バドミントンに救われ、生かされている。
人生をリセットした今、伝えたいこと。

バドミントンを通じてスポーツの楽しさを伝える活動を行う小椋さん。北京オリンピック5位入賞、全日本総合バドミントン選手権では5連覇という華々しい成果を残す一方で、怪我や周囲の期待に葛藤することもあったそうです。現役を引退し、「人生をリセットした」と語る小椋さんが、今伝えたいこととは。お話を伺いました。

小椋 久美子

おぐら くみこ|バドミントンを通じて自身の経験を伝える
1983年7月5日生まれ。三重県出身。8歳の時、姉の影響を受け地元のスポーツ少年団でバドミントンを始める。中学卒業後、四天王寺高校へ進学。2000年に全国高校総体でダブルス準優勝、2001年の全国高校選抜でシングルス準優勝を果たす。三洋電機入社後の2002年には全日本総合バドミントン選手権シングルスで優勝。その後、ダブルスプレーヤーに転向し、北京オリンピックで5位入賞、全日本総合バドミントン選手権では5連覇を達成。2010年1月に現役を引退。同年3月、三洋電機を退社。現在は解説や講演、子供たちへの指導を中心にバドミントンを通じてスポーツの楽しさを伝える活動を行っている。

【2017年6月25日イベント登壇!】another life. Sunday Morning Cafe 〜あなたの未来を変える生き方〜

純粋にシャトルを追いかけるのが好き


三重県三重郡川越町で生まれました。4人兄妹の3番目で、小さい頃から好奇心が強くて怖いもの知らずな性格でした。親に怒られて、押入れに入れられてもそのまま寝てしまう、外に放り出されてもどこかに行ってしまう。私だけピーピー音がなる靴を穿かされたこともありました。

小さい頃から運動が好きで、水泳、合気道など、習い事をたくさんしていました。その中で一番早く結果が出たのがバドミントンでした。姉の影響で8歳から始めて、シャトルを追いかけるのがすごく好きだったんですよね。相手が決めようと思ったショットを拾ったり、相手が読んだ逆のコースにショットが決まったりするのが快感だったんです。一対一でシンプルだったのもよかったですね。

小学3年生の時に県大会で3位になって、4年生からは東海大会で連続優勝。水泳とか他の種目だとどうしても勝てない子がいたんですが、バドミントンではそれがなくて、3つ上のお姉ちゃんと互角に打ち合えることもありました。負けず嫌いな性格だったので、どんどん上達していきました。

中学のバドミントン部は、県内では強い方でしたが、顧問の先生はソフトテニスをしていた方でしたし、全国区の強豪校とは全く違いました。私自身、全国大会に出るようになってからも、純粋にシャトルを追いかけるのが好きなのは変わらなくて。好きなことを続けていたら結果が出て、というような感覚です。とにかく大好きすぎて、楽しすぎて、1日も練習を休んでないんですよね。中3の時には全国で3位になり、大阪の強豪校から推薦のお話をいただきました。

でも、進路はすぐに決められず迷いました。実は、小学生の頃から保育士になりたかったんです。とにかく小さい子が大好きで、8個下のいとこの面倒を見るのがすごく楽しくて。だから、元々は地元の高校に推薦で入って、卒業後は岐阜の短大で保育士の免許を取ろうと考えてました。もし大阪の高校に行くなら、保育士の夢は捨ててバドミントン選手を目指すことになる。分岐点でした。

最終的には、大阪の高校に進学しました。やっぱり毎日やっているバドミントンの方が、保育士よりリアルなイメージを描きやすかったんです。小学生の時から地元の高校にお世話になっていたので、県外に出ることで三重県を裏切るような申し訳なさがあったんですけど、母や顧問の先生が「こっちは全部任せていいから、自分の好きな道に行っていいよ」って言ってくれて、心が決まりました。期待や愛情を感じるのと同時に、それに応えようっていう責任感も生まれましたね。

もう自分一人のバドミントンじゃない


高校からは環境がガラッとかわりました。強豪校で、優勝以外意味がないって雰囲気があって、監督が怖くて、いつも怒られながらヘロヘロになるまで練習をしていました。正直、何回もやめたいって思いましたね。

