見島唯一の診療所で働く看護師。
離島医療の最前線で奮闘し続ける。
幼いころから、ずっと看護師を志していた天賀さん。一時は介護士を目指すも、看護の道へと進みました。現在は、出身地である見島の診療所で看護師として働いています。そんな天賀さんに、これまでの半生と、離島医療の最前線の現状をうかがいました。
天賀 友紀
あまが ゆき|離島の看護師
見島の診療所に勤めている看護師。
家族の影響で看護師を夢見る
山口県萩市の離島、見島で生まれ育ちました。母も父も元々島の人です。小さい頃はすごく地味で、根暗で無口、運動もできなくて、いじめの対象になるような子どもでした。漫画と小説ばかり読んでいて、本だけが友達でした。
母は看護師で、父は市役所に勤めていました。だから、急患があって自衛隊ヘリを飛ばすとなると、父と母が両方いなくなるんです。後日、助かった人がお礼に来ることもしょっちゅうでした。そういうのを見ていて、小学生になる前から、私もだれかを助けられたらいいなと思うようになりました。
私が小学6年生から中学2年生だった3年間、弟は市外の病院で入院していました。そこで看護師や患者の方と関わることが多くて、だんだん夢が現実味を帯びてきました。
特に印象的だった出来事として、患者さんが折った折り紙があります。中学校1年か2年生のとき、折り紙で丸い花を作ろうとしたんですけど、私には作り方が全然わかりませんでした。すると、弟の入院先にいた知的障害者の方が、全部教えてくれたんです。そのとき、なんて素晴らしいんだろうって思ったんです。
私の方が、多分その人より勉強はできるんですけど、この人は、私ができないことができる。私の方ができることもあるけど、彼・彼女たちは、私よりも何倍もすごいことができるんです。それに気づいて、すごく感動したんです。
その経験もあって、医療に関わりたい、看護師になりたいと本格的に思いはじめました。ただ、勉強が苦手で、クラスメイト12人のうちの最下位争いをしている状況。看護師になるのは難しいと感じている時、介護福祉士ならなれるんじゃないかなって思いました。ちょうど介護福祉科の高校に推薦で入れそうだったんです。それで、介護福祉士になるため、山口市の高校へ進学しました。
福祉の道から看護の道へ
島を出て山口で暮らし始めてすぐは、ホームシックになりましたね。ところが、島外の生活を楽しみ始めてからは、一変して島には絶対に帰りたくないと思うようになりました。コンビニが24時間やっていたり、レンタルビデオ屋さんがあったり、島では中々食べられないケーキも普通食べれる。その環境が、幸せでしょうがなかったんです。
高校では介護福祉科で勉強し、介護福祉士と、ヘルパー1級を取りました。偶然にも実習先は、弟が小学生の頃入院して、毎週のように通っていた病院でした。なんだか運命的なものを感じて、「介護福祉士になるっていう未来があったから、子どもの頃ここで学んでたのかも」とかって思っちゃいました。
一方で、実習中、不満に思うこともありました。介護施設には、看護師さんも絶対いるんですね。入所者の方と接しているのは介護士なのに、血圧測定とか傷の処置とか、身体を動かしていいかの判断は、看護師さんがするです。私でもできそうなことなのに「看護師さんじゃないとダメ」っていう場面が何度もあって。それが悔しくて、どうせなら看護師の資格も取ったらいいんじゃないかと思いました。
学校の介護専門教科の成績は良かったので、推薦であればなんとか看護学校に進めそうでした。一般入試だったら無理だったと思うんですけどね。それで、推薦枠があった岡山県の看護学校へ進学しました。
看護学校には、看護師という同じ目標を持ち、それぞれの夢を持った人たちが集まっていました。未来についての話を一緒にできるのが楽しかったです。うまく患者さんと接することができなかったり、実習記録がうまく書けなかったり、苦労もしましたが、がんばって卒業しました。
看護師の苦労と島への里帰り
看護学校を卒業して、岡山県の病院に就職しました。人の死が目の前にあるということが、初めはすごく怖かったです。亡くなってからご遺体をきれいにするまでは「人」として扱うんですけど、その後は「ご遺体」として接するんですよね。その事実を、自分の中でどう処理していいか分かりませんでした。
ご遺体に綿を鼻や口の中に詰めるとき「自分だったらこんなことされたくない」という風に思ってしまいました。患者様が亡くなる直前に遺族の方が「どうしたらいいですか」って泣いているときに、私もどうしたらいいかわからなくて、なにもできなかったこともあります。
そういう苦い経験をし続けるうちに、自分に置き換えることをやめました。「この人はこの人の人生」って割り切るようにしたんです。感情が鈍くなってしまったのかもしれませんが、なんとか自分のなかで折り合いをつけた感じです。
怒られたり失敗したり、何をしてもうまくいかないときは、「この仕事は向いていない」って落ち込むこともありました。でも、私はこの仕事しかしりません。人助けをしている父と母の姿を見て、勉強も医療福祉しかしたことがなく、他の職種のバイトもしたことがありません。「私にはこれしかない」っていう気持ちでやっていました。
しかし、働きはじめて4,5年経ったとき、私はこのままでいいんだろうかと思い始めました。目標がなくなってしまったんです。それまでは、ずっと目標があったんです。介護福祉士になる。看護師になる。そのために受験に通るという目標があったんですけど、仕事を始めてからは目標がなくなってしまって。私は今、何を目指しているんだろうかみたいな感じです。
同僚や先輩たちは「こういうことをしたいから辞めます」って言って退職していたときだったので、余計に自分は何をしたいか悩み、気持ちが沈んじゃったんです。私は多分ここにいてもダメ。仕事を辞めることにしました。
