代々続く家業の酒を継ぐ、女性蔵人。
蔵人、経営者、女性としての悩みと決意。
島根県大田市にある、明治29年創業の一宮酒造。代々続く酒蔵の跡を継ぐ女性蔵人、浅野さん。地元大好き、家族大好き。その想いを原動力に蔵人として酒造りをしています。歴史を受け継ぐことへのプレッシャーを背負い、女性としての生き方にも日々奮闘しながら、蔵人として歩き出した浅野さんにお話を伺いました。
浅野 理可
あさの りか|蔵人
島根県にある一宮酒造次期当主。「ここにしかない酒造り」を目指し、日々奮闘している。
私が継がないなら、誰が継ぐの?
島根県大田市で生まれました。三姉妹の次女で、自然の中で自由に育ちました。毎日、全身泥だらけ。山で遊んだり、ケガもよくしていました。姉妹一おてんばで、いつもバタバタ走り回っていましたね。
実家は、明治29年創業の日本酒の酒造メーカー。よく蔵に遊びに行き、敷地内にあった壊れかけていた酒造りに使う半切という桶に井戸水を入れ、プール代わりにして遊んでいるような子どもでした。
小さい頃は、自分が酒蔵の娘だという特別な意識はありませんでした。父親や杜氏のおじさんたちの働く姿を見て育ちましたが、それをあたりまえとしか思わないんです。ラベル貼りや瓶詰めの手伝いをしたり、酒蔵で遊んだりはしていましたけど、もちろんその頃は、お酒も口にしませんし。中学生ぐらいになって、同級生の男の子たちからお酒について聞かれるようになり、ようやく徐々に自覚してきたんです。「うちは酒蔵なんだ」って。
ただ、小さい頃から、何となく家を継ぐのは私だという空気がありました。姉も妹もやりたいことがあって跡を継ぐ気はなかったですし、私にはやりたいことはなかったので。
私は母から好きなように生きていいと言われて育ち、継げと言われたことは一度もないんです。だからこそでしょうか、逆に酒蔵が気になってしまって。明確に意識したのは、高校1年生の時に、文理選択をした時です。将来のことを考えて、「私が継がんなら、誰が継ぐの?私しかおらんじゃん」と思ったんです。
父や従業員の方たちの働く背中が、自分の中に強くあったのかもしれませんね。継ぐということがどういうことか、どれだけ大変なのか、イメージはできませんでしたが、とにかく、将来跡継ぎになることだけは決めました。
高校卒業後は、東京農業大学に進みました。学校推薦の枠をもらえたことに加えて、父の希望でもあったんです。私は地元や家族が大好きで、みんなと離れたくなくて、島根から出るつもりはありませんでした。父はそんな私に、東京に行って人脈を作って来いと言うんです。農大では酒造りが学べるだけでなく、実家が酒蔵の人も多いので、何か繋がりができるかもしれないと。要は、4年間修行をしてこい、ということでした。
そうだ!私が造ればいいんだ
大学に入ってから、人生で初めて日本酒について勉強しました。それまで、酒蔵で生まれたからといって、特に何かをして来たわけではないですから。お酒の味を覚えたのも、この頃からですね。同じ学科の先輩が知り合いを集めて、蔵の跡継ぎばかりで飲んだりもしていました。すべての経験がとても新鮮でした。
大学時代は、立ち飲みもできる酒屋で4年間アルバイトをしていました。そこには、お酒好きな常連さんがたくさんいらして。最初は楽しく話しているだけで良かったのですが、私が蔵元の娘だと分かると、だんだん、実家のお酒について訊かれるようになるんです。「どういうコンセプトなの?」「どういう気持で造っているの?」と。
私は家の酒造りに関わっているわけではないので、全く答えられません。最初は「杜氏さんに聞いておきます!」と答えていましたし、心の中では答えられなくて仕方ないなと思っていました。
しかし、訊かれる回数が増えていくと次第に、自分の知識が乏しいことや、答えられないことに悔しさを感じたりもするようになって。「また答えられんかったわ」「答えられたらもっといろんな話ができるのに」と。
そんな時、お客さんから「自分で造ればいいじゃん」と言われたんです。最初は、女性が酒造りをしているなんて聞いたことがなかったので、「私でもできるんですか?」と聞いちゃいました。すると、最近は女性の蔵人も多いからと言われ、そういう選択肢があることを知りました。