ある時、怪我をして実家に帰ると、父親から「もうやめていいよ」と言われました。その時に初めて「あ、やめちゃダメだ」って思ったんですよね。前の私だったらやめられたけど、推薦で来ているし、周りの人に支えられて送り出してもらってる。もう自分一人のバドミントンじゃないなって。

ホームシックになったり、体育館に爆弾落ちないかなって思ったり、プレッシャーが大きかったですね。純粋に楽しむ感覚はなくなりました。あまり自分に自信が持てなくて、「お前はセンスがある」と言われても、その期待に答えられない自分が嫌で、そう言って欲しくなくて。身長が高いことに評価をされても、自分の努力の結果じゃないからすごく悔しく感じて。色々なことに葛藤してましたね。

厳しい環境だった分、そこで勝利を得られた時は嬉しかったですね。高校2年生からはジュニアの日本代表として海外で試合もするようになって、選手として一皮剥けた気がします。

そんな中、高3の時にヘルニアを患い1ヶ月以上練習ができなくなりました。最初は軽い怪我かと思ってたんですが、毎日学校から病院に行って、強い注射をしても全然治らない。あまりに治りが遅いし激痛が続くし、このまま選手には戻れないかもしれないと感じました。

不思議と、絶望はなくて、あっけらかんとしてました。むしろ、バドミントンを続けられなかったら、実家に帰って大学に行きながら保育士の資格を取ろうと考えていて。それができなければ地元の企業に就職しようって。

結果的に、無事怪我を直すことができ、3年のインターハイにも出場することができました。さらに、そんな状況にもかかわらず、ある電機メーカーから実業団チームに誘ってもらえたんです。もともと練習に参加させてもらっていたチームで、怪我で成績が伸びない中でも声をかけてもらったことに驚きましたね。実家に帰ることも考えたんですが、最終的にはお世話になったチームに入りたいと思い、電機メーカーへの就職を決めました。

死ぬ気で4年後を目指そう


就職してからは、週2回、半日だけ働いて、あとはずっと練習をしていました。お金をもらってバドミントンをするようになって、さらに責任感が大きくなりましたね。

選手としてのスタートは好調でした。1年目の全日本総合バドミントン選手権シングルスで優勝できたんです。完全にまぐれで、誰も期待しないダークホースで運が良いだけでしたけどね。背負うものがなくて、伸び伸びプレーをしていました。2年目からは、ダブルスでオリンピックに出場するという目標を決めました。

ところが、オリンピックをかけた1年間の選考レースが始まってすぐ、大きな怪我をしてしまったんです。大会に間に合わないから、歩くだけでも痛いのに手術だけは受けないって言って。あまりにお先真っ暗すぎて、「なんで今なんだろう」って思いましたね。パートナーのれいちゃん(潮田玲子選手)に申し訳ないっていう気持ちも大きかったです。よく怪我をした時に「今は神様が休養した方がいいと言ってる」って言われるけど、本当に神様がいるんだったらオリンピック終わった後でもいいしょって。

考え方が変わったのは、「怪我には理由があるんだよ」というコーチの言葉がきっかけでした。振り返って理由を考えてみたら、1年目の優勝以来、自分の中でどこかがむしゃらさがなくなっていたんです。他にも、今の私は人に感動を与えてないなとか、優しくできてないなとか、いろんなことが溢れ出て来て。「怪我をしてもしょうがなかったんだな」って思いましたね。そこで仕方ないと思えて、手術を決めました。オリンピック出場は逃したんですが、選ばれた先輩ペアが、怪我をしても痛みに堪えながら試合をしている姿を見て、こんなギリギリまで追い込まないとオリンピックには出られないんだ、と気づいたのも大きかったです。

そこから、れいちゃんと2人で死ぬ気で4年間頑張ろう、北京オリンピックに出ようって決めました。どんなことがあっても頑張ろうって。れいちゃんとは高校のジュニア代表でペアを組んで以来、社会人になっても同じチームでプレーしていて、何かのタイミングで必ず2人で喋るんですよね。お互い同じように思っていることが多くて。目標ができて、それまでと姿勢が明確に変わりましたね。

