多面的な報道で日本に貢献したい。
アイデンティティを活かした番組作り。

日本を覆う閉塞感を打ち破ろうと活動する、市井の人に密着したドキュメンタリー番組『夢の扉+』のチーフプロデューサーを務めた黒岩さん。海外と日本を行ったり来たりする学生時代に得た、日本人としてのアイデンティティとテレビへの関心。多面的な報道に込める日本への想いとは。

黒岩 亜純

くろいわ あずみ|TBSテレビ報道局勤務
TBSテレビ報道局勤務。

アイデンティティに悩んだ学生時代


東京都世田谷区に生まれました。父が新聞記者で引っ越しが多く、小さい頃から国内外を転々としていました。2歳から4歳までイギリスで、4歳から7歳まで長野と神奈川で暮らしました。

転校が多いので、環境に早く馴染みたいといつも思っていました。馴染むためには環境をよく見て、どう振る舞えばいいかを考える必要があって、物事を客観的に見る癖がつきました。自然と感情のままに動くことが、できなくなっていました。感覚が違う人たちと一緒に過ごす緊張感を、常に感じていました。

7歳でまたイギリスに戻りました。日本人としてのアイデンティティが芽生え、これから日本で暮らしていこうという時に、急に引っ越しが決まりました。

イギリスでは、自分の個性を発揮する大切さに気づきました。私はイギリス人よりかは手先が器用で、皆、針に糸を通すことが苦手でした。すると、他の授業を受けている時も、美術室に呼ばれて「ちょっと糸を通して」と先生から頼まれるんです。強みができたことで、社会に受け入れられた感覚がありましたね。

学校に馴染んだ中学2年生の頃から、自分のアイデンティティに悩み始めました。周りの友達の間で恋愛が始まって、僕ってこのままイギリス人と結婚するのかなと思い始めたんです。一方で自分のアイデンティティとは何か考えるようになりました。兄貴は高校受験で日本に帰っちゃうし、僕は家族と一緒にイギリスに住んでいるんだけど、自分はなに人なんだろうと考え始めちゃって。考えることは苦しくないけど、違和感が消えずに残る感覚に近いです。

結局、日本の高校に進学した兄の後を追いたく、日本に戻ることに決め、高校受験のための勉強を始めました。

イギリスは日本よりも授業の進捗が遅くて、日本の高校を受験するための勉強に苦しみました。これまで小1のとき以外、日本の義務教育を受けていなく、突然の受験勉強で、中々捗らずに苦しんでいると、先生から「お前には才能がない。だけど、努力する能力がある」と言われました。「ええっ!」って感じで、結構ショックでしたね。前半の言葉が響いちゃって(笑)。

それまで、イギリスにいた時は、美術のクラスでも、運動でも数学でも理科でもそれなりにできて。なのに全く才能がないと言われて、「ガーン」と。たしかに、日本の高校の受験勉強を始めてみたら何も分かんないので、当然かもしれませんけど。結構悩みましたが、最後に拠り所として辿りついたのは、「努力をする能力がある」という言葉でした。すごくシンプルなんだけど、「諦めない。誰よりも頑張るんだ」ということを思わされたんですね。その言葉をもらってから、それまでの人生で一番勉強したかもしれないです。

猛勉強の結果、ギリギリのところで都立の進学校に滑り込み。入学式では、周りが学ランを着る中、寒いからと真っ黄色のスキージャケットで参加したり、親戚のお下がりでもらった胸の内側に龍や虎が描かれた学ランを周りに披露したり、テニス部にいながら応援団もやったり、常識を覆す変わったやつだと思われていたかもしれませんね(笑)。周りの友人や自由な校風に恵まれ、高校生活はすごく楽しかったです。

日本のために働きたい


高校2年の時、父の転勤でアメリカのワシントンD.C.に引っ越しました。弁護士や政治家、スポーツ選手などが住む裕福なエリアでした。学校にはエリート学生が集まり、能力主義の空気がありました。 学業では「talent(才能)」という言葉が頻繁に使われ、それまで、才能よりも努力を大事にしていた私は戸惑いました。ちょっと息苦しい環境でした。

高校卒業後、日本の大学に進学すると決めました。迷ったものの、イギリス、日本、アメリカと行き来する中で、やっぱり「自分は日本人だ」というアイデンティティが醸成されていったんです。日本人だから、日本のために働きたい。日本のために働くんだったら日本の大学を卒業した方が良い。そう考えました。さらには国をまたいで、外交官のような仕事の仕方を実現できたらいいなと思っていましたね。

ワシントンD.C.では、その地域固有の特性に反発していた面があるかもしれません。アメリカには本当に色々な地域があるので、西海岸に行けば考え方が違っていたかもしれませんが、ワシントンD.C.の、拝金主義と能力主義に対する反発がありました。イギリスだと、お金とかものの価値よりも、心のつながりとか、そういうことが大事にされていたと感じました。日本の高校でも同じ。友情とか愛情というものの大切さを痛感。アメリカの大学に進学せず、日本の大学に進んだのも、そんな思いがあったからかもしれません。

