「3日間PCに触れなかったら、死んじゃいますよ。」
興味があることだけ、という生き方。
飲食店向けのタブレットアプリを提供するスタートアップで、CTOとして経営・開発に携わる増井さん。「PCに3日触れなかったら死んでしまう」と話すほど好きなプログラミングを仕事にし続けるのには、人知れぬ葛藤がありました。
増井 雄一郎
ますい ゆういちろう|エンジニア兼経営者
飲食店向けのタブレットアプリを提供する株式会社トレタにて、CTOを務める。
他にも、オープンソース活動としてMobiRuby、個人サービスとしてwri.peを作成中。
トレタ
MobiRuby
wri.pe
興味があることしかやらない
昔から、好き嫌いがはっきりしていて、興味があることしかやらない子供でした。本を読むことや、生物等理数系の勉強に関心がある反面、その他の科目は嫌いで、学校でも全くついていけなかったんです。中学の三者面談で、「あなたの息子さんは行ける高校がない」と言われ、さすがに親も驚いていましたね。
もともと色々なものを創るのが好きな親の影響もあり、科学部に入り実験などをしていたのですが、特に、部室にあったパソコンを触っているのが面白かったんですよね。そんな背景もあり、高校に行くなら少しでも好きなことをできる方面に行こうと思い、勉強して、工業高校に進学することに決めました。
高校時代は楽しかったですね。学校柄、勉強する必要がなく(笑)、学校が終わると家に帰り、入学祝いで買ってもらった、科学室と同じパソコンを、ずっと触っていました。プログラムを組んで雑誌やコンテストに出したり、高校の中で同じような嗜好の友人と一緒に、毎日楽しく過ごしていました。毎日、無遅刻無欠席の皆勤賞でしたよ。
レジ打ちバイトのはずがフリーランスに
高校2年になると、新しいパソコンが欲しくなり、夏休みの暇つぶしもかねて、写真屋さんでレジ打ちのバイトに申し込みました。ところが、履歴書に好きなことはパソコンと書いたこともあり、「データ入力の仕事をしない?」と誘われたんです。
その方が良いなと思い始めたは良いものの、その入力ソフトが使いにくかったので、自分で作ることにしました。そんなことをしているうちに、お店に出入りしている会計士の方に、その技術を活かして、別のクライアントの案件をやってみないか?と、仕事を紹介してもらったんです。
高校生ながらクライアントのヒアリングのために飛行機で移動したりして、ただのレジ打ちのバイトのはずが、気づけばフリーランスになっていました。
卒業が近づくと、そのままフリーランスという選択もあったのですが、もう少し遊んでいたいという気持ちもあり、大学に行くことにしました。数Ⅰが終わらないような高校だったこともあり、一般受験は難しいため、情報処理の資格を利用し、一芸入試で文系大学の経営学部に入りました。
会計士の方と働く中で経営に関心を持ったこともありましたし、工業高校から同じような工業大学に行ってしまうと、ずっと男子ばかりで、人生どうかと思ったんですよね。(笑)
経営者かエンジニアか
大学に入ると、「情報処理概論」という授業で教えている内容が古い、と教授に噛み付いたことをキッカケに、こいつは面白いと思ってもらい、教授室を使わせてもらえるようになりました。
それからは教授室に寝袋を持ち込み、掲示板やメーリングリストなど、一日中インターネットを触っていました。授業が終わると教授室でPCを触り、バイトに出かけ、夜中は友達と遊びにいくといった調子でした。ひどい時は、外に出ることが面倒で、部屋にあった乾パンと氷砂糖、それに牛乳で済ませていたこともありましたね。
個人の仕事は増えていたので、スーツも買わず、就職活動は全く考えませんでした。逆に、個人だけでは回らなくなってきたこともあり、法人化して、高校の友人に手伝ってもらうようになったんです。
学生という立場だと面白がられることもあり、会社をやりながら、結局6年も大学生をやっていましたね。
卒業後も、ある種学生気分の延長で会社をやっていました。ところが、業績は悪くなかったのですが、社員が増えていくと、段々自分がコードを書く時間がとれなくなっていったんです。
これからのことを考えても、経営者に振ってちゃんと会社をやるのか、エンジニアに専念するのか、どちらかを選択しなければ、と迷うようになったんですよね。
外部から社長をつれてくることは難しかったこともあり、実質、会社を続けるかどうかの判断でした。
そんな決断を控え、感じたのは、「コードを書く方が好き」ということでした。