北京オリンピック


選考レースを経て北京オリンピック出場が決まった時は、ほっとしたというのが正直な感想です。それまでの経験から、設定した目標以上は叶わないと考えていたので、あくまでオリンピク出場は通過点、メダルを獲ることを目標にしていました。やっとスタートラインにたったような感覚でしたね。


一方で、ものすごく追い込まれている自分もいました。大会まで残り3ヶ月なのに、メダルを取れる位置にいないって思ってるんですよ。上にこの選手がいるから、ここで勝たないとメダルがないっていう風にわかっていて。実力と自信が足りなかったんです。

その差を3ヶ月間で埋めるためにとにかく追い込んで、心と体のバランスが全然取れなくなってしまって。焦って怪我も再発して、自分の中のいい形でオリンピックに望むことができなくて。とにかく思い切ってプレーしよう、緊張しないようにしよう。それだけ考えていました。

北京に着いて練習を始めると、案外緊張していないことに驚きましたね。体育館のチェックをして、普通に練習ができて。当日、会場に入ってコートの横に集まってからも、れいちゃんと2人で「いよいよ始まるね」って会話をして。

ところが、自分の名前をコールされた瞬間から、尋常じゃないくらいの緊張が始まりました。なんかもう全然覚えていないですね。コールされてコートに入っていく感覚がない。緊張しないように自分で殻を作っていただけで、本当はめっちゃ緊張していたんですね。

試合中は、地に足がついていない感覚でした。緊張していても頭と体が一致してれば、「緊張してるからこうしよう」って動けるんですけど、全然考えられない。頭も体も止まってしまって、もう悪循環がすごすぎて。れいちゃんも相手選手も、みんな緊張してましたね。考えられたのは「1点取ろう、1点取ろう」「1球、次の1球」ということだけでした。

試合が終わった後もどんな内容だったか覚えてないんです。唯一覚えているのは、こっちからこっちに流れてアウトしたな、とか、そういう断片的な記憶。本当に覚えてないですねオリンピックは。

なんとか初戦のデンマーク戦に勝って、ベスト4進出をかけて戦ったのは開催国の中国ペア。途中までずっとシーソーゲームで本当に苦しかったです。言っていいのかわからないですけど、初めて逃げ出したいって思いました。今までそんなこと思ったことないくらい苦しかったです。一個逃げ出したら一気に点数を取られるんじゃないかっていう恐怖心とか、一つ隙を見せたら終わるっていう感覚があって。これを21点、3ゲーム続けなきゃいけないのかって思ったらすごい苦しかったんですよね。その感覚は人生で初めてでした。

試合に負けて残った感情は、悔いでした。4年間あんなに頑張ってきたのに、この一瞬で力を発揮できない、いい試合をできない悔い。負けたとしても満足する試合ができたら、多分悔しいと思っても悔いは残らないと思うんです。あれだけ頑張って、あれだけの思いをもって4年間やってきたのに、いい試合できなかったなって。

人生のリセット


オリンピックの後は後輩を育てることにシフトしようと思いました。自分を育ててくれたチームへの恩返しのために、選手としての活動は続けながら、育成に力を入れようって。

ところが、今度は身体を壊してしまったんです。さらには、周りの人に悲観されているんじゃないかと思って、人と会うことが嫌になったり、思い悩むことも増えたりして。バドミントン以前に、普段の生活にも影響が出て、1年くらいコートに戻れない日々が続いて。このままだとダメだな、潰れちゃうなと思いました。チームはずっと待っていてくれるけど、これ以上迷惑をかけられない。そこで、26歳で現役引退を決めました。

これまでバドミントンしかやってこなかったし、本当に好きだったから、やめるのがこんなに難しいんだっていうのは強く感じましたね。本当に二転三転して、なかなか決められなくて。でも、やっぱり最終的には、本当に無理だったんだと思います。もう選手には戻れないって感じて。引退を決意して伝えた時には楽になりましたね。

