振り付けとダンサーの掛け算が大きな火を生む。
バレリーナの先に見出した、表現の可能性。

バレエの振付家として、これから10年は勉強の身だと語る関さん。中学3年からのアメリカ・バレエ留学、現地のバレエ団でプロのバレリーナとしての活動を経て、振付家の道へ。表現を追求し続けた先につくりたいものとは。お話を伺いました。

関 あさみ

せき あさみ|バレエの振付家
バレエの振付家。

バレエ漬けの毎日


札幌で生まれました。小さい頃から落ち着きのない子どもでしたね。鉄棒から落ちて肋骨を折ったり、スキーで木に激突したり、怪我が多かったです。注意力散漫だったのかもしれません、じっと座って勉強することも苦手でした。

好きだったのは、舞台や演劇などの非日常の世界です。母が舞台に連れて行ってくれて、ステージ上で繰り広げられることにわくわくしました。

3歳の時、母が近所のバレエ教室に連れて行ってくれました。見学だけの予定でしたが、先生に「ちょっとやってみる?」と誘ってもらいました。実際にやってみたらすごく楽しかったんですね、それからスタジオに通うようになりました。

ルールは厳しいし、トウシューズは痛い。けれど、決められたルールの中で、いかに挑戦していくかが面白かったです。週2回しかお稽古がなくて、「もっと練習したい」とずっと思っていました。

ピアノや水泳や習字も習っていましたが、生活の90%はバレエでした。バレエだけは、自分の中に理想像があったんです。テクニックも表現力も高い理想があって、とにかくそこに行きたい。先生の手の動きを自分もできるようになりたいとか、バレリーナの映像を見てこういうふうになりたいとか。

将来はバレリーナになりたくて、中学に入学した頃から、バレエで海外に行きたいとずっと言っていました。

中学3年の9月、海外からバレエの先生が来て、レッスンをしてくれる講習会がありました。プロに教えている先生から、直接指導を受けられるんです。東京まで受けに行ってみると、レッスンの内容が全然違いました。日本だと、生徒は先生に言われたことを黙々と実践することが多いんです。でもそのレッスンでは、先生のアドバイスに対し自分の意見をしっかり返すことが求められる。すごく刺激を受けました。

何より、その先生から「9月から、アメリカの学校においで」と言ってもらえたんです。「毎日バレエができる!」と思いました。迷いは全くなく、両親を説得し、学校の休学の手続きをして、英語を勉強し始めました。

留学を経て、プロのバレリーナに


中学3年の9月、アメリカの芸術学校に留学しました。14時まで高校の授業があり、その後はアートや文学、音楽、バレエなど、自分の専門分野の授業を受ける形態でした。

バレエの授業は、もう楽しくて楽しくて。すごく良い環境で、全てが楽しかったですね。先生が1人ではなく、4~5人いて教えることがちょっと違うので、ノートに書き留めて、頭の中で準備をしてからクラスを受けるんです。日本だと同世代の子が少なかったんですが、アメリカではいろいろな国籍のライバルがたくさんいる環境で、すごく良い刺激でした。日本だと2年に1回だった舞台に、3ヶ月ごとに立てました。

留学前から日本のスタジオに所属していて、そこがコンペティションにも力をいれていたので、コンクールに出始めました。夏休みで帰国していた時、あるコンクールの予選を受けました。予選に通るとありがたいことに、アメリカのバレエ学校で特別レッスンをつけてもらうなど、コンクールに出やすい環境を整えてもらいました。私だけ特別にレッスンをつけてもらっていたので、結果を残さないとまずい、練習しなきゃ、とプレッシャーを感じました。

16歳の時、ニューヨークで決勝に出場し、優勝することができました。賞を受け取った時、本当に良かったと胸をなでおろしましたね。

芸術学校後の進路について、いきなりプロになる場合、どういうことが求められるのかわからなかったので、バレエの専門学校に進むことにしました。小さなバレエ団が付属している専門学校だったので、お金を頂いてバレエ公演に出演をしつつ、フィードバックをもらえる環境でした。プロと学生の間にいる感じでしたね。

芸術学校とちがって午前中の授業がなく、朝から晩までずっとバレエ漬けの日々でした。周りの子も、さらに上を目指す人たちばかりで、切磋琢磨しました。自分の想いも強くなり、負けず嫌いな面が出てきて、舞台で主役になりたいと思うようになりましたね。コンクールにはあまり出ませんでしたが、舞台で主役をいただけるようになり、評価してもらえるようになりました。

2年目から、バレエ団のオーディションを受け始めました。毎年1月から5月まで、オーディションシーズンなんです。小さなスタジオに150人くらい集まり、立って足をしゅっと前に出すポーズだけで50人くらい落ちます。そういうオーディションをいろいろ受けて、テネシー州にあるバレエ団に受かりました。

