですよ。実際に、翌日に韓国に行ったことは何度もあります。「週末にロンドンで発表会があるんだけど」と言われて行ったこともありますね。
時間が自由になる分、時間も責任も自分で管理しなくちゃならない。でも、やっぱり好きなことができるのは大きいし、その好きな業界、通信業界が動いているから、やまほどできることがあるんです。
お金のことは考えなければいけないんだろうけど、とにかく世界中を飛び回りたいですね。新製品を触った時の感動って今でも変わらないんです。「これかー」みたいな。携帯電話という好きなものに出会えて、それがたまたま伸びている業界で良かったです。
今は、1年の3分の2くらいは海外にいます。最近は車やデザインの展示会にも参加するようになりました。というのも、全て繋がっているんです。
もともとは携帯電話の端末そのものが好きだったんです。ただ、端末はネットワークに繋がる。そうすると、「ネットワークで何ができるか」と考えるようになるし、「手で持つものだから洋服に合わせるべきじゃないか」と、人間工学やファッションにも興味が出てきます。携帯電話は常に肌身離さず持って、通信して情報が集まるから、これから人間ってどうなっていくのかなと。通信業界がもっと生活を楽しくしてくれるかな、今は何が起きているのかなと調べているんです。
だから、世の中の動きがどうなっているかは、常に調べています。車の展示会に行っても、通信側の視点から見た記事を書けるように、見ておかなきゃと思います。
今後は、携帯電話のコレクターとして博物館を作りたいですね。以前、友達の事務所に空きがあったので、博物館を作っていたんです。携帯電話を500~600台くらい並べて。友達とか調査会社の人とか、意外と見に来てくれました。今は残念ながら閉館しているので、数年以内にまた作る予定です。そして携帯電話も自分のブランドの物を作りたいですね。今、中国で200万くらいあったら作れるんです。絶対作りたいです。
他に、よく冗談で言うのは、展示会で「ジャパンの山根だわ」って言われるようになれたらいいなって思いますね。これからもずっと携帯電話に関わり続けて、行く末は歳をとって杖を突きながらでも展示会場で取材を続けたいなとか。ちょっと迷惑かかりますが(笑)。
あとは、通信が行き着くところまで見届けたいですね。人のコミュニケーションがどうなっていくのか、人と人はどうやって繋がっていくか、関心があります。人見知りだからこそ、そこに繋がるのかもしれないですが。携帯ひとつ持つことによって、平等な世界というか、みんなが幸せになる。かっこつけじゃなくて、夢がありますよね。
2018.02.05
山根 康宏
やまね やすひろ|携帯電話研究家
香港在住の携帯電話研究家。世界中の携帯電話事情を追い求め、1年の3分の2を海外取材に費やす。日本で知られざる海外メーカーやサービスについて精通している。海外渡航時は現地のスマートフォンを必ず買い求めるコレクターでもあり、収集した海外携帯電話の数は約1500台に達する。
編集部おすすめ記事2019.10.11
編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
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