それからは、一度環境を変えようと思って、元々好きだった子ども達にスポーツやバドミントンの魅力を伝える講習会で全国を周るようになりました。結婚・離婚と環境の変化も重なって、本当に一度リセットしたような感覚でしたね。

多分、それまで、人からこう思われているんじゃないかっていうのを背負いすぎてたんです。 こういう風に試合に負けたりしたらみんなに叩かれるだろうとか。他にも、プレッシャーとか、支えてくれる人を裏切ったという罪悪感とか、あることないこと出回る噂とか、いろんなことを抱え込んで自分の中で大変な時期があって。

でも、ある時から、もうどうでもいい、周りの勝手にすればいいじゃんって思えたんですよね。言い方が難しいんですけど、自分の中で一回死んだなって思ったんですよね。それで開き直れたんです。自分のことを大切に思ってくれる人はきっといるだろうし、あとは直接会って話した感覚だったり肌感だったり、そういう感覚を大切にしようと思って。そう思えたのが一番大きかったですね。

それからは周りの環境が一変しました。選手時代から友達が少なくて人と会うタイプでは全然なかったんですけど、今は友達とどこにでも行っちゃうし、小さい頃の自分に似てますね。

他の誰かのきっかけになりたい


今は、バドミントンを通じて、スポーツの楽しさを伝える活動を行なっています。具体的には、子どもたちにスポーツの楽しさや魅力を伝えるイベントや講習をしています。技術よりも自分の経験を伝えていて、指導というよりは普及に近い活動です。他にも、テレビでスポーツ全般のコメンテーターやバドミントンの解説などの仕事もしています。

正直、引退した直後は、何かを伝えたいと強く思っていたわけではありません。でも、選手から離れて自分と向き合う時間が増えて、誰かに自分の考えを伝えることに対して、それまで以上に真剣になって、気持ちが変わったんですよね。子どもだけじゃなくて、大人の方にも、私のうまくいったこと、失敗したことの実体験を伝えることで、何かきっかけを届けたいと思うようになったんです。

私自身、順風満帆にいったタイプではないので、どうしたら自分がもっといい人生を送れるかのきっかけを人の話からもらうことが多いんです。人が歩んできた人生の重みとか深みがすごい好きなんですよね。だから、私の経験も誰かのきっかけになればいいなっていうのをどこかで思っているんです。本当に、人に会いたくないような時期もありましたけど、今は「人って満更でもないな」って。

これからの話で言うと、まずは2020年の東京オリンピックに向けて、今の私の立場からできることを準備しようと思います。やるべきことをやらないと残り3年間で悔いを残しちゃうと思うんですよね。今は解説者やコメンテーターとして色々な取材をしたり発信をしたりする機会をいただいているんですが、すごく自分自身が生き生きしているなと思います。すごく楽しいなって。喋るのは全然うまくないし、言葉もポンポン出てくるわけではないんですけど、熱量を大切にしています。

やっぱり、私はバトミントンに救われた部分、生かされている部分があるんです。今こうやって活動ができているのもバドミントンのおかげだから、恩返ししなきゃって気持ちが強いですね。そういう意味で、おこがましいけど、使命感に近い感覚です。今はやりたいこととやらなきゃいけないことが重なっていて、すごく幸せだなって感じますね。正直今が一番幸せって思えているかもしれないです。

2017.05.17

小椋 久美子

おぐら くみこ|バドミントンを通じて自身の経験を伝える
1983年7月5日生まれ。三重県出身。8歳の時、姉の影響を受け地元のスポーツ少年団でバドミントンを始める。中学卒業後、四天王寺高校へ進学。2000年に全国高校総体でダブルス準優勝、2001年の全国高校選抜でシングルス準優勝を果たす。三洋電機入社後の2002年には全日本総合バドミントン選手権シングルスで優勝。その後、ダブルスプレーヤーに転向し、北京オリンピックで5位入賞、全日本総合バドミントン選手権では5連覇を達成。2010年1月に現役を引退。同年3月、三洋電機を退社。現在は解説や講演、子供たちへの指導を中心にバドミントンを通じてスポーツの楽しさを伝える活動を行っている。

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