大学では政治学を専攻しました。サッチャー政権時代のイギリスに暮らし、ワシントンD.C.でレーガン政権を見ていましたし、家では父が、間近に接していた政治家の話をすることもあり、政治は身近なものとして感じていました。勉強以外に、テニス、英語の弁論にも打ち込みました。

テレビというすごいメディア


大学3年で始めた就職活動では、テレビ局以外受けませんでした。自分で見聞きして、感じた想いを表現して伝えていく仕事がしたかったんです。人に会うことが好きで、金勘定は苦手。デスクワークが続くのも好きではありません。BBCやアメリカの三大ネットワークのドキュメンタリーは大好きだったし。そんな風に考えていくと、自分の知っている範囲で残っていた仕事の選択肢は、テレビだけでした。

アメリカにいた時に、スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故を、テレビの生放送で見たのも大きな経験でした。すごく注目された打ち上げでしたが、発射してすぐに、木っ端微塵になってしまったんです。

打ち上げの瞬間は、高校の図書館でテレビの生中継を見ていました、学校のみんなと一緒に。みんなアメリカ人だから、打ち上がると「ヒャー!」と声をあげて拍手をして。そしたら、真っ青な空にいきなり、もくもくもくと、白い煙が右左に流れていって。みんな何が起きているか分からない。「あれー?」という表情で。

ほんとね、一瞬何が起きたか分からないんですよね。爆破したって分かんないから。そしたら、その次の瞬間から聞こえてくるのが、「ピー、ピー…」っていう宇宙との交信の音。それまではテレビの解説者がしゃべっていたんだけど、彼らも話を止めちゃって。そしたら、英語で“There is obviously a malfunction.”( 明らかに異常な事態が起きています。機能不全に陥っています。)と。

段々、現場から悲鳴が聞こえてくるんですよね。明らかに打ち上がってない、異常なことが起きている。散り散りになって部品が地上に落下してくる。歓声が悲鳴に変わっていって。その臨場感、映像と音の世界だけで、こんなに多くの人がショックの渦に包まれちゃう。テレビの力を目の当たりにし、その衝撃が身体の中に残りました。

実はそのとき、父親が、爆発に居合わせた唯一の日本人新聞記者だと聞いています。父はすごい興奮した様子で家に帰ってきて、「大変だ!」と大騒ぎでした。それで、父の書いた記事が新聞の一面を飾るわけです。「これ見てみて、一面になったよ」と。その記事は、涙をちょっと誘うような感情が込められた記事でした。確かに、引きこまれる内容でした。ただ、「映像でみた時のほうが、衝撃を受けた」と、心に中でつぶやいていました。

そんな映像の力に徐々に引き寄せされ、テレビ局を志望するようになり、最終的にTBSに入りました。TBSで放送していた、筑紫哲也さんのニュース番組が好きだったこと、報道特集という骨太の老舗ドキュメンタリー番組があったことが決め手でした。また、内定後にみた、日本初の宇宙飛行士秋山豊寛さんの、宇宙からみると「国境がない」というレポートは、自分が目指すテレビ報道のひとつの目標にもなりました。

ポジティブな報道の可能性


入社後、国際ニュースセンターの配属になり、国際情勢を日本に伝える報道を経験した後、『NEWS23』の担当に異動になり、あこがれていた筑紫さんのもとで仕事をしました。筑紫さんは、報道において3つのことを大事にしていました。権力を監視する役目を担うこと。少数派であることを恐れないこと。多様な意見を取り入れること。特にこの3つでした。自分自身も、共有していた感覚であり、最後、アンカーとして退く際に、それを明確な言葉にして残していただき、自分の放送姿勢の指針となりました。

他にも政治部記者や報道特集のディレクター、ゴールデンタイムの報道番組、大型の特別番組、さらには海外取材から、クリントン大統領や各国首脳の市民対話番組づくりまで、やりたいことは、ほぼ全てやらせてもらいました。

40歳も過ぎた2011年、ドキュメンタリー番組『夢の扉+』のチーフプロデューサーを担当することになりました。『夢の扉+』は、日本を覆う閉塞感を打ち破ろうと頑張っている市井の人に密着したドキュメンタリー番組です。番組作りの一連の監督を行うのはもちろん、支えてくださるスポンサーとの調整や、番組の宣伝活動、海外展開、番組の責任者として様々なバランスをとりながらマネジメントする仕事でした。

夢の扉+は、私の日本人としてのアイデンティティがくすぐられる番組でした。元々、日本のために諦めずに頑張る日本人を後押しするような番組を作りたいと思っていました。夢の扉+では、現在進行形で頑張っている人に密着するので、理想の仕事でした。私自身、毎週の放送でものすごく励まされましたね。どんな状況でも諦めずに努力するという、自分の価値観とすごく合っていました。