21歳の頃、バレエ団に入団し、プロのダンサーとして活動することになりました。新しい環境はすごく新鮮でしたね。バレエ学校ではユニフォームがあったりレオタードの色が決まっていたり、全て規則がきちんとしているんです。しかしプロは全て自己責任です。今日は足の調子が悪いのでジャンプをしないとか、自分の判断でやっていく。バレエ学校だと指摘されていた部分も、全部自分で直していかないといけない。そんな環境でした。

舞台でも変わりますよね。お金をいただくし、求められるレベルは高くなる。舞台稽古でもちょっと噛み合わないところがあるとすぐに止めてやり直す。すごく意識が高いです。

私は舞台の真ん中で踊ることを目標にしていました。白鳥の湖の群舞で見せる動きなどは、ピタッと皆の動き合わせないといけないのが難しいです。でも真ん中で踊る時には、自分はこういうふうに表現したいんだっていう、自分の表現が中心の世界です。それが好きだったんですよね。

舞台の裏側を学び、振付家を目指す


バレエ団で2年ほど活動した後、帰国しました。札幌で舞台があるから出ないかと声をかけてもらえたんですよね。一回日本に戻って出てみたいと思いました。

もともとアメリカ滞在の期限は決めておらず、ビザ次第だったんですね。就労ビザはそんなに長くもらえず、更新しなきゃいけなかったんです。アメリカは車社会ですが、私は免許もなかったし、ちょうど良い機会でした。海外のバレエカンパニーは日本よりも環境が整っているので、そこで踊り続けたいという気持ちはありましたが、その分日本で違う経験をしようと思いました。

帰国後、札幌のバレエスタジオに所属しました。毎月お給料をいただいてバレエの公演に出る仕組みではないので、講師の仕事でお給料をいただくようになりました。バレエを教える機会が増えて、最初の2年はアシスタントでしたが、3年目から講師としてクラスを任せてもらえるようになりました。

所属しているバレエスタジオでは、文化財団から援助を受けてバレエをいろいろな地域に届ける公演をしていました。バレエダンサーが準備を全てやるんですね。アメリカのバレエ団では踊るだけだったんですが、衣装の持ち運びや、準備から後片付けまでやっている。舞台裏の部分を学ぶことができました。

それから、舞台を作る裏方に少しずつ興味が向いてきたんです。

28歳の時、毎年行われる舞台で作品を発表させてもらいました。私が全く出演しない作品です。その時にすごく良い反応を頂けて。それが嬉しくて、制作をしたいという思いが強くなっていきました。

元々、演じていても観ていても、既視感があってイマイチ新鮮味がないと思うことがありました。何か違う表現方法もあるんじゃないかって感じたんですよね。そこで、私は何ができるだろうかと考えた時に、もらった振りを踊るだけじゃなくて、自分で作れば良いんだと思いました。30歳の頃、「振付がやりたい」と思い至ったんです。

自分が踊るより、裏側のほうが、もっと大きな火になると思ったんですね。訓練されたダンサーを育てることで、作品の完成度もぐっと高くなるじゃないですか。自分が頭の中で考えていることを、他の人の身体に移す。私が作ったものとダンサーの演技は足し算じゃなくて、掛け算なんですよね。ダンサーの個性と私の作った動きで予想以上のものができることがあって。そういう時に感動が生まれるんです。

表現したいものを見せる


振り付けについてもっと深く勉強したいと思い、1年間ワシントンDCの振り付けの学校に行きました。

音楽から構想を得て作る方法とか、動きからフレーズにしていく方法とか、ダンサーに指示を出してダンサーの動きから良いものを選んでいく方法とか、いくつか振り付けを作るプロセスがあることを学びました。自分で動いてみて、短いフレーズを作って、それをダンサーに踊ってもらうのが、私は一番合ってるなと思いましたね。

バレエの舞台は1時間半から2時間です。だいたい一幕30分から45分くらいで、それが2~3幕連なって、一つのプログラムになるんですね。レベルの高い振付家だと、1人で一つのプログラムを完成させます。私はまだ一幕しかやったことがないです。一幕を作るのに20時間以上は必要ですね。20時間ずっとダンサーといるわけではなくて、自分の中で考える時間も含めて。振り付けを考えるのは終わりがなくて、もっと良くしようと思うと永遠に出てくるんですよ。1週間に1幕はなかなかできないですね。

大きな舞台だと、曲を指示されることはありますが、指示がない場合は、ダンサーに合わせて曲を選びます。動きにルールはないですが、低い動きが続くとダイナミックさが足りないとか、ゆっくりした動きが続いているからテンポを変えるような動きを入れるとか。