母親の体調もあまり良くなかったので、見島に戻りました。しばらくしたらまた島を出る予定で、一時的な里帰り、休息期間のつもりでしたね。
帰って最初の1ヶ月は、本当に大変でした。何もないんですよ。テレビもいくつかの局しか映りませんし、人もあまり歩いてない上に、店もすぐに閉まる。することがないので家にいると、古い家なので、ダニがいたのか、体中が痒くなったりもしました(笑)。
それでも島から出たら、働かないと生活できなくなります。とにかく休みたかったので、実家で家事をしたり散歩をしたり、人と関わらずにのんびりとしていました。
島唯一の診療所で働き始める
ゆっくり休憩して、そろそろ島を出ようかなと思っていたときに、たまたま診療所の医療事務に欠員が出ました。市役所が募集を出しても応募がなくて、市役所で働く父からの頼みもあって、医療事務として働くことになりました。
医療事務の仕事は一から勉強しましたが、看護師の資格もあるし、薬剤業務とかもするので、あまり困りはしませんでしたね。
しばらくして、二人いた看護師のうち、おひとりが結婚を機に退職することになりました。看護師を募集しても集まらないだろうという話になって、医療事務は新しく応募してくれた子に引き継いで、私は看護師として働くことになりました。
元々島を出るつもりだったので、看護師になるのはお断りしようかと思いましたよ。でも、父やまわりの人に切実にお願いされると、断れませんでした。それに、僻地診療に関わるのも一つの経験になると思いましたから。
ただ、この島で育った私にとって、患者さんが全員知っている人っていうのはつらいですね。子どもの頃から知っているおじいちゃん、おばあちゃんたちが、血を吐いてそのまま亡くなったりとか。知っている人が目の前で亡くなるのは、やっぱり悲しいです。
あと、休まる時間がないんですよね。休みはあるんですけど、急患用に、常に診療所の携帯電話を持ち歩くんです。いつ呼ばれるかわからからなくて、携帯をお風呂にもトイレにも持っていくような状態です。みんな私のことを知っているので、家や個人携帯に電話がかかってくることもしょっちゅうです。休んでいる感覚や自分の時間がなくて、大変さはあります。
そんな環境なので、ある日突然、逃げたくなったこともありました。でも、見島に来てくれる看護師がいないんですよ。私が辞めてももう一人の看護師がいますが、私も一時期ひとりで切り盛りしていたので、私が辞めちゃうと、もうひとりの看護師の人にその大変さを経験させることになっちゃいます。
自分が辞めた時の影響を考えると、結婚みたいにすごく大きな理由がないと辞められないんだろうなって思っています。
離島医療の厳しい現実
見島で看護師として働くようになって5年ほど経ちます。見島診療所には、県の僻地医療支援部から派遣される先生一人と看護師二名が常駐しています。歯科医院も併設されていて、歯科医と歯科助手がそれぞれ一人ずついます。
看護師の役割は、患者さんに寄り添うことだと考えています。医師が提供しようとしていることを患者さんに噛み砕いて伝えたり、患者さんが不安に思っていることを取り除くこと。患者さんは、お医者さんより看護師に対しての方が、不安を言いやすいものです。話を聞いて、本人が答えを出せるように一緒に考えたり、患者さんと一緒に悩んであげたりするのが大切ですね。
特に、離島のような環境では、患者さんとの距離は大きな病院と比べてずっと近くなります。地域医療看護師みたいに、人と接しながら医療に関わりたい人にとっては、やり甲斐があり、すごく魅力的な仕事だと思うんです。
また、色々な医師と話せるのも魅力です。大きな病院で働いている時は、数人の医師としか話しませんが、ここは数年毎に先生が派遣されるので、色々な方と話せます。以前は、医師と話すときにちょっとした遠慮がありましたが、ここではそうは言っていられません。最近では言い合いをするほど、近い距離で本音で話せます。
救急の仕事も多いので、一次救急のスキルを上げたい人にも合っていると思います。私自身、ここで学ばせてもらったことは多くありますし、看護師としての自信に繋がりました。
ただ、プレッシャーは大きいですね。救急では、一歩間違えば目の前の人の人生を大きく左右させていまいます。亡くなった方の家族にも、どんな声をかければいいのか、すごく悩むことがあります。自分の言動が良かったのか、その人の背景を考えなきゃいけないんだなって強く思うようになりました。
長期間になるとプレッシャーと責任が重過ぎて、耐えられなくなってしまうかもしれません。また、最先端の医療を学ぶことも、難しい環境です。現場でのスキルを磨ける一方、最先端の医療を知ることはできません。
派遣される医師は期間が決まっていますが、看護師は見島での直接採用なので、期限がありません。自分が生まれ育った島ではあるけど、ずっと続けるのは、正直大変だと思ってしまうこともあります。看護師も、医師と同じように、何年かおきに大きな病院と交互に働けたら、気持ちの上ではすごく楽ですね。
私自身、最新の治療を学びたい気持ちもありますが、今の見島を出ることはできない。この島で頑張りたいという気持ちと、出たいという気持ち、どちらもあります。
悩みに悩んでしまった時、以前見島にいた医師の先生に「最新の治療を学べないことがつらい」と相談したことがあります。その時に、「その気持ちもわかる。僕はいま最先端医療にいるけども、君は今、最前線にいるんだ。だからそれは誇りを持っていい」という言葉を頂きました。その言葉が、今の私の支えになっています。
将来どんな看護師になりたいか、自分でも模索しているところ。必要とされる見島で看護師をしながら、今後どうなりたいかも、考えていきたいと思います。
2017.08.09
天賀 友紀
あまが ゆき|離島の看護師
見島の診療所に勤めている看護師。
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