それで、ある日のアルバイト中に、「酒造りをする」と決意したんです。お酒に込めた気持ちを語るために、自分で蔵人になればいい。そう思ったんですね。お客さんの前で宣言すると、みんな応援してくれました。お客さんに喜んでもらえるのが嬉しくて、期待に応えたいって思いましたね。
実家を継いで、しかも酒造りをすると決めたので、4年の時には酒造りの研究室に入り、山形の酒蔵の息子さんとペアを組みました。泊まり込みで麹を作ったり、毎日学校に行って発酵の具合を見たりと仕込みをするんです。2人とも面倒くさがりだったので、毎日何かをする大変さも感じましたが、ドキドキワクワクしながら酒を造っていましたね。
働き始めて感じたプレッシャー
就職活動の時期になると、父からはどこかの酒屋や酒造で働くようにと言われました。ただ、私自身は、外の世界で働くことに気持ちが向きませんでした。一度他の場所で働くことが将来に活きるとは分かっていたんですが、東京で暮らし続ける不安や地元に帰りたい気持ちが勝ってしまったんです。
私は大好きな家族や友達がいる地元が大好きだったんですね。大切な人たちと身近に暮らして、おかえりと言ってくれる家族と一緒に働きたかった。あと、東京ライフもそれなりに謳歌しましたが、東京の人の多さには慣れませんでしたし、地元島根の魅力には勝てませんでした。島根の空港に降り立ち、一面の畑を見て空気を吸った瞬間、「やっぱりここがいいな」と思ったんです。
結局、就活はせずに島根に戻り、実家の酒蔵で働き始めました。1年目は、製造、営業、事務と、とにかく一通りの仕事を覚えることに専念しました。2年目は1年目にやっていないことに挑戦する、というように仕事の幅を広げていきました。得意先の顔も分からなかったので、父に着いて得意先回りもしました。
それまでは、家を継ぐことの意味がほとんど何も分かっていなかったのですが、働くことで、初めて会社のことや日本酒業界のことが見えてきました。
元々、造り手として杜氏を目指す予定でしたが、跡継ぎとなると経営のことも考え、営業などもしなければなりません。うちは、店頭での販売も卸もどちらもやっていますし。冬場の酒造りのことだけ考えていれば良い、というわけではありませんでした。
バランスを考えなくちゃいけないとは分かるんですが、どうしたらいいかまだ明確には見えていないところです。父がまだ元気なので、私に甘えがあるのかもしれません。自分が会社を引っ張っていく自信もまだないので、父になるべく長く働いてもらいたいと内心思っています。継がなくてはという気持ちはありながら、何年後には、という明確な目標も覚悟も未だ持てていないのが現実です。
女性としてのキャリア
実家の一宮酒造で働き始め、今年で4年目になります。日本酒造りは冬場だけになるので、冬場は蔵人として製造に専念しつつ、それ以外の時期は配達、販売、地元はもちろん、東京でも営業をしています。イベントに参加したり、展示会で飲食店や卸売業者との商談もします。イベントは、直にお客様と顔を合わせて意見を聞くことができる、貴重な場所。やりがいを感じる瞬間でもあります。
一方で、新規開拓は苦手です。人と触れ合うのは好きなんですが、商談をして、もし受け入れてもらえなかったことを考えると、腰が重くなってしまうんです。ビジネスとして売り込んでいくというより、人とのふれあいの中で自社のお酒の良さを伝えていく方が、私としては得意なので。それをどう克服するかも、今の私の課題です。
世の中の大きな流れとして、造り酒屋は減っていますが、出荷量が増えている酒蔵もあります。いかに出荷を安定させていくかは、やり方次第でできることだと思います。
その中で、私たちは、水、米、リキュールの原料もすべて、地元、島根のものにこだわって造っています。造っている量は少ないですが、他社のお酒と差別化するための戦略も、日々考えています。