経営者はキャリアを積んでからでもできるけれど、エンジニアは一度離れると戻って来れないことも大きかったですね。
周りの社員が「どちらでもいいよ」と言ってくれたこともあり、会社をたたみ、既存の仕事は他の社員に振り、自分はゼロからフリーランスになることに決めました。
アメリカとの大きな差を感じない
仕事は持たずにフリーランスになったものの、幸い実績があったこともあり、色々と仕事を振ってもらえるようになりました。
そんな折、日本でも流行り始めていた、Ruby on Railsのカンファレンスが、アメリカで初めて開かれるということを知り、ITの領域ではアメリカの方が先進的だという感覚も強かったので、実際に参加してみることにしたんです。
ところが、英語は全くできなかったので、かなり苦労しました。入国審査からかなり手間取り、先が思いやられたのを覚えています。
ただ、一週間ほど滞在すると、なんとか買い物くらいはできるようになったんですよね。それに何よりも、カンファレンスに出席してみて、技術的にアメリカと大きな差を感じなかったんです。
実際に最先端の場に立ち会ってみて、語学だけあれば対等に話せるという感覚を持つようになったんですよ。
そんな背景もあり、そのまま最先端のアメリカで働こうと決めました。情報量も多いし、一年くらいいれば、英語もしゃべれるんじゃないかと思ったんです。現地で働くビザを取るため、アメリカで起業することに決めました。
それから2年半、iphoneアプリの開発などを行っていたのですが、ちょうどリーマンショックと重なってしまったこともあり、アメリカのスタートアップに転職することにしました。
当初はエンジニアとして入る予定だったのですが、ビザの関係で日本に戻っていたこともあり、日本市場への普及活動を行うエバンジェリストとして働くことになったんです。初めはせっかくだからいいかと思ったのですが、普及活動がうまく行った分、その仕事を離れられなくなってしまったんですよね。
それまでずっとこだわっていた「コードを書く」ということから、長期間離れることになってしまったんです。
自分にとってさすがにそれは厳しいと思い、退職をすることに決めました。
技術も経営も両方楽しめるようになった
退職後、知人の紹介で仕事を手伝っていた人と、スタートアップを創業に参加することにしました。
もともとは、私が創りたかったものと同じアイデアを考えている人がいる、とのことで友人から紹介されたんですよね。アイデアこそ変わってしまったのですが、せっかくだから一緒に創ろうということなったんです。
現在はそのうちの一つの事業で、飲食店向けの予約台帳をタブレット一台で代替できるアプリケーションを創っています。初めは完全にエンジニアとしてコードを書いていたのですが、途中からは経営の割合も増えてきました。
最初に起業したときは技術と経営の両立ができず、結局会社をたたんでしまうことになったのですが、それから色々経験を積んだこともあり、今は両方を楽しめていますね。色々見て大人になったのも大きいかもしれません。(笑)
その他にも最近は講演の活動が増えてきています。色々な所でお声かけいただき、講演をする中で、それがキッカケで自分のやりたいもの作りの機会をもらえるんです。
自分がやりたいことをやるのに、ステージは広い方が良いと思うんですよね。
だから、海外でも招待講演をできるようになるのが、今の目標の一つです。
昔から好きなことをやり続けてきて、今もそれは変わりません。コードをかかないということが無いし、食事も面倒に感じることすらあります。
コードを書かなかったら何をして暮らしていいのかわからないですよ。
2014.06.05
編集部おすすめ記事2019.10.11
編集部の伊藤です。秋は悩みの多い季節と言われます。例えば、ファッション。先週真夏日があったと思ったら、今週は台風到来と秋は天気が激しく変わるので、何を着るか悩みますよね。でも、そこで無難なファッションを選ぶと気分が上がらない。ファッションが心理状態に与える影響の大きさは様々な研究が示していますが、実はanother life.にもその実例があるんです。今回は、ファッションをきっかけに自分に自信がついた3名のストーリーをご紹介します。ぜひご覧ください。
寝たきりの17歳と社会を繋いだファッション。恩返しのためにパイオニアとして切り拓く道。
ファッションを通じて自信を取り戻してほしい!コンプレックスをチャームポイントに。
人生にBefore/Afterを!「短髪・体育会・ジャージが私服」だった私だからできること。