番組で密着した方々に教えられたのは、努力を継続することの大切さです。夢を実現するには10年20年30年、時には自分の代では実現できないこともあるということ。それでも諦めずに、次の代にその夢を引き継いでもらえばいい。それぐらい長い時間努力を継続し続ける、そういう夢だってあることを教えられました。夢って、2・3年で実現するものという感覚があるけど、そうじゃないんだと。

事件や事故、裁判に政治対立など、報道の多くはネガティブなものです。殺人事件は毎回扱うけど、レスキュー隊がどんな人を救ったかは毎回報道しない。そんな中、夢の扉+は日の当たらないところに光を当て、非常に前向きな人を取り上げる、ちょっと特異な番組でした。

ニュース番組だと、視聴者の反響の多くが批判なんですよね。番組で扱った特定意見の反対派からの批判もあります。夢の扉+では、視聴者から「感激しました」とか、中には「ありがとうございました」という声が頻繁によせられます。報道して「ありがとうございました」なんて、取材相手から言われることはあっても、視聴者から直接言われることなんてそうめったにはないことです。

ポジティブな報道とネガティブな報道、両方必要だと思うんですね。ネガティブな情報を発信するのも、「こういうことがあってはいけない。なくしたいよね」という意味があって。根底には、世の中を良くしていくためという目的があるわけです。

同じように、世の中を良くしていく、より多くの人たちが幸せになるためには、もうちょっとポジティブな情報を伝えていくのも必要だなと感じました。それは夢の扉で学びましたね。

日本を良くするため、多面的な報道を


現在は、TBSテレビの報道局で、夢の扉+の次の仕事に取り組む準備をしています。5年間チーフプロデューサーを務めた夢の扉+は、2016年3月27日の放送をもって、番組終了を迎えました。

番組の終了は一つの宿命です。そういう事態も起こりうるので、この番組を引き受けた時から、「いつどうなるかわからないよ」とスタッフには言い続けてきました。スタッフも意識してくれていて、番組が終わることになっても、どうにか続ける方法がないか、最善の努力をみんなでしてくれました。もう本当にすごいスタッフで、みんな。粘るんですよ、最後まで。

こんなに頑張っている主人公が世の中にいるのに、自分たちが怠けていられない。僕も夢を追いかける主人公の頑張りに良い意味で洗脳されたし、スタッフも同じだと思います。

番組が終わっても、そのスピリットみたいなものは続くと信じています。たとえばですが、ニュース23から、筑紫哲也さんが離れたときも、筑紫さんが大切にした報道のスピリットは、僕も含めたスタッフの中に残りました。同じように、夢の扉+が終わっても、夢の扉+に出てきた主人公が夢を諦めずに挑戦を続けたような、「諦めないスピリット」は受け継がれていくんだろうなと思っています。

いま、僕には仕事上、夢が2つあります。ひとつは、海外から日本に向け多様な価値観・視点を提供できる報道に関わることと、もうひとつは多様な意見を番組の中に取り入れられる新たな実験的なニュース番組を立ち上げることです。

自分のオリジナルな部分、個性を発揮できるのが、海外と日本をつなぐ分野だと考えています。海外のことを日本に報道する場合、イギリスとアメリカで育ってきた、その感覚を生かしながら自分ならではの報道ができないかと。日本人や日本という国は、世界からどう見られているのか。 また世界の中での日本の役割とは何か、ある種、日本人が日本にいて気がつかない、または忘れてしまっている日本のよさがあると思います。日本人のアイデンティティを確認するという観点からも、世界から日本に向けた多面的な報道が貢献できるのではと考えます。意外と、外国人に日本のことを言われてはっとすることってあるじゃないですか。そういう感覚をぜひ日本に向けて発信したい。

あともうひとつの夢。これまでのような保守と革新、右と左という枠組みにとらわれずに、もっと多様な意見、見方を取り入れた報道番組をつくっていきたいです。同じ番組の中でも賛成・反対の両面をみせるのは当たり前として、A記者が「この法案がすばらしい、こういう人たちを救うことになる」というのに対して、B記者が逆に、「冗談じゃないと、こういう危機的な問題点がある」というような番組構成だったり。Cの視点、Dの視点と、オルターナティブもみせていく。結果的に、見ている人たちを豊かにするのって、多面的に情報を届けることなのかなって思います。ひとつの価値観を押し付けるのではなく、選択肢を与え、見ている側を考えさせるという時代に。

日本は、もっともっと頑張れると思っています。すでに頑張っているんだけど、変に空回りしないようにしたいし、やっている努力が無駄にならないようにしたい。国が良い方向に向かうために何か貢献できないか。そのためにも、従来の考え方を飛び越えて行くような報道をしていきたいです。みんなが豊かになっていくためにも。

2016.04.08

黒岩 亜純

くろいわ あずみ|TBSテレビ報道局勤務
TBSテレビ報道局勤務。

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