ただ、私は規模をどんどん大きくしていこうとは考えていません。今は使われていないタンクなどがあるので、それを全部稼働させたいとは思っていますが、今ある大きさの中で、今あるものを最大限に使って、より良く運営していきたいと思っているんです。代々繋がれてきた糸を絶やさないように。
お客さんには、「ここにしかないもの」を求めて欲しいと考えています。広く浅く知ってもらえるよりも、強力なファンが欲しいんです。どこにでもあるのではなくて「ここだったら飲める」というお酒。売り切れても「冬まで待ちます」と言ってもらえるお酒。そんなお酒を目指しています。
お客さんが、うちのお酒の写真を「今、家で飲んでます!」といってSNSに投稿してくださることがあります。これが一番うれしいですね。重いお酒をわざわざ買って、家まで持って帰ってくれるんですから。
自分が造ったお酒を、飲んでくれる人がいる。そう思うと、なんとか造り続けたいんですよね。初めて日本酒を口にした時も、嫌な感じはせず、すっと自分の中に入ってきた気がしたんです。私が酒蔵に生まれたのも、運命なのかもしれませんね。
蔵人、経営者、女性としての葛藤
今、私は造り手として、経営者としてどんな道を歩むべきなのか、岐路に立たされています。一宮酒造は小さな会社で、社員は8人で、酒造りをするのは4人です。内2人は、別の業務も兼ねているので、酒造り専門の造り手は2人だけ。ところが、その2名が高齢で、体力的に厳しくなりリタイアすることになったんです。
お酒を造らないことには販売もできないので、まず人材の確保をしなければなりません。もしベテランの方が入ってきてくれたら、私も教わりながらできるのですが。そうでない場合は、私が先頭に立ってかなり本腰で造りに回らなければなりません。それで、私が教育して後継者を育成するのか、それとも私自身が杜氏になるのか、ということになりますよね。
それなら、とにかく私がガッツリと蔵に入ろうかと思っていたんですが、そんな矢先にちょうど結婚することになったんです。結婚をすると、この先、子どもを産むことも具体的にイメージできるようになって、ひとりの女性としての悩みにも直面しています。
酒造りに集中するなら、仕事のスタイル的にも数年間は子育ては厳しいのでは、と思うんです。でも、子どもを産みたい気持ちもあります。子育てをしている女性蔵人もいらっしゃるので、意見を聞いたりもしています。
ただ、そもそも造り手の採用ができるかも分からない状況なので、これからどうするかを、今まさに、みんなで議論していることろなんです。
普段あまり小さなことに悩んだりしない性格ですが、そんな私でも働き始めて2,3年ほどたった頃は色々と悩むことも多く、置手紙を残して家を出て行くという夢を見たこともありました。酒蔵を継ぐという選択肢を捨てることができたら。そんな想いに駆られることもあります。
そんな時、いつも出てくるのは家族の顔です。やっぱり自分の大好きな両親、姉、妹、そして応援してくださる方たちの期待を裏切ることはできないんです。蔵人として、経営者として、女性として。悩みは尽きませんが、試行錯誤しながら、チャレンジしていきたいと思っています。
元々酒蔵は、私の祖父である母方の父親が、跡継ぎとして守ってきた母方の実家なんです。そこに私の父が入る形になり、酒蔵を受け継いできました。私の父は、元々は税理士を目指していて、母は教師でした。酒造りも知らないところから始まり、酒蔵は受け継がれ、今や父が一宮酒造の経営を担っています。祖父から父へと繋がり、今度は私の番です。
父も守り続けてきたように、代々続いてきた酒蔵を、私の代で終わらせてはいけない。それだけは強く感じているんです。だから、色々と大変なことはありますが、家業はなんとしてでも守り抜きたい。この糸を繋いでいくために、今の状況を突破しなければと考えているんです。
2016.09.01
浅野 理可
あさの りか|蔵人
島根県にある一宮酒造次期当主。「ここにしかない酒造り」を目指し、日々奮闘している。
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