私は何かテーマがあったほうが作りやすいですね。以前は怒りというテーマで作りました。テーマはその時々で関心のあるものですね。でも最初に決めたテーマで進めて作っていくうちに、全然違うテーマで終わることも結構あります。

作品は、観ている人を圧倒させる何かが必要なのと、音楽性や振り付けの完成度も評価されます。

ダンサーは与えられたものの中で作る。振付家は与えるものを作る。踊りの知識だけじゃなくて、ライトとか衣装とかも全て含めて、自分で意思決定をしていく必要があって、余計難しいと思います。その分、表現したいものがダイレクトに見せられる。自分の経験だったり、これを表現したいと思う本の一節だったり。

踊り手は身体の動きだけで表現するので、例えば踊ってる時、トウシューズの床へのつき方だけで違う意味合いを表現できたりします。そういう細かい部分を追求するのがすごく楽しいですね。自分自身で踊っている時もそうでしたが、今の振り付けに関しても同じです。細かい作業をしていくのがすごく面白いですね。

自分で思ったことを作るだけだとアマチュア。思ったことを観た人に理解してもらって初めて振り付けを作る意味があるから、どう伝わるかが一番大事だと、学校で教わりました。その点が一番難しいところですね。

作品の責任って振付家にあると思うんです。ダンサーが美しい踊りをしても、ひどい作品だったら、それは振付家の責任なんですよね。なので、踊るよりも責任は重大になりました。でも、もっと大きなものを与えられる仕事なので、ダンサーの頃よりも楽しいですね。全然バレエを観ない人から、「バレエのことはよくわからないけど、おもしろかったよ」と言ってもらえるとすごく嬉しいですね。

札幌で、舞台をもっと身近なものに


今は、主に振り付け、自分で作品を作ることをしています。所属しているバレエスタジオや、振り付けの学校などで、振り付けを発表させていただきました。

今年の9月からは、ワシントンDCにあるバレエ学校で、振付家としてフルタイムで仕事をします。700名ほどいる大きなバレエ学校で、バレエコンクールに出場する人たちのダンスや、定期公演に出す作品を、振り付けるのが仕事です。

今後は、振付家としてキャリアアップしていきたいですし、たくさん作品を作る場がほしいんです。作品のクオリティもどんどん高めていきたい。これから10年はまだ勉強の身だと思っています。

経験を積んだら、札幌で舞台をやりたいですね。私自身、良い作品を観た時の衝撃や感動は、今でも印象に残っているので、そういう舞台を作りたいです。札幌では、私がここまで来るのに、力を貸してもらったり知識を与えてもらったり、いろいろなサポートをしてもらったので、そのお返しをしたいんです。

北海道は、東京や海外と比べてバレエの世界が閉鎖的なんです。舞台を観に来てくださる人はいつもだいたい同じ方々で、本当に一部の人たちにしかバレエが浸透していないんです。観に来てほしいと誘うと「敷居が高い」と言われたり、バレエに誘うと「身体が硬い」と言われる。それを変えたいですね。どういうやり方で人が来ているか、どういう捉え方で楽しんでいるかを海外で吸収してきて、北海道もオープンにしていきたいですね。

ワシントンDCで良いなと思ったのは、ケネディ・センターという大きなシアターです。毎日無料で夜6時からパフォーマンスが見れるんです。チケットも要らないので、ふらっとジーンズ姿の近所の人が来る。パフォーマーたちも何か提供する場があるし、お散歩がてら何かのアートを毎日見れるのは、すごく良い取り組みだと思いました。有名なバレエ団も来て、だれでも受講できるマスタークラスをすることもある。バレエ初心者の人が、プロがどう動いているのかを間近で見れる。安い金額でクラスを受けられる。そういうシステムがすごく良くできていて、理想だと思いました。

バレエに限らず、表現に触れられる環境がもっと身近にあれば良いなと思います。北海道は会館やシアターなど場所はあるんですよね。東京には良い舞台がたくさんありますが、札幌までなかなか来ないんです。もっと観てもらえる、観たいと思えるおもしろい舞台を札幌まで呼びたいです。札幌でもアートが盛んだという地盤があれば、最初から視野に入れてくれると思うんです。いつもなかなか触れる機会がない方に、映画のような感覚で観ていただきたいですね。

来年、新しく札幌に芸術文化会館ができるんです。それこそケネディ・センターのように使えるようになったらいいと思う。その後は芸術文化会館に、舞台を呼んだり発表したり、毎日使えるくらい、将来は関わっていきたいです。

2017.07.07

関 あさみ

せき あさみ|バレエの振付家
バレエの振付家。

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